野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates


「黄色い家」 フィンセント・ファン・ゴッホ
 1888年10月、ゴッホとゴーガンの共同生活が始まった。二人とも後に天才画家と呼ばれるようになるが、当時は共に貧乏な無名の絵かきであった。
 南仏プロバンス、アルルに建つひまわり色の家(黄色い家)は、その年の5月からゴッホが住んでいた。オランダ生まれのゴッホは陽光あふれるこの土地がとても気に入っていたのだ。「芸術家の共同生活」を夢見ていたゴッホは、画商をしていた弟テオを通じてパリからゴーガンを呼び寄せる。
 二人が住んだ黄色い家は1階にアトリエ(居間・食堂)とキッチン、2階に2つの寝室と浴室があったが、その間取りがとても変っていた。ゴーガンの部屋に入るためにはゴッホの部屋を通らねばならず、逆にゴッホは浴室と便所に行くためにはゴーガンの部屋を横切らなければならないのであった。この間取りが二人の人生を大きく変えることになる。
 
  最初の1ヶ月、毎日のように芸術論をぶっつけあったが、それはそれで平穏に過ぎていった。しかし、共に強烈な個性をもった「狂人」と「野人」の共同生活は2カ月目に入ると次第に亀裂が入りだし、その年の12月23日、最初の精神的発作を起こしたゴッホは、ゴーガンに切りかかろうとする。危険をさけるためその夜は旅館に泊まったゴーガンが、翌朝黄色い家に帰るとゴッホは自らの左耳を切り落としてベッドで意識を失っていた。
 ゴッホはそのまま療養院に入院し、ゴーガンはその日のうちにアルルを離れパリに帰った。そして二人は二度と会うことはなかったのだ。
  ゴッホはこの家の絵を何枚か描いている。広場に面した黄色い家は、愛らしいスケールで印象の良い家だ。しかし室内はドアが部屋の両端に1つづつあり、とうていくつろぐことはできない。つまり家全体が通路になってしまっていて、「ため」の空間がないのである。こういう家は出会いとか生産には向いているが、体を休め、心を癒すすまいとしては失格であろう。
  この事件のあと、ゴッホは精神病院に入り、2年後に自殺。ゴ―ガンはゴッホの死の翌年、新たな創作の場を求めて世界の果て、タヒチへ旅立つ。そして二人の天才を確信し、献身的に尽くしたテオも兄ゴッホの後を追うように半年後に亡くなっている。

建築家 野口政司
2004年10月12日(火曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
アルルの黄色い家