野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



出版 リベラル社
  「やわらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに」
          (啄木「一握の砂」)
 石川啄木は、明治45(1912)年に亡くなった。今日4月13日は、94回目の啄木忌だ。
 彼の一生は家と家族のことの苦しみの連続であった。父の失職で20歳で家長になり、5人の家族を支えなければならなかった。また母と妻節子の不仲、そして度重なる家賃の取り立てと引越しで、啄木には安住の場所といえるものはなかったようだ。
 そんな啄木が理想のわが家を詠んだ。
 「場所は、鉄道から遠からぬ、心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ・・・広き階段とバルコンと明るき書斎・・・・すわり心地のよき椅子も」   (呼子と口笛より「家」)。
  「はじめより空しきことと知りながら、ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる」と結んでいる。
  啄木は詩や短歌がよく親しまれているが、日記も文学的評価が高い。中でも「ローマ字日記」は「日本近代文学の最高傑作の1つ」(桑原武夫)とまで言われている。
   
その中に太平洋戦争とその後の日本を予言するかのような詩がある。
  「やがて世界の戦は来たらん!
   フェニックスのごとき空中軍艦が空にむれて、
   その下にあらゆる都府がこぼたれん!
   ・・・人びとの半ばは骨となるならん!
   ・・・しかるのちあわれ、しかるのちわれらの“新しき都”は、
   いずこに建つべきか?
   ・・・それは土の中に
   ・・・夫婦という定まりも区別もなき空気の中に。
   果てしれぬ青き青き空のもとに!」
                   (「新しき都の基礎」原文ローマ字)
 家族制や男女の因習のない、青くすきとおった世界に理想の都は建つのだ、と詠っている。家に苦しめられ続けた啄木らしいユートピアだ。
 考えてみると現代の日本は、啄木の描いた家や家族の姿にかなり近づいたようにも思えるのだが・・・・。
 満開の八重桜の花びらが舞い散る中、石川啄木は27歳で亡くなった。家族以外で1人臨終に立ち会った若山牧水は、啄木の長女、京子がそこにいないのに気付き、あたりを探した。
 「君が娘は 庭の かたへの八重桜 散りしを拾ひ うつつとも無し」(牧水)

  建築家 野口政司
 
 2006年4月13日(木曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
啄木のユートピア