青年のこころつかめぬ日の多し 板書のチョーク音たてて折る 長らく教師として務められ、私も高校で国語を教えていただいた。歌詠む人であることは、当時全く知らなかった。バンカラな校風であったので、いつも冷静で紳士然とした斎藤先生には肌が合わなかったのではないかと思う。 石に来て蜻蛉平たくとまりたり 八月六日灼(や)けたる石に 原爆の落とされた直後の広島に入り、その光景を目の当たりにしている。 ぽろぽろと死体をこぼしトラックは 去りゆきしなり術なかりけり 扇風機つばさ反らせてとまるとき ぬめぬめと汗わが原爆忌 |
そのあまりの悲惨さに、歌に詠むことができるようになるのには、何十年もの年月が必要であったと聞く。 歌集「海境」(うなさか)は、学園紛争が起こった昭和44年から、先生が高校を定年退職する昭和63年までの作品を収めている。昭和44年といえば、安田講堂が占拠され、東大の入試が中止となり、翌年三島由紀夫が割腹自殺した頃である。その高校もちょうど紛争のまっただ中であった。冒頭の歌はその頃のものであろう。 青年の思想ほぐさむとするわれは 遠き輪よりぞみつめられゐむ 「海境」は別れの歌で終わっている。昭和という時代、そして緑あって出会った人との別れを。 人と逢ひ人と別れて春寒し 短き酔ひを楽しみにけり 花束を抱へ校門出でむとす 銃執り学徒兵たりしこの手に 歌誌『徳島歌人』11月号は、斎藤先生が代表として出す最後の号となった。巻頭はいつも斎藤代表の歌論が出ているのであるが、この号には7首の歌が「ありがとう」と題され飾られている。 ありがとう誰にともなく呟やきて あな羞(やさ)しやななみださしぐみ 自恃(じじ)孤高かつて聳(そび)えし詩精神 ほろりほろほろくづほれて候ふ 斎藤先生、最後までオシャレでしたね。青年のこころはつかめなかったやも知れませんが、40年たって、今の私には先生の歌がこころに響いてきますよ。 建築家 野口政司 2009年11月19日(木曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より |
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ほろりほろほろ |