野口建築事務所 |
Noguchi Architect & Associates |
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その安藤教授の最終講義が安田講堂で行われたとき、東京で建築を学んでいる私の子供たち3人も聴きに行った。 しかし、3時間ほど前から若者たちが殺到し、長蛇の列ができていた。前の方から1300人が入場し、500人ほどが帰ったが、なお800人もが安田講堂の前庭を埋めたという。 その様子を見た安藤教授は、ハンドマイクを片手に星空の下で講義を始めた。せっかく来てくれたのに講堂に入れなくて申し訳ない、今日、私が皆さんに伝えたかったのはこういうことですと、15分ほどのミニ講義をしてくれたそうだ。 すっかり感動した息子たちは「父さん、行ってよかったよ」と電話をくれたのであった。 さて、東大建築学科の第1回卒業生で、日本人で最初の建築学科の教授となった辰野金吾氏は、赤レンガの東京駅の設計で知られるが、その子息であった辰野隆氏は、父とは違う道に進み、東大のフランス文学科の初代教授となった。 |
辰野教授は、学生たちの面倒見がよく、授業料を払えなかった学生の分を立てかえ、卒業させてやるようなことも幾度かあったという。 教え子であった小説家の中村真一郎氏が「辰野先生の最終講義」という文章で思い出を語っている。 中村氏が卒業論文を書くための本を借りに辰野先生の家を訪ねると、その本があまりに重いので、先生がハイヤーを雇ってくれた。そして中村氏の靴の底が抜けているのを目にとめ、奥さんに「あの何とか革の靴を中村に出してやれ」と言った。 すると奥さんが、「あの靴は、先日中原中也さんがはだしでいらっしゃって、はいて帰られました」と日常茶飯事のように返事したそうだ。 愛弟子であった小林秀雄氏の連れて来た、学外の者の世話まで焼いていたのだった。 「ぼくの父は家をつくる商売だったから、ぼくは家をつぶす役をしているよ」というのが先生の口癖であったという。 その辰野先生の最終講義には、大勢の卒業生もかけつけ。教室の後ろに立ち見ができ、廊下にまで人があふれるにぎやかなものであった、と中村氏は振り返っている。 建築家 野口政司 2006年3月29日(水曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より |
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