ザガート・ガビアの発表



ステルビオのその後

 ステルビオの生産台数は、はっきりとした台数は把握できないが、少なくとも110台は生産された事は間違いなく、その殆どが日本国内に輸入されたと考えられる。

 ザガート・ジャパンにより輸入されたステルビオは全て正規輸入として扱われ、E−AZ1の型式が与えられた。

 車体にはエンジン・ルームのファイアウォール右側にAZ1−〇〇〇と3桁の車体番号が入り、同じく左側には「ザガート・ジャパン」のメーカー・プレートが取り付けられた。

 生産車は全て右ハンドル(他の国に販売されたクルマも同じである。)のATのみで、MTの選択は出来なかった。

 詳しい性能諸元は後の別表を参照していただくとして、1990年より順次国内に輸入され始めたステルビオであったが、生産は遅々として進まず、1993年頃までは生産されていた形跡があるが、御存知の様に1990年代に入ってからの日本は、バブル崩壊の影響が色濃く出始めており、投機対象としてオーダーした人の中にも購入をキャンセルした人も少なくなかったようである。

 実際、ステルビオの中古車販売価格は呆れるほど安く、新車時より殆ど動いていない(走行距離5000km未満)のクルマでも400〜600万円程度という価格で販売された例もあり、この暴落ともいえる人気の無さは、概ね次の様な点で引き起こされていると考えられる。

1・  知名度の無さによる注目度の低さ
2・  AT搭載によるスポーツ性の希薄化
3・  エクステリア・デザインの奇抜さ
4・  一部雑誌・評論家による批判的,中傷的な記事
5・  中古車販売店の都合による価格設定
6・  改造車である事からのネガティブ・イメージ
7・  純イタリア製でないという価値観の相違

 等が主な原因であると思われるが、特に”1”に関してが最大の問題であったと思われる。 

 よほどのカーマニアであり、クルマの開発史やデザインの推移などのクルマに係わる情報全体に明るく、且つ、裕福な人で無ければこのクルマに興味を示さないだろうし(興味はあっても金銭的に手が届かない人が多かったのは事実である)仮に手が届く人であったとしても、あの価格帯では二の足を踏む人が殆どであろう事は容易に想像できる。

 逆にいえば購入した人は、かなりの思い入れを持って所有したのであり、大切に取り扱われているクルマも多いと聞く。

ザガート・ガビア 登場

 1991年、ミラノ・ショーでザガートは2台のショー・モデルを発表している。

 1台はフェラーリ348tbをベースにした「エラボラツィオーネ」で、このデザインは、後のF355のデザインにも少なからぬ影響を及ぼした。

 そして、もう1台はステルビオと同じ「レパード」を車台とした(ステルビオを車台にしたと言った方が正しいかもしれない)「ガビア」であった。 

 ガビアは前作のステルビオとは異なりエクステリア全体がプレーンな曲線と直線で構成されており、例の「フェンダー・ミラー」も一般的な「ドア・ミラー」に変更され、ややアレグレッシブなフロント・マスクを除くとエレガントで、ある種の「気品」を感じさせる物となった。
 これは、逆に近年のザガート・デザインの一般的なイメージとは異なるものであるが、50〜60年代のザガート製GTでも優美なデザインで競っていた時代があり、イレギュラーなもので無いことは後に発表された「ハイエナ・ザガート」を見れば分かる。

 関係者によると、ガビアのエクステリア・デザインは、ステルビオ開発時にザガートがオーテックに示した三種類のデザイン画の中で「イチオシ」だったものを焼き直したものである。とも言われているが、その事実関係は既に闇の中である。
(因みに、ステルビオのデザインはザガートが当て馬として用意したデザインであったとも言われているが、これも。話に尾ヒレが付いた程度の噂であろう。)

 さて、前述したエラボラツィオーネは、結局数台(3台との説有り)がプライベートに製作されたのみで、正規のモデルとして発売はされなかったようである(天下のフェラーリがオフィシャルで改造車を認めるとは考えられない)が、ガビアはザガートのレース部門である「スクーデリア・ザガート」の30周年記念車として発売されることとなった。

 ここで面白いのはその車名が「ザガート・ガビア」であることで、オーテックの名が付かない事からザガートとオーテック・ジャパンとの提携に何らかの障害が発生したことを物語っている。

 事実、ステルビオの発表以降、毎年のように作られていた日産フェアレディーZ(Z32)をドナーとしたショーモデルも「バンブー」「セータ」の2台以降作られておらず、丁度その頃を境にして桜井氏がオーテック・ジャパンの社長職から退いており、推測の域ではあるが、両社の提携関係は破棄されていたと考えられる。
 ただ、ザガート内部ではステルビオの認証番号であるAZを、日本製車両ベースの作品の統一番号として使用していたようで、ステルビオをAZ−1,ガビアをAZ−2,セタをAZ−3,バンブーをAZ−4。
 そして、日産車ではなく、スズキのエスクードをベースに作られたビターラをAZ−5としているようである。
この、ビターラに関しては少量だが生産され、国内でも販売されていたのは記憶に新しい。
(オーテックとの提携の際に、ザガートは5種類の少量生産車を製作する契約を交わしており、図らずも5種の日本車をベースとしたクルマが開発されたことは奇妙な一致ではある。)
なお、ショーカーであるバンブーとセータは、現在では両車とも日本に帰ってきていることをお伝えしておく。

 1992年の6月には当時のザガート代理店である「ザガート・エスト」が「3台のザガート」と題して、アルファロメオRZ(御存知SZのロードスター・バージョン),ランチア・ハイエナ・ザガート(ランチア・デルタHFをドナーとした4WDスポーツ・クーペ),ザガート・ガビアの3台の宣伝広告を自動車雑誌に掲載を始めており、それぞれRZが350台限定,ハイエナはザガート生誕75周年に掛けて75台限定,そしてガビアは前述した30周年から30台限定車として880万円のプライスが付けられていた。

 前作のステルビオの1870万円に較べても随分なバーゲン・プライスだが、これは車台の開発費が一切必要ない状況で、しかも肝心の車台は既にイタリアにあるのだから(作られなかったステルビオの車台である)殆どボディーの製作費のみと考えてみれば理解できる価格設定である。

 実際、実に巧みにステルビオのシャシを利用してエクステリアが形作られており、この点は流石に老舗のザガートだけのことはある。

 勿論、ボディー・パネルはアルミで作られており、ザガートのアイデンティティーであるダブル・バブル・ルーフも健在である。又、前後バンパーとボンネット・フードがステルビオと同様にカーボン・ファイバーで作られている上、各灯火装備もステルビオの物を流用しているが、ヘッド・ライトにはデザイン上、ライト・カバーは装着されていない。

 インテリアに関しても殆どがステルビオに準じており、わずかにドアの形状変更に対応してドア内張が少しモデファイされた程度である。
インテリア・カラーは黒1色のみでステルビオのようにベージュか黒かの選択は出来ない。

 ボディー・カラーもショーモデルと同一のシルバー/ガン・メタか、ベージュ/ゴールドのデュオ・トーンのいずれかであった。(未確認だが他色の組み合わせも目撃されており、今後の調査で明らかにしたい。)

 ガビアは国内に存在する全てが正規輸入であるが、台数が少ないため全車が並行扱いで、右側インナーフェンダーに職権打刻で車体番号が入れられている。

 しかし、本来の車体番号はステルビオと同じ位置にステルビオと連番で打たれており、これがステルビオの兄弟車である証となっている。

 オーナーズ・マニュアルやパーツ・カタログもステルビオの物が流用されており、やはりステルビオのボディー替えの感は否めないがZAGATO・エンブレム(Z形の物ではなく新しいデザインである)や、Gaviaエンブレムは美しい物が取り付けられており、見た目に同一なのは特徴あるNACAダクトを付けたアロイ・ホイールとフロント/リア・バンパー(実は微妙にモデファイされていて互換性はない)の意匠程度である。

 ザガート・ガビアは国内に16台輸入されたが、全生産台数は不明である。 が、30台全てが作られたとは考えにくい。

 実はRZも350台の内250台程度、ハイエナに至っては契約面のゴタゴタで75台の内20数台しか完成していないと伝えられており、事実上、この「3台のザガート」は失敗に終わったと考えるのが妥当であろう。

 最後に、[Gavia]の語源であるが、件のステルビオ峠の南側20kmに位置する標高2621mの険しい峠の名称を採用している。

  ここも数々のヒル・クライム・レースで幾多のレーサーを屠った名所であるが、フランスのマトラ・ボネットといい、今回のステルビオやガビアといい、アルプスの峠の名前をつけたクルマ達はどうも不幸の星の元に生まれつくようである。


アルファロメオRZ

RZはロードスター・ザガートの略である。
見ての通り、名車SZのオープン版で、
厳ついフェイスはまだまだ健在である。