歎異抄に聞く

第11回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
        第3章について(その2)  


   歎異抄第3章
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。


    《 悪人が正機ですか? 》
 前回、善人は、よき人といわれる人たちのことで、善行を行う人ということではなく、経済的にも富み、社会的身分も高く、教養に恵まれた、自らを支え、たよりとするものを持てる人たちのことであり、また悪人とは、あしき人といわれ、財産もなく、身分低く、誰からも認められず、自らを支え、立場とするものを持たない人々のことであると申しました。
 よき人は、持てるものをたよりとし、支えとし、それを自らの立場としがちです。その在り方こそが、自力といわれるものなのです。
 ところで、我々は、みな、この身を支えるに充分な財産、教養、社会的地位等を身につけることを目指して生きているのではないでしょうか。そして、実際、家族をたよりとし、仕事をたよりとし、財産、体力、我が能力をたよりとし、支えとしているのが私ではないでしょうか。
 いわば、我々は、よき人を目指して生きようとしているといえます。その支えが強固であるように、たよりになるものがより丈夫であるように、立場が磐石であるようにがんばっているのではないでしょうか。わが身をたのみ、我が力をたよりとする我々の在り方は、自力そのものなのです。
 たよりになるものを、出来るだけ多くこの身の回りに集め、この身を支えようとし、それらを、我が立場としています。したがって、たよりになるもの、支えになるものがいっぱいあると思っているうちは、何も他をたのむ必要など感じることがありません。そのことを、この章では、「他力をたのむこころかけたるあいだ」と、言い当てて、本願のはたらく対象とはならないといわれます。
それでは、自らを支え、たよりとするものを持ち合わせていない、たのむものなきあしき人は、そのままで、本願にかなう在り方といえるでしょうか。悪人正機という表現は、そういうことになります。つまり、悪人であること、立場とすべきものを持たぬあしき人であることが、本願にかなう存在であることに。しかし、その表現は、十分的確に言い当てているとはいえないのではないでしょうか。
 それはまた、わが身をたのみ、我が力をたよりとして、縁のあるあらゆるものを支えとして生きようとしている私においても、突然の出来事や病に冒されることで、その支えが意味を失い、立場としていたところが足下から崩れ去るということが起こらないとも限りません。それは、当てにならないものを当てにし、頼りにならないものを頼りにしていたことが露呈したことに他なりませんが、だからといって、それが、そのまま、本願にかなうものとなるかといえば、そうはならないのでしょう。
 頼りとし、立場と出来るものが無くなって、自暴自棄になったり、快楽主義に走ったり、ニヒリスティックになったりすることもあります。
 当てになるものがあるか、無いかということが中心なのではなくて、ここに「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば」あるいは、「他力をたのみたてまつる悪人」と、明確に示されているように、「他力をたのむ」ことこそが、肝要であると知らされます。正機は悪人ではなく、他力をたのむ人なのです。悪人正機では不十分で、他力をたのむ人こそ正機なのです。



    《 他力と自力 》
 ところで、他力・自力という言葉については、ほとんど説明を加えないまま用いてきましたが、一般的な理解では、他力というと、他人の助力であったり、他力本願というと、他人の力をあてにしたり、他人の成果に便乗したりすることと受け取られています。また、自力といえば、自分一人の努力とがんばりとみられています。
 そして、真宗は自力無効と、努力を否定しているように受け取られているかと思いますが、それは誤解でありまして、決して、努力を否定するものではなく、かえって努力を尽くせるものとなることが願われています。
 清沢満之に「天命に安んじて、人事を尽くす」という言葉があります。諺でいうところの「人事を尽して天命を待つ」という表現をかりて、真宗の教えを明らかにしようとするものといえます。「人事を尽して天命を待つ」というのは、精一杯の努力をして、あとは天命に任せる。やるだけやって、あとは運任せということですが、これは随分と残酷ではないでしょうか。出来るだけの努力をせよ、しかしその結果は運次第ということでは、余りにも報われない話ではないでしょうか。それでは、努力の甲斐がありません。
 一方、「天命に安んじて、人事を尽くす」とは、ありのままの自分を受け容れて、ベストを尽くして努力するというものです。真宗は、努力を否定する教えではなく、努力しがいのある私を確立する教えなのです。

 さて、自力・他力の用語ですが、これはもともと仏道において立てられたものです。つまり、(さと)りを得るのに自力の仏道と、他力の仏道があるということです。
 自力の仏道は、私たちが学問をしたり、瞑想をしたり、読経をしたり、聖地を駆けめぐったり、写経をしたりする善行を、覚りの方向に振り向けて、そのことによって少しでも覚りに近づき、やがて覚りを得ようとする仏道であります。その仏道は、我々の努力と実践によって覚りを獲得しようとするものですから、頼りになるのは、仏道を歩もうとするやる気と、それらの実践に耐えうる知力と体力です。したがって、その仏道は、歩もうとする者が、やる気を無くしたり、体力の限界を感じた時、その仏道は同時に、跡形もなく消滅します。その意味では、歩もうとする者が、その仏道の正しさを証明するということになりますし、それは、歩もうとする者が仏を証明すると言うことでもあります。そしてそこには当然、歩める人と歩む気はあっても歩めない人が出てきます。それは、一部の聖者にしか歩めない仏道ということから聖道門ともいわれます。
 ところで、親鸞聖人は他力については明確に、「他力というは、如来の本願力なり(行巻)」と、規定されています。そして、本願とは、我々を浄土に往生させることで救おうとする仏のはたらきのことです。その本願を根拠とし、本願によって出来上がっている仏道が、他力の仏道といえます。一切のものを浄土に往生させようというのが本願ですから、その仏道を歩もうとする者には、なんらの条件も要求されることはありません。つまり、誰でも歩むことの可能な仏道ということです。


    《 他力をたのむ 》
 自力・他力という言葉は、もともとは仏道における概念といえるでしょうが、他力の仏道が全ての人に開かれているということから、仏道が生活から離れて特別なものとしてあるわけではなく、生活が仏道であるという意味をそこに開いてきます。そして、自力・他力も仏道における用語であるより、人としての生き方、在り方についての表現として用いられるようにもなってきます。
 この章での自力・他力は、生き方、在り方の問題として用いられています。それは、親鸞聖人の指摘にも見られることで、「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり(一念多念文意)」と。ここで行者といわれず、ひとなりと。つまり、仏道の歩み方ではなく、人としての生き方として取り上げられています。それは、前述しましたように、自分の考えや、いままでやって来た経験を間違いないものと思い、それに執着し、それを立場として生きようとしているわれわれの在り方そのものが、自力なのだという指摘であります。
 自力のこころをひるがえすというのは、自分の考えや理性や経験をたよりとし、立場としている在り方が転ぜられるということです。しかしそれは、我々の努力や心がけで転じることなど出来るものではありません。自力のこころがひるがえされ、転ぜられるのは、たのむべき他力が我々の上に至り届き、展開するというかたちで、自らの立場が転ぜられるということが起きるのでしょう。
 その他力とは、先程は本願力であるといいましたが、それはまた、事物の実相といってもいいでしょうし、道理そのものともいえるかと思います。
 自力のこころがひるがえされて、そして他力をたのむものになるということであるより、他力に触れることで、自力がひるがえされるということが成立するということです。とはいえ、そのことによって、自分の考えや経験を立場とするものから、道理そのものを立場とするものに改変されることになるのかといえば、そうではないのでしょう。
 どこまでも我が思いや考えに立とうとする凡夫に違いはないのです。その凡夫が、他力にふれ、実相に触れ、道理に促されて、我が考えや経験を立場とする在り方を破られ続ける。それこそが、他力をたのむということが、我々の上に開く具体的な姿なのでしょう。
                                                (つづく)