野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates


「むすびの家」物語
出版 : 岩波書店

 奈良市の小高い丘の上に「交流の家」という木造の小さな建物がある。
 ハンセン病回復者たちの宿泊施設として、学生たちのボランティアで建てられたものだ。
 ハンセン病は、極めて感染力が弱く、戦後プロミンという特効薬が使われ出し、完治する病となった。しかし世間(日本)の無理解から、旅館やホテルでの宿泊を断られることが通例であった。それなら自分たちで建てようと建設されたのが「交流の家」だ。
 この家を活動の拠点として、学生たちは回復者と一般市民の交流を進めたり、日本のハンセン病療養所の長島愛生園や、邑久光明園、また韓国の回復者たちが造った開拓村へのワークキャンプをなどを手がけていた。
 私も25年前、光州事件の直後、戒厳令下の韓国で学生たちとワークキャンプに参加したことがある。忠清南道の大田(テジョン)近くの開拓村で、簡易水道の敷設工事を手伝ったのだ。


 この村の指導者の金牧師は日本の植民地時代、強制労働のために連行され、日本でハンセン病を発症。戦後帰国し、ハンセン病回復者の自立のための開拓村の立ち上げに尽力した人だ。
 近年ハンセン病への貢献によりマグサイサイ賞を贈られた、と韓国の友人から聞いた。日本の療養所で苦労したであろうに、金牧師の物腰はやわらかく、丁寧な日本語で話しかけてくれたことを思い出す。
 さて、第二次世界大戦後、韓国をはじめ世界のハンセン病対策のすう勢は開放政策であった。なぜ日本だけが、強制隔離政策の「らい予防法」を1996年まで存続させたのか。その過ちを検証する報告書が、この3月1日、ハンセン病問題検証会議から提出された。
 報告書によれば、国、医師、自治体、宗教、報道、法律家、教育界、福祉界、すべてに責任があるという。確かにこれらのうち、どれか1つでも強く主張していれば、こうまで長く隔離政策が続くことはなかっただろう。
 しかし最も大きな原因は、私たち国民が人の痛みや苦しみを感じる想像力を著しく欠いていたからではなかったか、と思う。「交流の家」の初代管理人であった飯河梨貴さんは、待ちに待った「らい予防法」の廃止を見届けた上で、翌年の97年に亡くなった。享年83歳。背筋のピンと伸びた、立ち姿の美しい女性であった。

建築家 野口政司
2005年3月9日(水曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
むすび
交流の家