良寛さまってどんな人だったのでしょう

良寛という名前は聞いたことがあるけど、あんまり知らない人のために、みつりんが良寛さまの生涯を簡単に説明します。


● 宝暦8年(1758年)に越後の国出雲崎(いずもざき)(現在の新潟県三島郡出雲崎町)にて、伝統のある名主兼神主、橘屋山本家の長男として誕生。幼名は山本栄蔵。父は伊織(以南)、母は秀子。
当時の出雲崎は佐渡金山から荷揚げされる金を江戸まで運ぶための重要な港であり、そのため江戸幕府の直轄地となっており、代官所もあった。したがって、名主・山本家の仕事は単に町内を治めることのほかに、代官と住民との仲介、金の荷揚げの監督、そして海の守り神の神主をも務めるというように多忙をきわめた。
しかしながら、出雲崎港は年々たい積される砂のために遠浅となってきており、大きな船が入りにくくなるにつれ、隣の尼瀬港が大きな船を引き受けるようになる。元々は出雲崎の一部だった尼瀬は後に分離独立、衰退の一途をたどることになる出雲崎港とは対照的に、尼瀬は隆盛をきわめることになる。尼瀬の名主は京屋野口家という移住者で、ことあるごとに伝統を守ろうとする山本家と対立、山本家の失態にもつけこみ勢力を拡大していく。良寛の父・伊織はしだいに現実から逃避して、趣味の俳諧に没頭するようになる。
そんな状況の中で良寛さまは伝統のある名主の後継者として期待されて誕生したのである。
● 栄蔵は頭脳明晰で読書好き、内気でやさしい性格の持ち主だったようである。そのためいつも家にこもっていることが多く、祭りの晩に母に出かけるように言われても、出かけるふりをして庭の灯籠の灯りの下で読書をしているような少年だった。父に、「そんな上目づかいで人をにらむとカレイになってしまうぞ。」と叱られて、自分が本当にカレイになってしまうのだと素直に信じ込み、海岸で海を見つめながら一人で覚悟を決めていたという逸話も残っている。
● 明和2年、栄蔵8歳のとき、山本家の船が沈んで大きな損失を被る。
● 明和7年(1770年)、栄蔵が13歳のとき、地蔵堂(現在の分水町)の新進学者・大森子陽の塾に通う。これは、外で修行することで心身の鍛練をさせようとの両親の配慮からであった。出雲崎と地蔵堂は歩いて通える距離ではないため、父方の親戚の中村家二階に下宿することになる。元々文学的な資質に長けていた栄蔵少年はこの子陽塾で挫折感を味わいながらも、さらに学問に興味を示すようになり、大森子陽を生涯師とあおぐようになる。
● 15歳で栄蔵は元服して、山本新左衛門文孝(泰孝)と名乗る。元服しても山本家にはもどらずに、18歳までの約5年間を子陽塾で過ごす。
● 安永4年、文孝18歳のとき、山本家にもどり名主見習いとなる。しかしながら、周囲が心配したとおり、失敗に失敗をかさねて「昼あんどん」とか「無能」呼ばわりされてしまう。悪政の田沼意次の時代背景が大きく関与していたせいである。生来、曲がったことの大嫌いな性格の文孝は、良心に従って行動することしかできなかった。代官と住民をうまく調和するのが名主の役目であるのに、お互いの悪口をそのまま相手に伝えてしまう。両者の間はますます険悪になってしまい、ついには争いごとがおこることもあったという。
● 世間の荒波の強さを身をもって体験した文孝は、自分の性格では名主の務めは果たせないと、悩みに悩んだあげくに、尼瀬の光照寺の隠居僧・万秀和尚に相談する。すべての状況を理解していた万秀和尚は出家には賛成であった。しかし、名主見習いが出家するのは簡単にできることではない。幸い、文孝には弟・由之(ゆうし)がおり、性格も文孝よりも社交的であったので、住職の玄乗破了と相談の上、文孝は見習いとしてしばらく寺で修行することとなる。
出家することに対して文孝の両親の心は痛んだ。しかしながら、文孝がそのまま名主見習い役を続けていても、本人がますます傷ついてしまうことにもなる。そう考えた両親は、心身を鍛えるために光照寺に入ることを許すことになる。見習い修行の後に立派になって山本家にもどってきてくれる淡い期待を抱いて。
● 正式なお坊さんとしてではなく、修行者としての光照寺での生活が始まる。実家も近いので、この時期は最も安らかな日々だったはず。用事があれば実家に帰ることも許された。厳しい修行というよりは、光照寺に下宿しているような感じだったのかもしれない。
● 安永8年春、光照寺で大きな行事が行われたとき、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)から国仙和尚という有名な和尚が招かれてやってくる。良寛は国仙和尚の世話をするうちに、その魅力にふれ、国仙和尚の弟子になることを願いでる。光照寺の玄乗和尚も賛成し、山本家ではすでに弟・由之が後を継いでいたことから、家族の了解も得ていよいよ得度剃髪(出家して髪をそること)の儀が行われた。国仙和尚一行は同年秋まで越後を回り、その後に岡山に向かった。途中長野の善光寺、大坂を経由して備中の国、玉島円通寺に着く。得度してから良寛の名前を名乗る。
●玉島円通寺でのきびしい修行がはじまる。午前3時の起床にはじまり、座禅、読経、作務などの伝統的な規則にのっとり修行する。月に2度は托鉢に出て付近の村で食を乞う。玉島円通寺での修行は十二年に及んだと言われている。生来の真面目すぎる性格からか、他の雲水と友達になることもなく、孤独感とたたかいながらのきびしい修行となる。
●天明3年(1783)、母秀子が亡くなる。
●寛政2年、師の国仙和尚から印可の偈(お坊さんの証明書のようなもの)を得る。どこの曹洞宗の寺の住職となってもいいわけだが、良寛はけっきょくそれを拒んだ。
●寛政3年(1791年)春、良寛34歳のとき、師の国仙和尚が示寂(じじゃく=名僧の死)する。
●師の国仙和尚を失い、良寛は諸国行脚の旅に出る。中国・四国・九州地方を巡ったと言われている。
●寛政7年(1795年)、良寛38歳のとき、父、以南が京都の桂川に投身自殺をする。
●寛政8年頃、ふるさとを出てから二十年あまりを経て、越後にもどる。しかし、生家にはもどらず雨露をしのげる場所を転々とする。すでに光照寺の和尚も亡くなっており、托鉢生活を越後で続けることになる。生家の山本家にも良寛が戻ったという噂はとどき、弟の由之がかけつけるが、良寛は生家にはもどらない。
●寛政9年春、大森子陽塾時代の仲間、解良叔門、安部定珍、原田鵲斉らの地元実力者の仲介により国上寺中腹の五合庵に移り住む。閑静なたたずまいは晩年の良寛修行の地としては貧しいながらも絶好地であったようである。しかしながら、五合庵は元々国上寺の隠居僧のためのものであったので、時には国上寺の隠居僧がやってくる。そのために一時に庵を明け渡さなければならなくなることもあったらしい。良寛は四十歳から六十歳までの約20年間暮らすことになる。
●文化7年、弟由之の妻が亡くなる。さらに、失策に業を煮やした町民が由之を町から追放、その子馬之助も名主見習い役をやめさせられてしまう。のちに由之は髪を切り、由之上人となり、その子馬之助は紆余曲折ののちに町年寄兼名主になったようである。
●五合庵の便所を焼失し生活が不便になったことや、老齢を考慮し、周囲のすすめで五合庵より少し下った、国上山麓のにある乙子神社の社務所に移り住み、約10年間をそこで過ごす。お坊さんを神社の社務所に住まわせることになったのは、すでに良寛が宗教・宗派を越えた存在であったことを示しているに違いない。
●体も弱り、和島村島崎の木村家の離れに移る。そこでの生活は約5年。
●天保2年1月6日、示寂。良寛74歳。葬列には大雪の中を多くの人々が参列したという。
●天保4年3月、和島村島崎の隆泉寺に良寛禅師の墓が建つ。

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