野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates



出版 : 文芸春秋
 2月に入って、徳島にも珍しく雪が降り積もった。家々の屋根や遠くの山が白く染まり、日ごろ見慣れた町の風景が、まったく別の所へ迷い込んだように端正に見えてくる。
 山形県鶴岡出身の作家、藤沢周平は故郷の冬を次のように表現する。
 「ある夜静かに休みなく雪が降りつづけ、朝になると世界が白くなっている・・・」。
 8年前の1月26日に、藤沢周平は亡くなった。彼は時代小説の名手であった。代表作は『蝉しぐれ』や『たそがれ清兵衛』などだろう。そのほとんどの舞台が、東北の小国、海坂(うなさか)藩である。そこは庄内盆地をモデルにした架空の地で、山や里川の美しい風景とともに人々の生活が営まれる。
 私の好きな登場人物は、「ど忘れ万六」である。ともすると息子の名前も忘れてしまう、ぼけが始まった初老の武士の孤独な隠居生活と、ある事件を人間味豊かに描いている。

 できるものならこんなふうにかわいくぼけたいものだと、つい思ってしまう。
 ほかにも、「だんまり弥助」や「祝い人助六」など次から次へと風変りな主人公が現れる。世の中はあなたを含めて変わり者ばかりの集まりで、だから何も気にすることはないよ、と作者は言ってくれているようなのだ。
 藤沢周平の小説が多くの人の心を打ち、共感を呼ぶ理由を同じ山形出身の佐高信氏はこう述べている。「寒さに凍えた人間をいきなり暖かい火に当ててもだめで、藤沢さんの作品は、凍えた魂を雪で摩擦し暖めていく。外からではなく内からのものを呼び覚ます。それが本当の意味の生きる力を与える源になるんですね」と。
  藤沢周平の世界は、決して真っすぐには進んでいかない。むしろ丸く、循環している。人の生活や自然の風景と響き合いながら季節がゆっくりと巡っていく。ちょうど『蝉しぐれ』の蝉の鳴き声がふと気がつくと耳の底に残っていて、静かな時間の流れの中から立ち現れ、聴こえてくるように。
 そこには私たちが忘れていた、懐かしいアルカディア(理想郷)の風景が広がっているようにも思えるのだ。

建築家 野口政司
2005年2月5日(土曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
藤沢周平の風景