言葉が与えられることにより、それまで気に留めなかったものが輝き始める。
 「里山」という言葉に、私はそんな不思議な力を感じる。子どものころから見なれていた風景が、この言葉を得たことにより普遍性をもち、魅力あるものとして輝き出したのである。
 この言葉の生みの親で、日本の森林生態学の草分けであった四手井綱英(しでいつなひで)さんが亡くなった。97歳であった。 
 四手井さんは、母校京大の農学部で教えるようになった1954年、それまで「造林学」といっていた講座を「森林生態学」に改めた。人間が主体となり森を管理することから、木々や多様な生物が共生する森へ、とのイメージの転換であった。



 1960年代に「里山」という概念を提案する。農山村の人たちが薪を採取するなど生活を支える近くの山を「里山」と名付けたのだ。「奥山」や「山里」という言葉はそれまでもあったが、「里山」は四手井さんの造語である。今では広辞苑にも載っていて、「人里近くにあって、その土地に住んでいる人のくらしと密接に結びついている山・森林」と説明されている。
 四手井さんは、人と植物、動物との共生ワールドであり、日本の原風景ともいえる「里山」の豊かさ、大切さに一早く気付いた。そして、その保全に向けての取組みを提案している。地球規模での環境悪化や生物多様性の危機が叫ばれている今、もう一度四手井さんの思想を見直し、「里山」という言葉に込められた、人と自然が共生していく知恵を学ぶべきであろう。
 さて、私ごとであるが、京都の知人から、数年間探していた土地が見つかったので、建築家として意見を聞かして欲しいと連絡があった。早速、滋賀県の琵琶湖の西にあるその土地を見せてもらった。
 ゆるやかな東斜面の下の方に琵琶湖が見渡せ、北西側には比良山系が広がる。そしてなんと斜め隣は、陶芸家清水卯一(ういち)さんの工房「蓬莱窯」であった。人間国宝の清水さんが、自然の中で陶芸にひたるために探し求めた土地がここだったのだ。感慨にふけりながらその話をすると、知人は大喜びでその土地に住むことを決めたのであった。
 私には、琵琶湖や比良山の眺めも良かったのであるが、その辺りのたたずまいがとても気に入った。古い民家や畑や林が点在し、のどかな里山の風景が目の前に広がっているのであった。

 建築家 野口政司
 
2009年12月05日(水曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より

野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates

“里山”の発見