昭和22年 1947 久三郎35歳;志ん37歳
二月、佐世保行きの引揚貨物船で帰国する。当然、今までの財産は持って帰れないので、すべて放棄。子ども四人を連れていくのが精一杯だった。
帰国後は群馬県沼田に住む。
久三郎の職がすぐには見つからなかったため、志んが半年ほど代用教員をして家族を養う。さすが「追っかけ婚」をした女。やむを得ない時代とは言え、めちゃめちゃ頼りになる女である。
そうこうするうち、沼田自治体(当時)の警察官の募集があり、久三郎はまたしても高い倍率のなか、満州での経歴も評価され採用される。
久三郎、高い倍率を勝ち抜きすぎ!かなり運がいいに違いない。
この頃は、満州での裕福な暮らしが一転、一間か二間の小さく古い家に家族がすし詰めになって暮らすこととなった。
長女は下の弟妹の世話をすることが多く、「おんぶしないで遊びに行けたことなどない」と回想している。
そんな超貧乏生活の中、三女、栄養失調のため死去。信じられないことだが、こんなことも当時はさほど珍しくなかった。
この時、次女は、「自分が末っ子になれる(から親に可愛がったり注目したりしてもらえる)!」と踊りまわって喜んだ!
末恐ろしい娘である。この娘、長じて人並みに結婚し、子どもを二人産んだ。うち一人が……すすすすみません、親に成り代わってのご冥福を……
(なお、我が母の恐ろしい行動とキャラは「コネタ集」内「オリンピックに出るつもりか56歳」と「ハラキリ日誌」をご覧ください)