野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



70年安保闘争の頃の様子
 3月は卒業の季節である。学生にとっては学校を出て、新しいところへと出発する時であり、先生にとっての卒業とは、その学校での最後の授業をすること、つまり最終講義であろう。このことで、私には忘れられない思い出がある。
 私が「三四郎」のように故郷を離れ、学生生活を送るために京都に着いたのは、ちょうど70年安保とその後の大学紛争の真っただ中であった。安田講堂が学生たちに占拠され、東大の入学試験が中止になったのもあのころである。
 四条河原町から市電に乗って、大学のある百万遍で降りると、交差点の真ん中でタクシーが引っ繰り返され、炎上している。三四郎のように謎めいた美人に出会うという夢物語は、のっけから吹き飛んでしまった。
 私が学んだ建築学科を代表する教授は西山卯三先生であった。東の丹下健三、西の西山卯三と称されるほどの名教授である。徳島県民によく親しまれている郷土文化会館の設計者でもあるが、専門は住居学であった。
 その西山先生が退官する年、最後の「住居論」の講義をしたのは、私たちの学年であった。
 西山先生の講義が始まって10分ほどたった時、ヘルメット姿の学生が20人くらいで教室に飛び込んできた。ヘルメットには淡路島闘争委員会と書いてあった。彼らは西山先生が淡路島に国際空港を建設する提言をしたことに対して、自己批判を求めたのだ。
 西山先生は、断固としてそれを受け入れず講義を続けようとした。しかし、それまで黙って講義を聴いていた学生の中からも、西山先生を糾弾する声が出だした。
 私はおとなしい学生であったが、やむにやまれず、「それはおかしい。外部の者に授業を邪魔されて、それに呼応するような恥ずかしいことはやめろ」と叫んでいた。教室内は騒然となり、とても講義ができる状態ではなくなっていた。西山先生は憤然として教室を去っていった。
 この授業が、西山先生の「住居論」の最終講義となった。そして私たち学生も、西山先生の講義を受ける機会を永久に失ったのだ。
 あの時代の大学紛争は、専門ばかを批判する運動であったが、その結果残ったのはただのばか、「ただばか」であると言ったのは評論家の呉智英氏である。あのころより、学問における師と弟子という濃密な関係は過去のものとなっていったように思う。
 今年も全国の大学で行われたであろう“最終講義”はどのような風景であったのだろう。
 
建築家  野口政司
2006年3月13日(月曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
最終講義