早過ぎた「安全宣言」の謎−目次−
その1−悲しい前置き
その2−野菜の放射能測定
その3−早過ぎた「安全宣言」の意味
その4−早過ぎた「安全宣言」のなぜ
その5−早過ぎた「安全宣言」の危険性
その6−早過ぎた「安全宣言」と県民の資格
その7−早過ぎた「安全宣言」を問う
その8−茨城県の回答−情報公開関連部分−

(つづく)


(はじめに)

1999年9月30日午前10時35分、茨城県東海村のウラン燃料加工施設開CO(旧核燃料コンバージョン)で臨界事故が発生し、重傷者3名を含む大勢の放射能被曝や広範囲な放射能汚染をもたらしました。

誰もが想定もしなかった、起るはずのない臨界事故が起り、それが約20時間にもわたる長い時間継続したこと、臨界を止めることはかろうじてできたものの、多数の作業員に大量の被曝を強いることになってしまったこと、一時は臨界の反応が継続し続けたり、核爆発のような爆発的な反応を引き起こして一帯に放射能を撒き散らしてしまう可能性もある危機的な事態に陥いっていたこと、さらに、大勢の周辺住民が長時間にわたって避難しなければならない状況になったことなど、どれひとつとってみても、わが国がかつて経験したことがないきわめて異常な事態が続いていたことがわかります。

事故から10日あまりたった現時点でも、危険な中性子線を一度に大量に全身に浴びて懸命な治療が続けられている3人の作業員の方たちがいます。現場では依然として高い放射線が放出されており、放射性物質の放出が続いています。さらに、中に入って事故の調査や作業を行うことができず、事故の原因となったウランを取り出したり、汚染を除去する方法も見つかっていません。

事故はある意味ではまだ続いているのに、マスコミは事故のニュースを伝えることをやめ、事故の真相を探るために必要な情報を流すことをやめようとしています。そして、何事もなかったように私たちの生活が続けられようとしています。

一方、きわめて重大で異常な事故でありながら、私たちにとっていつもと変わらない事故でもあるような印象を与えるのは、今回もまた、情報伝達と被害を回避するための対策が決定的に遅れ、遅れたことによって大勢の人の健康に危害を及ぼしている可能性があるのにもかかわらず、それに対する責任を誰も追及されることがないまま事故がすでに過ぎ去ったことのように扱われようとしていることと、さまざまな具体的な情報がまたしても全面的に隠されたままになっているということがあるからです。

国民全体を危機にさらすような大事故でありながら、最も基本的な情報である、一部を除く地点のモニタリングポストでの測定値を含め、国や自治体などの公共機関の行っている調査結果や検査結果まで、具体的な数値はほとんど公表されないままであるということは、それ自体としてきわめて異常なことです。

このような現状こそ、東海村の事故が引き起こされた根底の原因になっていた、住民無視、国民不在の原子力政策そのものの姿を映しています。

今回のような危機的で悲惨な事故を二度と繰り返さないために私たちがまずはじめにしなければならないことは、被害の実態を隠したり、正当な理由もなく一部の人が情報を独占する状況を何とかしてやめさせることであると思います。

このような観点から、茨城県が事故のわずか1日後の10月1日、一部の人の避難が続く中で行った農産物の「安全宣言」に焦点をあてて、公共の安全を図るべき行政の役割と責任について考えてみたいと思います。(1999.10.10)


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