野口建築事務所
Noguchi Architect & Associates

 1人のルーマニアの音楽家のことを書こうと思う。
 2年前の8月6日、ドイツ・ウルム市の交響楽団のメンバーを招いて室内楽のコンサートを開いた。音楽会が始まるとヴァイオリンのユリウ・ベルトークさんが、今日はこの曲を最初に演奏したいと言って、プログラムになかった無伴奏ヴァイオリン曲を弾き出した。ベルトークさんの奏でる音は人の心や動きを鮮やかに表現している。静けさ、不安、恐怖と絶望、苦しみ、そして祈り。その曲の名は「ヴァイオリン独奏曲ヒロシマ」であった。
 ベルトークさんは、祖国ルーマニアでクライオヴァの交響楽団のコンサートマスターを努めていた。時あたかもチャウシェスクの独裁政権下で、独裁者に反対の立場だったベルトークさんはとてもまともな音楽活動ができる状況ではなか
った。秘密警察の監視の厳しい中、彼はヴァイオリン1つ持って徒歩で亡命を決行した。野を越え、川を渡り歩き続けた。途中ある老人が親切にも自転車を譲ってくれた。
 1986年、ドイツのウルム市にたどり着いたベルトークさんは、町の辻でヴァイオリンを弾いてその日の糧を得ていた。
 

そのあまりに素晴らしい演奏が町の人々の話題となり、これはただの辻音楽師ではないとうわさが広がった。間もなくその町の楽団のメンバーに迎えられる。
 ちょうどそのころ、ウルム市の交響楽団に磯村みどり・寿彦さん(ともに東京芸大卒)が在団していて、ベルトークさんと知り合いとなり、やがて日本とドイツの草の根市民コンサートへと活動が広がっていった。
 日本との交流の中から、広島への原爆投下の悲惨さを知ったベルトークさんは、自らの肺がん手術での入院中に遺言にも似た思いで1つの曲を作る。それが「ヒロシマ」だ。
 私は2年前に聴いたその曲のことが忘れられず、今年も磯村さん夫婦とベルトークさんたちを招いてコンサートを開催する(ウルマー・カンマー・アンサンブル。7月28日午後7時より。ふれあい健康館ホール)。バッハやシューベルトのほか、ルーマニアの秘曲と呼ばれるポルムベスク作曲の「望郷のバラード」も演奏される。ベルトークさんの祖国ルーマニアへの思いがこもった特別な曲だ。

建築家 野口政司
2004年7月24日(土曜日) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より
ヴァイオリニスト