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実際の「ステルビオ」の生産ではザガート本社の工房が使われ、バンティッジ・ザガートと同じ工程で作業されていたと考えられる。(同時期に生産されたアルファロメオSZは同じ工房で、ほぼ1年以内に生産を終わっている。)
なぜなら「ステルビオ」の外装は「バンティッジ」と同じくアルミ合金を手作業で加工し組み付けていく(但し、ボンネットフードと前後バンパーはカーボン・ファイバー製)という、カロッツェリアの伝統に沿った方法で製作されるため、技能職人と設備が整っている本社工房でなければ製造が不可能であるからで、入念に手作業で形作られたボディーは、1台ずつ丹念に磨き上げられ、美しい塗装(ラッカー塗料が使用された)で仕上げられた後に内装の工程に入っていくのである。
インテリアに関してはベースのF31に準じ、特に電気関係は殆ど流用している。
これは、このクルマの顧客の50%が日本人であること。及び、オーテックと日産が開発に係わっている事を考えると当然の事で、マイナー・トラブルの巣窟となる可能性の高いスペシャル・メイドのインテリアなどを採用する勇気は、当時のイタリア車の惨状を見れば決して持てないであろう。
しかし、一見、F31の内装に本皮とウォール・ナットを張っただけに見えるインテリアも実際は室内空間の変更に対応するため、新たにFRPで作り起こされている部分も多く、元のまま使用されたのは各スイッチ・パネルやステアリング・ポスト、ATセレクターやサイド・レバーなどの改修が不可能なものだけである。
ドライバー&パッセンジャーシートなどは、フレーム(ドライバー側はパワーシート)のみをオーテックが供給し、ステルビオに合うようにザガートが改造を施し、上質な本革で仕上げられた。
フェイシアが市販車の流用であるためか、SZのスパルタンなインテリア・デザインに較べると「手抜き」の誹りを受けるがこれは誤りで、SZのインテリアこそ安普請である。
メーターは汎用品、ダッシュはカーボンファイバー、その他の空調や動作部品もベース車の流用か、系列車の流用(ステアとシートは素晴らしい仕上がりのものが奢られている)で成り立っているのは有名であるが、これは、極めて信頼性の低いイタリア部品を使用している関係上、交換・修理に簡便であることも必要であり、その点では優れた選択といえる。
また、クルマの性格上、SZを選ぶ顧客は、そのスポーツカーとしての魅力を求めて選択しているのであり、多少の不具合や故障に対しては寛容であると考えられるが、「ステルビオ」の顧客は高級グランド・ツーリングとして求めているのであり、不具合や故障などは決して許さないであろう
このような観点から考えても「ステルビオ」のインテリアをベース車両から大幅に改修しなかった事は理解できるが、内装の仕立てが豪華になった事により、ベース車両からそのまま流用した部分がいかにもチープで、それが逆に目立つ結果となったのは残念である。
しかし新たに仕上げられたインテリアの出来は素晴らしく、当時のマセラッティーの内装に匹敵する程であった。
(ただ、そのデザインもマセラッティーに準じていたことも事実で、一説にはマセラッティーと同じ工房に発注した為とも言われているが、真意は不明である。恐らくは同時期に生産していたマセラッティー・ザガート・スパイダーのインパネに準じてデザインしたのではないのだろうか。)
但し、トランクの容量はスペア・タイヤ(テンパータイプ)を背負っているため少なく、辛うじてゴルフ・バッグが一つ入る程度のものであった。
この種のクルマに荷物を満載して移動するオーナーは少ないだろうが、いかにもイタリアン2+2ラクシャリー・クーペらしい特徴である。
その他で特筆すべき点はセンターコンソールに取り付けられる車体No,が刻印されたコーション・プレートと、トランク内の工具セットであろう。
アルファのSZでも同様のプレートが取り付けられているものと同様の高品質の仕上がりで特別なクルマであることをアピールする小道具として良いアクセントとなっている。
工具に至っては、本革製のキッチリとした作りの豪華な物で、KTCのミラーツールや美しい仕上がりのホイールナット・レンチなどを収納しており、この種のクルマを愛するエンスージャストのツボを押さえた演出が光っている。
ザガートによるデザイン・スケッチの一部
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「ステルビオ」は、これまでも国産車にザガートのボディーを載せただけ。
という誤った見識を持たれているが、これは、本場イタリアの伝統有るカロッツェリアの仕事を知らない無知蒙昧な輩の戯言であり、また、それが我が国の自動車に対する知識レベルである。
事実、欧州ではそれなりの知名度と評価を受けている「ザガート」ですら、日本においてはアニメのキャラクター程度の認識でしか無いのであるから、このオーテック・ザガート・プロジェクトを成功させるには効果のある宣伝を打てるかどうかに懸かっていた。
(車両価格が高価になることは、この様なスペシャルでは既に当然のことである)
既にザガートはファション関係で自社ブランドとして日本での製品の展開を始めていたが(それが、ザガートにとって有益で有ったかどうかはともかく)、日本においては一部のエンスージャスト以外、全くの無名状態のザガートをどの様に国内のカーマニアに浸透させるかが日産としての販売戦略の要であった。
結論から言えば、ステルビオに対する日産及びオーテックの販売戦略は完全に失敗したといえる。
1989年の春の東京モーターショーで華々しくデビューしたものの、その後のマスコミ及び一般への宣伝活動は殆ど行われなかった。
もっとも、国内販売台数100台という稀少性と、1台の価格が1870万円という元国産車としては前代未聞の超高価格では容易にデモ車の調達もままならず、結果、自動車雑誌等でもステルビオの詳細な解説や試乗記などは殆ど掲載される事もなく、もちろんこの様な高価格車を購入して店頭にディスプレィしようという酔狂な日産系列ディーラーなどは皆無であり、殆どの場合、カタログすらも店頭に並べられる事はなかった。
信じられないことだが、当の日産ディーラー(販売は日産直営店とザガートジャパンがあたった)の営業マンですらステルビオの発売に関しては「社内報で回覧されただけ。」という程度の認識しかなく、しかも、注文を受けてから車両の製作を始めるというイタリアン・カロッツェリア独特の手法が後々の問題を作ることとなった。
すなわちクルマを成約してから半年ないしは1年近くも待たされると言う、国産の量産車では考えられない程の期間を必要としたのである。(実際には売り渋りというバブル期独自の悪癖が有ったとも伝えられている。)
いかにバブル全盛の時期とはいえ、ポルシェやフェラーリならいざ知らず全く無名の日伊混血車に2000万円近いお金と一年待ちに耐えてまで購入に至るだけの魅力があったかどうかは、販売状態が示している。