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第2日目: 2000年9月18日(月)
会議参加者の多彩さを象徴するような18日午前のオープニングでした。 世界会議の名誉議長であるオザスコ市長、議長を務めるオザスコ市の衛生局長のほか、南アフリカ国会使節(通商大臣)、アンゴラ環境大臣、EUのアスベスト禁止決定を先導した欧州議会議員ピーター・スキナー氏(イギリス)、イタリアで初めて中皮腫が発生した街というカサーレモンフェラート市[イタリア北西部ピエモンテ州の都市]の市長、ABREA(ブラジル・アスベスト曝露者協会)の会長、そして締め括りは、世界会議副議長のフェルナンダ・ギアナージさん、BAN(アスベスト禁止ネットワーク)を代表してフランスのANDEVA(アスベスト被災者擁護全国会)等の主要メンバーでもあるINSERM(国立衛生医学研究所)のアニー・デボモニさん、IBAS(アスベスト禁止国際事務局)を代表してブリティッシュ・アスベスト・ニューズレターの発行者であるローリー・カザンアレンさんの女性3人が発言しました。(4頁囲み参照) 「まず、オザスコ市長が力強く、『オザスコ市だけでなく、世界からアスベストを追放しましょう』とまず挨拶され、こんな市長が日本にいる?と思い、まず度肝を抜かれました。次に南アフリカの若い黒人の通商大臣は、『イギリスのアスベスト企業は1890年から黒人労働者を雇用してきたが、アスベストの被災者にはわずかの解決金しか払わない。しかも白人とカラードと黒人の補償に数倍以上の差がある。被災者を残しての撤退は許されず裁判を支援しているが、これは公平のための戦いで希望はある』と発言、閣僚の人権意識に、『さすがアパルトヘイトを廃止させたマンデラ政権』と感心させられました。アンゴラの環境大臣が、『アスベストの会社も多いが今後廃止させていきたいので、わが国の政策を学ぶためにこの会議に参加した』と話し、イタリアの市長が、『イタリアで初めて中皮腫がでた工場のあった市であり、中皮腫で市民の500名が死亡してきた。今後の対策を考え参加した』と訴え、その後EC議員から、『会社が言うことと違い、クリソタイルも悪いことを認識していこう』との発言も続き、行政の力の入れ方の差違に正直言って驚きました。」 (名取雄司さんの感想)
続いて、「南アフリカ写真展」の開幕式も執り行われました。南アフリカではアパルトヘイトのくびきのもとにあった時代に、イギリスのケープ社等の欧米の多国籍企業がアスベストの生産により巨額の富を享受しましたが、その撤退した後に残されたのはアスベスト鉱山のぼた山と廃棄物、顕在・潜在した健康被害という「遺産」でした。国際化学・エネルギー・鉱山・一般労働組合連盟(ICEM)やその傘下の南アの労働組合等によって被害の掘り起こしが続けられ、被災者たちが集団で損害賠償を請求してイギリスに提訴。政府も、アスベストの禁止と多国籍企業に責任をとらせる途を探るとともに、被災者の提訴を支援していると伝えられています。深刻な実態を写した数々の写真が展示されました(本頁下写真、次頁写真参照)。 以上のスケジュールだけで定刻を過ぎてしまい、ILOブラジル事務所のディレクター、会議の共催団体であるアメリカ労働環境保健学会(SOEH)会長、マウントサイナイ病院の医師による発表にはほとんど聴衆が残っていませんでした。 ILOの発表は、アスベスト対策に関連したこれまでのILO条約(第139号、第148号、第162号)の内容や批准状況(第162号条約の批准国は25か国、ちなみにブラジルは批准しており、日本は未批准)を紹介したほか、アスベスト問題は技術的、政治的な争点のひとつとなっており、新たなクエスチョンとして、アスベスト建材使用建築物の解体改修、代替品[の安全性]、雇用、インターナショナル・リロケーション(国際移転)をあげ、ILOの対応のオプションとしては、条約、CoP[Code of Practice、実践コード]、トレーニング等があるとしましたが、今後どのような動きが予想されるかについてはふれませんでした。 私たちもここまでで食事に出かけたため、あとふたつの発表は聞けなかったのですが、あとでいただいたSOEH会長Dr. Richard Lemenの発表資料『アスベスト・タイムテーブル』(46頁)は、アスベスト問題の過去の調査研究成果の完璧なレビューと言ってもよさそうな貴重なものでした。また、ニューヨークのマウントサイナイ病院はオザスコ市と協力して、「ジョイント・ヘルス・イニシアティブ」プロジェクトを進めている。オザスコの若手医師が、同病院の労働環境衛生のフェローに決まったという発表もなされたようです。 会議は、全体会議、ワークショップ、ラウンドテーブル・ディスカッション、ポスター発表によって構成されました。メイン会場はオザスコ市民シアター(前頁上写真)で、ホールで全体会議、ロビーで前述の写真展やポスター発表。ワークショップとラウンド・テーブルは、テーマを絞り、より少人数で突っ込んだ議論をしようという趣旨で、市民シアター近くのABB研究所のカンファレンス・センターで行われました。 連日、朝から夜7時過ぎまでの過密スケジュールでしたが、全体会議等のテーマは以下のとおりです。 会議初日は勝手が全くわからないのでとまどいました。午前中のプログラムが定刻を過ぎても延々と続きそうな気配のうえに、昼食をどこでとればよいのかのアナウンスもないため、近くのファーストフードの店ですませましたが、ワークショップ会場に昼食が用意されていたことをあとで知りました。
ワークショップは上記に掲げられているメンバーだけの内輪のミーティングかと思っていたところ、実際にはもっと参加者も多く(30〜70名位)、運営も様々。ワークショップA(写真参照)はあらかじめ指定された演者の発表。Bは、名簿順に全員に何か発表させようとする気配(時間不足でそうはならなかったようですが)。各人ともワークショップは適当なところで切り上げて全体会議Aに合流。ようやく「ブラジル・スタイル」に慣れて本格的に会議に参加するようになった次第です。 ラウンド・テーブルAは、ラテンアメリカ関係ということで、誰も参加しませんでした。
@のイギリス労働組合会議を代表して発表したNigel Bryson氏はGMB労働組合の人。この組合はもともとガス労働者組合からはじまったもので、ガス・ボイラー労働者であった多数の組合員がアスベスト関連疾患で亡くなっており、毎年3,500人の組合員にアスベスト対策のトレーニングを実施しているとのこと。イギリスおよびEUでのアスベスト全面禁止を実現するうえで果たした労働組合の役割について報告しました。印象的だったのは、イギリスで昨年11月に禁止を実施してから、代替品の価格は急速に低下したということ。「安全な管理使用」はありえないと強調しました。 AのアメリカのDr. Peter Infanteの発表は、アメリカ労働安全衛生庁(OSHA)が定める様々なアスベスト管理規制の条項ごとの違反数(すなわち、「管理使用」のもとでの違反の実態)を紹介するような内容でした。1986-99年のデータで、曝露状況のモニターが違反が最も多く6,295件(21.7%)、ハザード・コミュニケーション5,186件(17.9%)、ハウスキーピング2,955件(10.2%)、適合手段(methods of complication)2,865件(9.9%)、呼吸保護具2,872件(9.9%)、規制分野(regulated area)2,511件(8.6%)、メディカル・サーヴェイランス1,278件(4.4%)等とのことでした。アメリカにおいてアスベスト曝露を「管理」できなかったとしたら、ブラジルや中国、インド等で「管理使用」できると考えられるだろうか、と指摘しました。 アスベスト曝露は、オキュペーショナル(職業曝露)、パラ・オキュペーショナル(間接曝露)、バイスタンダード(傍観者曝露)に分類できますが、BのベルギーのProf. Benoitの発表は、最後の曝露に関連した研究の報告です。ブリュッセルにあった元のEU本部建物(Berlay-mont building)には、スティール、コンクリート上にアスベストがフロック加工されていて、約3,000名が建物内で働いていましたが、粉じん曝露事故が頻発したため、1995-99年に除去、1999年から修繕[renovation]作業が行われました。この建物内で働いていた労働者たちのまさにバイスタンダード曝露が健康影響を与えているかどうかを測定できるかどうかという研究です。結果は、スパイラル(らせん)CTやHR(ハイレゾ=高解像度)CTを用いて胸膜肥厚を確認、一般住民の状況も含めて今後研究を継続するとのことでした。 アスベストによる「土壌汚染」のケース・スタディとして、アスベスト鉱山の所在地―南アフリカのプリースカとクルマン、アメリカ・モンタナ州リビー、ブラジル・イタピラの3か所から報告が行われました。 Dは、南アフリカからの報告で、クロシドライトの鉱山からの鉱滓が青い巨大なぼた山として残り、その鉱滓は無造作に道路に敷き詰められ、子供たちがそこで遊んだりピクニックをしている衝撃的なスライドが紹介されました。スライドに見られる道路は、クロシドライトのあざやかな青色でした。そこで遊んでいる子供たちのアスベスト曝露が懸念されます。 Eは、アメリカ・モンタナ州のアスベスト鉱山周辺の被災者からの、切々とした訴えでした。父や兄をアスベスト被害で亡くし、アスベスト被害者の裁判を起こしている女性からの報告で、アスベスト鉱山周辺のスライドは、まるで雪が降り積もったような風景を紹介しました。 Fは、50年間にわたってアンソフィライトが採掘されたブラジルのサンパウロ州内の小さな街・イタピラの女性でした。彼女は、D、Eの話が自分の街とそっくりであると話しました。 いずれの場所も、すでに鉱山は閉鎖されているものの、周辺地域はなお危険なほどの汚染レベルです。 かくして長い一日が終了しましたが、スケジュールではこの後サンパウロ市内の豪華パーティ会場に場所を移して、ウエルカム・パーティが予定されていました。しかし、私たちは疲れ果ててパス(実際には2名はバスで会場までは行ったのですが、ホールでアルコールと軽食が供されているうちに、いつパーティ本番が始まるかわからない雰囲気におじけづいてホテルに帰りました)。 あとで聞いたところによると、フルコースの料理に、カポエイラ(男性中心のブラジルの「過激」な舞踊)を夜遅くまで(!)堪能したそうです。 続く |