野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



ドイツ・ハイデルベルクの街
 60年前の春、連合国軍に取り囲まれ、ドイツは敗戦の色を濃くしていた。ベルリンに立てこもったヒトラーは、ドイツ全土を焼け野原にする焦土作戦を命じた。ドイツ軍撤退にあたって、電気、ガス、水道、道路、橋、建物などあらゆるものを破壊して、敵軍に何も残さないという作戦であった。
 これに対し、危険を冒してこの命令に背き、阻止した人がいた。当時軍需大臣を務めていた建築家アルベルト・シュペーアである。
 シュペーアはナチスドイツの国土づくり、都市づくりの最高責任者であった。もともと建築家になりたかったヒトラーは、シュペーアの天才に気づき、自らの志を彼に託していたのだ。
 シュペーアに作らせたベルリンの大改造計画「ゲルマニア」の30メートルにも及ぶ大きな模型を、ヒトラーは夢見るように眺めていたという。
 シュペーアがヒトラーに認められたのは、ニュルンベルクのナチス党大会の会場設計を美貌の映像作家レニ・リーフェンシュタールと共に担当したときである。100本以上の高射砲用サーチライトを天に向かって投射して、光の列柱を立ち上げる「光の大聖堂」の演出によってであった。
 シュペーアは建設総監に取り立てられ、後に軍需大臣として、ヒトラーの戦争を担うことになる。
 しかし、ドイツの敗戦によって、重要戦犯としてシューペアが裁かれたのは、同じニュルンベルクの国際法廷であった。
 彼は自らの罪を認め、最終陳述を次のように結んだ。「ナチス政権下において、芸術はヒトラー礼賛のプロパガンダとして使われてきたけれども、本来はむしろ逆に、精神の自由の砦であらねばならない」と。
 シューペアは連合軍の攻め込む寸前の古い大学都市、ハイデルベルクには入り、町長らにヒトラーの命令に従わないように説いて回り、焦土作戦を食い止めている。彼が青年時代を過ごし、こよなく愛したハイデルベルクは、こうして破壊から免れることができた。
 「美しい都市は戦争を食い止める最大の武器となる」と書いたのは五十嵐敬喜氏である。(「美しい都市をつくる権利」)。
 美しい町、ハイデルベルクは、ぎりぎりのところで建築家の自由な魂を呼び覚まし、その魅力によって自らを守ったと言えるであろう。

建築家 野口政司
2005年12月19日(月曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


美しい町