野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



宮沢賢治
宮沢賢治
 この国土の装景家たちは
 この野の福祉のために 
 まさしく身をばかけねばならぬ

 宮沢賢治の詩「装景手記」の中のこの一節を読むたびに、私は身の引き締まる思いがする。建築設計者として、私はいくつかの建物を造ってきたが、はたして野を飾ることができたのか、町に彩りを添えることができたのだろうかと自問する。
 構造計算書を偽造した建築士のことが毎日のように報じられる。鉄筋量を減らして、30%ほどの耐震力しかないマンションやホテルをいくつも設計したという。
 彼は専門家として自分の役割をどう考えていたのだろうか。構造計算は根気のいる地味な仕事である。デザインを売り物にする一部のスター建築家の華やかさに比べて、表に名前の出ることのない下支えのポジションと言えるだろう。しかし地震国日本において、人の生活を守るシェルターとしての建築を考えると、最も重要な役割を担っているのではないか。
  彼に何が起こったのだろうか。今後の取り調べを待つよりないかもしれない。しかし、もし彼が自分の設計した建物を訪れ、そこに住まう人たちの顔を見、姿を眺めることがあったとしたら、このようなことにはならなかったのでは、とも思う。


 そこに住む人、そして使う人の顔が思い描けないまま建築の設計をすることの怖さを、今回の事件から感じる。それは建築だけでなく、食物、医療、そしてどの仕事にも共通して言えることであろう。
 人は生きていくためにたつきを得る。けっしてその逆ではない。お金を得るためだけに仕事をする人のその先には、お金さえもうかったら何をしてもいい、という悪魔のささやきが待っているのではないだろうか。
 自らの造った建物の中で暮らす人たちの楽しそうな顔を思い浮かべながら設計に打ち込む。そこには労働の喜びがあり、何ものにも替えがたい人生の幸いがあるように思えるのだが。

  さああしたからわたくしは
  あの古い麦わらの帽子をかぶり・・・
  ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
  しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
  稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
  みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう

                     (宮沢賢治「装景手記」より)

 建築家 野口政司
 2005年12月3日(土曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より

  
みんなのところへ