野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates


出版  文芸春秋
  司馬遼太郎は、日本で最も読まれている作家だそうだ。軽く1億冊を超える本が販売されているという。私も数えてみると50冊ほど持っており、宮沢賢治やドストエフスキーらと並んで最も多い作家の1人だ。
 政治家や経営者、会社員らへのアンケートでも、愛読書の1位に『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を挙げる人が多く、日本を代表する国民作家と言えるだろう。
 しかし、司馬遼太郎はあるときから小説を書かなくなった。作家としての後半を『街道をゆく』や『この国のかたち』などの紀行文や随筆、論評にしぼっている。しかも『坂の上の雲』の映画化、テレビドラマ化を生涯拒否し続けた。
 「作家は読者が信用できなくなると、小説を書けなくなる」と同じ作家の井上ひさし氏が述べている。司馬に何が起こったのだろう。
 『この国のかたち』を開けてみよう。全6冊、121編の随筆集だ。3章目は不思議な夢の話だ。夢の中で、山を登っていて不意に浅茅が原に出てしまったとある。そこには怪物のようなモノが横たわっていて、自分は1905年から1945年の40年間だと言う。

ちょうど日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間が、異胎となって山の中に捨てられていたのだ。
 そうか、司馬はこの怪物に出会ってしまったのだ『竜馬がゆく』で坂本竜馬の青春と明治維新への道を重ね合わせて書き、続けて『坂の上の雲』では、秋山好古、真之兄弟と正岡子規らで若々しい明治の輝きを描いた。坂を登り雲を見た、と思った瞬間この浅茅が原に出てしまったのだ。
 『この国のかたち』 第5巻のあとがきで、司馬は次のように書いている。「私にも人生の設計があった。しかしそれらは一挙に雲散霧消した...。国家が、自分の人生をさらってしまった」。学徒出陣で徴兵され、満州にいく。終戦を迎え、「なんとおろかな国にうまれたことか」と思う。「むかしは、そうではなかったのではないか」という思いから、歴史小説を書き続けるが、1905年以のことは小説では書けなくなったのだろう。
 『この国のかたち』 最終章は、1996年2月の死の直前に書かれた。ロンドン軍縮会議(1930年)で軍縮を進めた浜口雄幸首相が東京駅で右翼に狙撃され、やがて死ぬところで終わっている。未完であった。
 司馬遼太郎は、浅茅が原で出会った異胎の怪物と死ぬまで戦い続けたのだ。

建築家 野口政司
2005年5月13日(金曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
この国のかたち