オーテック・ザガート設立の経緯


  オーテック・ザガート・プロジェクト



 バブルと呼ばれる戦後最大の好景気に浮かれる1986年に、日産自動車は自社の100%出資による少量生産車及び特装車の製造・販売を目的とした子会社として「オーテック・ジャパン」を神奈川県茅ヶ崎に設立し、元プリンスでのスカイラインの開発で名を成した、桜井眞一郎氏を社長に据えて操業を始めた。

 オーテック・ジャパンは設立当初から、自社ブランドの確立のために日産自動車をベースとした手作りの少量生産高級車を製造・販売するプロジェクトを進行していたが、イタリア北部ミラノ郊外の老舗の車両生産会社「カロッツェリア・ザガート」との提携が起業家でありカー・エンスージャストである藤田尚三氏が代表である「ザガート・ジャパン」の仲介によって現実のものとなり、「オーテック・ザガート」プロジェクトが本格的に開始される事になった。

 一方「カロッツェリア・ザガート」は、慢性的な経営不振に喘いでおり、当時本社で生産されていた「アストン・マーチン・バンティッジ・ザガート」の後の生産車両が決定しておらず、この提携に対してザガート側は非常に興味を示し、両社の提携が現実の物になるのにそう時間は掛からなかったと伝えられている。

 これによってシャシは日産自動車が、車両のパワートレイン及びチューニングはオーテック・ジャパンが行い、エクステリア及びインテリアはザガート工房で作られる事となった。
 尚、目標とされる生産台数は203台(プロトタイプ3台を含む)であった。

ザガートについて  


 さて、「カロッツェリア・ザガート」は、ミラノ郊外で1918年にウーゴ・ザガートによって操業され、一貫してハンドメイドの自動車ボディー製造に携わっており、特にアルファ・ロメオとの関係が強く、アルミと木と皮によって作られたボディーは軽くスタイリッシュであり、空力を考慮して作られていた為レースにも強かった。

 二度目の大戦終結後は、老舗のカロッツェリアとしてヨーロッパの主要な自動車メーカーのクルマで数多くのスペシャルを作り出し、特に1960年代初頭から1970年代中頃まではウーゴの息子のジャンニ,エリオ両兄弟の力と、当時新進の若手デザイナーであったエルコレ・スパダの優れたエクステリア・デザインの好評価もあって数多くのメーカーのスペシャルを手掛け大いに躍進した。
 特にアルファ・ロメオの一連のレーシング・スポーツや、アストン・マーチンDB4のスペシャルボディーは極めて有名である。

 1975年のマスキー法設立以降の激変した自動車業界で長く低迷を続けていたが、1980年代中頃より再びスペシャル・ボディーの製造が行われる様になった。

 その頃には、既に殆どのカロッツェリアが休眠もしくは他の自動車メーカーとの合併又は吸収によって、自動車ボディー製造から撤退していたが、ザガートは自社のアイデンティテイを守るためにも自動車ボディー製造から撤退することはできなかった。

 当時のザガートは、持株会社のザガートSpAと、デザイン部門のザガート・インダストリアル・デザイン(ZID)を兄のエリオ・ザガートが、そして工場部門のザガート・カーsrlを、弟のジャンニがそれぞれ社長を務めていた。

1980年前半のザガートでは、ザガート・カーsrlがメーカーとの契約により、マセラティーのビトゥルボ・スパイダーとランチアのβモンテカルロ・スパイダーの組立を行い、一方でZIDはメーカーに対するスタディ・モデルなどの制作に携わっていたが、バブル景気によってアストン・マーチン社のバンティッジ・ザガートの開発と生産を行う事となる。

 その後はフィアット・アルファロメオとの共同開発(デザイン・コンサルティング)のアルファロメオSZの組立を行い、一時は、名門ザガート復活と話題になったが、後継車種に恵まれず三代目社長のアンドレア・ザガート(エリオ・ザガートの息子)によって、カー・デザイン部門が強化されると共に自動車製造部門に関しては廃止となっており、伝統のZ・エンブレムを冠するクルマは、1993年以降市場には現れていない。