野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



 宮沢賢治は自らの理想郷を"イーハトーヴ”と呼んだ。イーハトーヴとは、エスペラント語で賢治の生まれ育った岩手県のこと。ここより他の場所ではなく、今自分の住んでいるこの場所を理想郷にするために、賢治は生きたのだ。
 大正15(1926)年、賢治は4年間勤めた花巻農学校を退職し、「羅須地人協会」を開く。そこで畑を耕し、農業や芸術の講義をしたり、農民の肥料設計の相談にのったりしている。
    「あすこの田はねえ
    あの種類では窒素があんまり多すぎるから
    もうきっぱりと潅水(みず)を切ってね
    三番除草はしないんだ
    ・・・雲からも風からも
    透明な力が 
    そのこどもにうつれ・・・」
    (『春と修羅』 第三集)
 私は30年ほど前に、花巻の元羅須地人協会の建物を訪ねた。入り口に黒板があって、白いチョークで「下ノ畑ニ居リマス賢治」と書かれていた。今にも賢治がのっそりと現れそうな気がしたのを思い出す。
 豊かでそして厳しい岩手の自然風土の中から、賢治はたくさんの詩や童話を生み出している。

 
      「これらわたしのおはなしは、みんな林や
    野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかり
    からもらってきたのです」     
              (『注文の多い料理店』 序
 知恵の遅れた虔十が残したのは小さな杉林ひとつ。そこは子どもたちがいっぱい集まる美しい公園となった。
    「ああ全く、たれがかしこくたれが
     かしこくないかはわかりません」  (『虔十公園林』)。
 
賢治は自分のことを「けんじゅう」とも呼んでいたそうで、賢治の理想の人間像をこの作品で描き、そしてそのように生きた。
出版  ポプラ社
 賢治の最初に書いた詩は『屈折率』
   「わたくしはでこぼこ凍った
    みちをふみ
    このでこぼこの雪をふみ」。
 そのでこぼこ道を歩きつづけ、38歳で賢治は亡くなった。しかし、その道には今草花が咲きそろい、人々に愛されるイ−ハトーヴの風景が一面に広がっている。

建築家 野口政司
2005年4月9日(土曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
イーハトーヴの風景