野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



李朝陶器
 これはまるで恋文ではないか。こんなにも情のこもった文を読むのは初めてだ。「私はこの頃、ほとんど朝鮮の事にのみ心を奪われている。何故かくなったかは私には説き得ない。・・・・貴方がたの心持ちや寂しさを察しる時、人知れぬ涙が 私の眼ににじんでくる」(柳宗悦 『朝鮮の友に贈る書』 1920年 『改造』 6月号)。
 柳宗悦は、朝鮮や日本の生活雑器にひそむ美を探り出し、河井寛次朗や浜田庄司らと共に民芸運動を創出している。又、朝鮮やアイヌ、沖縄の文化の独自性を謳った人でもある。
 柳が朝鮮の美に目覚めたのは、李朝の陶磁器に出会ったときだ。天性の直感力をもっていた柳は、李朝陶磁器の素朴で飾らぬ調子と、しっとりとした情感をたたえた味わいに、たちまち心を響かせたのだ。彼の朝鮮の美術への傾倒は、それを生み出した朝鮮の民衆への敬愛と信頼の心へと結ばれていく。
 1919(大正8)年3月1日。日本の統治下にあった朝鮮で独立運動が起こった。200万人ほどが参加したこの住民決起は、日本の軍隊によって鎮圧され、1万人近くの民衆が殺された(10万人という説もある)。  このとき、日本の識者のほとんどが沈黙をしている中、柳は『朝鮮人を想ふ』 という文を読売新聞に書いた。「世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留する」べきであると、日本の暴挙を強く批判している。
 翌年には 『朝鮮の友に贈る書』 を発表し、「日本はかつて朝鮮の芸術や宗教によって、その最初の文明を産んだのである」。そして「正に日本にとって兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ・それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である」と訴えている。
 朝鮮半島から渡来した人たちが日本の都を見て「ウリナラ」(私たちの国と同じ)と言ったのが奈良の地名の由来と聞く。そう言えば、25年前に訪れた新羅の都であった慶州も、緑深き美しいまちであった。
 その慶州の山の上にある、石仏寺の石窟案(せっくつあん)は朝鮮美術の至宝といえるものだ。菩薩や十大弟子に囲まれた釈迦如来は、中央に座してはるか東方を眺めている。その方向には「日出づる国」日本が海を隔てて横たわっている。

建築家 野口政司
2005年5月28日(火曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
柳宗悦と朝鮮の美術