歎異抄に聞く

第7回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
                第2章について(その1)  

 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
 しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。
 もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。                                  後 略


ご一読だけでは、すぐにご了解いただきにくいとは思いますが、とはいえ、おおよそのことはご理解いただけるのではないかとも思います。
 念仏の行者が、その信心にゆらぎが出て、はるか京都の親鸞聖人のもとに、改めて教えを請いに来たわけです。その門弟に対して、親鸞聖人は、「念仏が往生の原因となるか、地獄に堕ちるたねとなるか、私は知らない」と、大変ショッキングなことを述べておられます第2章に、今回から入ります。
 まず、この章の場面設定から説明をしなければならないかと思います。それには、その背景からお話しせねばならないかと思います。そこで、親鸞聖人のご生涯を、駆け足でたどってみたいと思います。
 
《親鸞聖人のご生涯》

 親鸞聖人は、1173年、平清盛が全盛を誇っていた頃、京都の東南にあたる日野(現在は伏見区日野)の地に生まれられ、九歳で出家され、その後29歳まで、比叡山で学ばれました。その間、常行三昧堂の堂僧をされていたと言われています。
 二九歳の時、それまで二十年間、三昧に励み、修行を重ねても、これこそが自らの進む道だという実感を得られず、なんとか確かな光を得たいものだと、京都市中の六角堂に百日の参籠をされます。六角堂は、聖徳太子が大阪の四天王寺創建にあたり、木材切り出しの安全を念じて建てた御堂であります。聖徳太子を慕われていた親鸞聖人は、太子ゆかりの御堂に籠もられて、迷いを断つ道を問い尋ねられたのです。そして、九十五日目の暁に示現を受けられて、法然上人のもとを往かれたのであります。その示現は、救世観音のお告げであった言われていますが、その内容は定かではありません。
 ただ、親鸞聖人の曾孫にあたる覚如は、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」という文であるといいます。これは女犯偈と言われるもので、意味するところは、「もし、道を歩まんとする行者が、女性と添いとげようと望むならば、私が玉女となって現れ出て、あなたの人生を豊にかざり一生添い遂げましょう。そして、臨終にあたっては極楽に導きましょう」というものです。
 つまり、性の問題です。それまでの日本の仏教では、仏道を歩もうとする者にとって、性の問題は、はなから問題になりませんでした。女犯は、断頭罪、頭を断つにあたいする、つまり仏道を歩もうとする根っこが断たれ、そのうえ地獄に堕ちるとされました。性を克服できないものは、仏道を歩む資格がないとされてきました。性に限らず、欲望に打ち克ち、克服出来た者の道ですから、聖者の仏道、聖道門仏教といわれます。
 しかし、性も含めて人間でありますし、欲望を抱えたものが人間です。聖道門仏教は、人間が人間である事を捨てて、はじめて成立する仏教という事になります。それに対して、法然は、人間が人間のままで歩む事の出来る仏道がある事を明らかにしました。それが、浄土門仏教です。
 では、どうして欲望を捨てる事もなくて、歩む事の出来る仏道があるのでしょうか。それは、仏道を成立させる根拠が、如来にあるからです。急に飛躍があって、付いていけないと思われるかも知れませんが、もう少し我慢して下さい。聖道門仏教は、道を歩まんとする行者の決意がすべてです。その仏道を成り立たせる根拠は、行者の意欲の所にしかありません。その行者が、異性に心奪われているようでは、そこに仏道は消えてなくなります。行者が欲望に振り回されていたのでは、もはや行者とはいえず仏道も存在しなくなります。仏道が行者の道を求め歩もうという意欲にのみ支えられているとき、意欲の消滅は、同時に仏道の消滅を意味します。
 一方、浄土門仏教は、迷っている我々を救い取ろうという弥陀の本願が根拠です。したがって、念仏者が異性に心奪われ欲望に流されていても、仏道が消えて無くなるわけではありません。かえって、如何ともしがたい欲望の只中を生きるしかない自身を見つめる事が、弥陀の本願への大きなアプローチともなります。また、弥陀の本願にふれる事により、いよいよ欲望に絡め取られている自身が照らし出されます。そして、その欲望の身を居直る事も、言い訳もせず、悠々と生きていけるのです。
 
この救世観音の示現によって山を下りる決意を固められ、法然上人のもとに教えを請いに身を置かれました。性の問題を通して、人間が人間のままでたすかる事の出来る浄土門仏教への参入と、聖道門仏教との訣別が語られているといえます。
 
そして、法然上人のもとで六年間、教えを聞いてこられましたが、三五歳のとき、法然上人の吉水教団が、仏教界の意向を受けた権力が大弾圧を加えました。四人が死罪、八人が流罪という厳しいものでした。親鸞聖人は越後の国分に流されました。それから、今年はちょうど八〇〇年になります。
 では、宗教家を四人も死罪にするほど過酷な弾圧が、何故行われたのでしょうか。また、何が弾圧されたのでしょうか。当時、比叡山でも念仏は行法として用いられていました。つまり、決して念仏が弾圧されたのではありません。弾圧されたのは専修念仏であります。法然の提唱したのは、念仏のみが仏道であり、その他の修行等は修める必要がないというものです。南都北嶺の仏教界は、体系化された修行や加持祈祷をこととしていました。その全体が否定されるものと受け取られたわけです。また、当時の権力は、仏教勢力と互いに協力関係を結び支え合って維持していました。仏教界の否定は、権力基盤の否定ともなり、過酷な処断になったといえます。それはまた、権力が恐れを抱くほど法然上人の教えが多くの人に受け容れられたということでもあります。

 越後に流された親鸞聖人は、その日を生きる事で精一杯のいなかの人々との出会いのなかで、この人たちこそ、法然上人が明らかにされた専修念仏の教えによって救われるべき人たちで、自身もまたその一人であると、愚禿親鸞と名のられます。
 四年後、流罪が解かれますが、京都にはお帰りにならず、四十を過ぎた頃に関東に赴かれ、今の茨城県を中心に二十年のわたって教化にいそしまれます。
 そして、六十を過ぎた頃、京都に戻られて、九十でお亡くなりになるまで、著作活動をされていたと思われます。

 《十余か国をこえて》

 駆け足で親鸞聖人のご生涯をたどりましたが、関東での二十年の間に、多くの人たちが薫陶をうけ、親鸞聖人が京都に戻られてからは、その人たちが教えを聞き続ける集いを作っていきます。原始真宗教団の誕生です。
 しかし、この関東教団では、いろいろな問題を抱えることとなります。親鸞聖人の説かれた教えと異なる自説を主張するもの、地元の権力者との軋轢、勃興し始めた日蓮宗徒との問題等、それらに対して、親鸞聖人は丁寧にお手紙でやり取りをしておられます(日蓮宗徒のことは出て来ない)。そして、混乱収拾のために、自身の名代として子息の善鸞を、京都から関東に差し向けられます。
 ところが、その善鸞がよけい混乱を大きくする方向に動いたがために、ますます混迷は深まり、八十四歳という高齢になられて頼りとしたい息子を義絶されるという事態にまでいたります。それというのも、善鸞が先輩の門弟を差し置いてリーダーになりたかったのか、「私は父から夜中、密かに教えを受けた。皆に説かれていたのは、不十分な教えで、本願など萎める花のようなものだ」と、自分一人だけが、親鸞聖人から本当の教えを聞いていると、吹聴したからです。
 実は、この様な混乱の中にいた関東の門弟たちが、直接、親鸞聖人から、いま一度教えを聞き直そうと、はるばる京都まで、やって来られた。そこで、交わされた親鸞聖人からの言葉が、この第二章のところです。

 当時、旅は大変な事であったと思われます。道中の安全、経費、病の心配等々、まさに命がけという事でしょう。茨城から京都までですから、常陸を起点として、下総・武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・近江そして山城まで、実に十二の国を超えてと言う事になります。
 命をかけても聞かねばならないことがあったのでしょう。

 《問うべき問いを明らかにするのが師》

 我々であったら、命がけで旅をしてきた人々に掛けるとしたら、ねぎらいの言葉でしょうが、親鸞聖人は、あなた方がここまで来られたのは、「往生極楽の道を問い聞かんがため」であろうと。これは、少し変ですよね。尋ねてこられた者が、尋ねてきた者の本意を言うというのは。しかし、そこに師の意味がある。先程見ましたように、関東教団の動揺の渦中にある人々が、先行きの不安とか、戸惑いとか、一人ひとり様々な思いを抱えてここまで来たのかも知れないが、一番心の奥の志は、往生極楽の道を聞き開きに来たのだと、何を「問い」としているかを言い当てる。問うべき問いを明らかにすることが師のはたらき。答えを教えるのが師ではなく、問うべき問いを示す。

 学問というのも、文字通り問いを学ぶのでしょう。ところが、いつの間にか、答えを学ぶ、あるいは覚えるようになってはいないでしょうか。学問の場が、学答の場になってはいないでしょうか。学問は、本来人生の問いを明らかにする事であったはずです。したがって生涯学び続けるということは、至極当たり前の事であり、生きている限り、問い続けなければならないのは、人生の目標であり、人生の値打ちであり、人生そのものであります。その問うべき問いを間違わず、その方向をあやまたず指し示す事が師のはたらきです。

 はるばる尋ねてきた弟子に、想いは様々であろうけれども、一番深いところで明らかにしたいのは、往生極楽の道を聞き開くためにやって来たのだと、訪問の理由を言い当てる。何処に問題があるのかという、問題の所在を指摘する、それが師。
 人生において、何が本当に問題であるのかが、我々にはわからないということがないでしょうか。仏教は、人生の問うべき問いを問題にしたといえます。