歎異抄に聞く

第10回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
        第3章について(その1)  


   歎異抄第3章
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。


   《 機という人間観 》
 今回から第3章に入ります。浄土真宗という宗旨を知らない人でも、親鸞聖人は知っているという人は多いでしょう。そして、その親鸞聖人は、悪人正機説を説かれた方として記憶されているのではないでしょうか。それは、高校の倫理・社会の教科書に負うところが大きいかと思います。その出典とされるのが、この3章であります。
 ここには、常識では、否定され、なんら評価されることのない悪人に光があてられ、善人が片隅に追いやられるという、善人と悪人に対する価値の転換がなされ、大変新鮮なインパクトを読む人に与えるかと思います。歎異抄の3章本文には、悪人正機という表現はありませんが、悪人が救済の対象であることを悪人正機というのです。
 正機の機というのは、仏教が人間を言い当てようとする表現です。はた織り機のはずみ車のことです。少しでも力を加えると、クルクルと回り出す。我々も又同様に、縁さえあればどのようにでもコロコロと変化するものであり、決まった定まった存在ではないことから、機と表現されました。
 私たちは、人を評する時、自身ではそうされることを大変嫌いますが、その人の一側面だけを取り上げて、あの人はああいう人だとか、あれだけの人だと決めつけるようにして評価を下す場合があります。人間を機としてみるということは、あらゆる可能性をその人のうちにみて、そういう一面もあるとみることです。そのことで、人を決めつけ、断定的にみないということであります。決めつけ断定することによって、その人を切り捨て、貴重な出遇いを無駄にしていることさえあるかもしれません。機とみることは、予断や偏見をもって接するのではなく、その人のありのままに出遇うことでもあります。
 そしてまた、自身を機とみるということは、失敗や挫折を行き詰まりとしないということです。失敗や挫折を行き詰まりとせず、あらたな展開の契機とみる。機であることを忘れる時、失敗や挫折が結論となって、にっちもさっちもいかない絶望の淵に自身を追いやることにもなりかねません。機とみる時、我々が遭遇するあらゆる事態は、次の展開の出発点として捉えることが出来ます。
 機は、人間を遇縁存在とみるということです。縁に遇い、縁によって歩み続ける者。如何ようにも変化し続ける存在。あらゆる可能性を有する存在です。
 決めつけないということは、仏の眼からみれば、全ての人を救われる存在と観るということでもあります。如何なる生き方をしていようと、救われない人などいないということです。
 分けても悪人こそ、本願に救われるべき対象であるとここでは説かれています。悪人は本願によって正機として見出されたのです。


   《 教えは誰のものか 》
 ところで最近の研究では、この悪人正機説は、親鸞聖人の独創ではなく、法然上人がすでにお説きになっておられたことであるという見解があります。しかし、この説は、別段事新しいことでは決してありません。と言いますのも、すでに、親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が「口伝鈔」第19章で、法然上人よりの「ご相承」として、「善人なおもて往生す、いかにいわんや悪人をや」ということを書いておられます。
 もっとも、覚如上人の指摘のように悪人正機が、たとえ法然上人の説いておられた教えであったとしても、親鸞聖人や歎異抄が決して色あせるわけではありません。誰が説かれた教えであるかと言うことは、教えの系譜や展開を見極める上から、あるいは仏教史学の観点からは大きな関心事となるべき事ではありますが、教えを聞くという上からは、その教えにより気付かされ、目覚めさせられることこそが肝要であり、誰が説かれたことなのかということは副次的な事柄といえます。
 誰が説いたかということより、その説かれた教えが実相を言い当て、人を目覚ましめるはたらきをもっているかどうかが重要なのです。たとえば、人を目覚ましめる教えである時、それが親鸞聖人が説かれたものであろうと、市井の無名の人が説いたものであっても、教えとして、そこに軽重は全くありません。教えの持つ真実性は誰かに帰せられるようなものではありません。仏法に著作権などあり得ません。教えそのものが持つ真実性が人を頷かせ、人に伝わります。教えに深く頷いたものによって、その教えが他に伝わっていきます。それが教化ということです。教化は、人間が果たせる仕事ではありません。人が人を教化できるものではありません。教えそのものが、人をして頷かしめるのです。人が果たす教化活動というのは、そのための機縁づくりというお手伝いであります。
 人が人を教化することなど出来ませんが、教化にあずかる者からすれば、人を通して教えにふれ、人から教化を受けるということが大変有効であるといえます。矛盾することを言っているようでありますが、そのことは、歎異抄の第6章のテーマである「弟子一人も持たず」という事にも通じます。つまり、親鸞聖人は、自分が教化して人に念仏申すようにさせたわけではなく、「弥陀の御もようしにあずかって念仏もうす」人を弟子とは言えないとおっしゃる。同時に、その親鸞聖人自身は、どこまでも法然上人の弟子として、ご自分を位置付けられているということがあります。法然上人から教えられ、教化を受けて念仏申せる身になったから、どこまでも法然上人は師であるが、自分が教化して念仏申すようにさせたわけではないから、自分の弟子はいないと言われる。教わったというものの上にしか、教化の事実はありません。人が人を教化することは不可能ですが、人は人によって教化されるものです。私が教化したという人がいたら、それは単なる傲慢なる思い違いに過ぎません。

 
 
   《 善・悪と善人・悪人 》
 話を戻しますが、ここでは善人・悪人についての価値の大転換を提示していますが、それがそのまま、善・悪の相対化を図るものであるということにはならないかと思います。
ここで言われている善人は善を為す人、悪人は悪をはたらく人ということではないように思われるからです。では、いかなる人を善人・悪人というのかについては、あとで触れたいと思います。
 ところで、善・悪についての親鸞聖人の了解は、歎異抄の後序に、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とあるところに知ることが出来ます。善・悪については、よく知るところでない。その理由として、如来のお心ほどに徹底してわかることができないからとおっしゃる。そして、「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と続きます。全てが不実で、念仏だけが真実であるということになると、そこに独善の響きを感じ取られるかと思いますが、ここは独善というより、確信と了解したいですね。つまり、我々自身と我々の作り出すこの世界は、煩悩によって形成されているといえるかと思います。したがって、それらが、虚仮不実であることは、間違いないでしょう。一方、念仏は佛のはたらきで、真実であるといえます。何故、真実と言えるのか。それは、それ自身が真実としてあるのではなく、我々自身が不実であり、この世界が虚仮だということを気付かせるということにおいて真実と言えるのです。その念仏のはたらきによくよく頷けた。よく了解できたというのが「念仏のみぞまことにておわします」という確信でないでしょうか。
 さて、我々は、常に善悪をたて、たてた善悪に縛られている。ところが、そのたてた善悪の基準が、状況や立場・都合によってコロコロと変わる。例えば、殺人という自然法として悪でしかない行為も、戦争において、あるいは刑罰として、認められ評価されることさえあるのです。
 罪悪を問題としないような宗教はないでしょう。そして、また我々自身、罪悪のくびきを解決せんがために宗教の門をたたくことが多くあります。そんな我々に、親鸞聖人は、「悪をおそれるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」と悪の恐れから解放し、「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに」(歎異抄第1章)と、善を誇ろうとする我々にその無効であることを説かれます。悪をおそれず、善を誇る必要のない地平を念仏は開くのです。

 本題からズレていましたが、ここで善人・悪人について確かめてみましょう。ここで、善人・悪人を、よきひと・あしきひとと読むと少しその輪郭がはっきりするでしょう。
 親鸞聖人は、『唯信鈔文意』のなかで「富貴は、とめるひと、よきひとという」「賢人はかしこくよきひとなり」とおっしゃいます。つまり、よき人とは、経済的に富み、社会的身分も高く、知恵才覚に優れた人のことを指しているようです。
 一方、あしき人は、「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と表現されている箇所に言い当てられているかと思います。つまり、道ばたの小石や瓦のかけらのように、その存在が打ち捨てられ、誰からも振り返られることのない人のことです。他のところでは、下類、一文不通のひと、あるいは、よしあしの文字をも知らぬ人などと表現されています。
 よき人を、持てる人、支配する側の人、体制側の人、あるいは差別する側の人という言い方をすれば、あしき人は、体制の外側にはじき飛ばされた人、持たざる、差別され、支配される人といえるでしょう。親鸞聖人自身は、「われら」と、あしき人として自らを位置付けておられます。
 よき人は、地位もあり、財もあり、教養も備えている人のことで、自らの立場をたよりとし、自ら自身で自らをたて、支え、歩みきれると考えている人だといえるかと思います。それに対し、あしき人は、誰もその存在に立ち止まったり、その主張に耳を傾けたりすることがなく、自ら自身を自らが支えるに相応しいものを持ち得ていない人のことです。たよりとするものを持っていない人。
 よき人は、他の何かをたよりとする必要がありません。他力をたのむということがおこらないのが当然です。では、あしき人は、たよるものがないからといって、そのままで弥陀の本願の正機であるといえるのでしょうか。次回は、より詳しくそのあたりを確かめたいと思います。