野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates


京都会館
 1928(昭和3)年の3月、卒業証書を手にしたその夜東京をたち、シベリア鉄道でパリに向かった青年がいた。後に日本の近代建築の指導者として大きな仕事をすることにな前川國男(1905−86年)だ。
 パリに着いた翌日、国際連盟本部のコンペで当選した若き建築家、ル・コルビュジェのアトリエを訪ねる。そして世界三大建築家の1人と呼ばれるようになるル・コルビュジェの日本人で最初の弟子となった。
 コルビュジェのアトリエでの2年間の修業を終え、ヨーロッパの文化を胸いっぱいに吸った前川は、軍国主義と超国家主義の真っただ中の日本に帰ってくる。母校東大の教授たちを中心とした「そもそも建築は芸術にあらず」という潮流に戦いを挑んでいくことになる。
 前川國男の主な作品は、東京文化会館、京都会館、熊本県立美術館、紀伊国屋書店などだ。前回このコラムで紹介した、江戸東京たてもの園にある前川自邸も、木造の小品ではあるが風格のある作品だ。そのどれもが「建物はその立つ場所に従え」という考え方に貫かれている。

 
 今年は前川國男の生誕100年に当たる。それに合わせて、前川の同志とも言える建築編集者の宮内嘉久氏が、評伝 『前川國男 賊軍の将』 を出版した。宮内氏は、日本の近代建築の初心を問い続けるジャーナリストでもある。
 前川國男と親和銀行本店やノアビルを設計した白井晟一との交友が、この評伝の1つの主題となっている。2人の建築家は建築の精神性を信じるという点で共通していた。
 白井が亡くなったとき、前川は追悼文で「白井さんの訃報は、花を散らす一陣の強風のように私の胸中を吹き抜けた。日本の闇を見据える同行者はもはやいない」と書いた。これは1986年、前川國男が亡くなったときの宮内嘉久氏の思いでもあっただろう。
 宮内氏は、前川國男の評伝の最後に、生前の前川が「美しい言葉」として心に刻んでいたセナンクール(フランス革命当時の作家)の文を掲げている。
 「人間は所詮滅びるかもしれず、残されたものは虚無だけかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか。そして、そうなるのは正しいことではないと言うようにしよう」
 日本の近代建築は、前川國男が抱いた志とは違う方向へ進んでしまったようだ。ローマやルネッサンスは、文明の最盛期に偉大な建築と美しい町を造った。しかし20世紀後半、歴史的繁栄の中で日本は何を残せたであろうか。

 建築家 野口政司
 
2005年11月1日(火曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
建築家 前川國男