第6回 いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします |
第1章について(その2) 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 この文章は、歎異抄本文の一番最初にあたります。前回に続き、この文章について述べてみたいと思います。 ≪法蔵の誓願か、弥陀の誓願か≫ ここに、弥陀の誓願とありますが、本来菩薩が願を起こし、その願が成就して仏となられるわけですから、ここでは法蔵菩薩が誓願を起こし、その誓願が成し遂げられて阿弥陀仏という仏となられました。したがって、誓願は法蔵の誓願であって、弥陀の誓願という表現は正確でないと思われるかもしれませんね。 たしかに厳密には、法蔵の誓願というべきところを、弥陀の誓願というのには、理由があるのでしょう。法蔵の誓願という表現では、誓願が成就したかどうかが、不明でありますが、弥陀の誓願と示すことによって、誓願がそのとおり成し遂げられ、阿弥陀仏と成られたことを表します。誓願が立てられたが成就したかどうかわからないというのではなく、一人残らず浄土に往生させたいという誓願が成し遂げられ、阿弥陀仏と成られたことを示しています。 つまり、すでに、ここに我々が救われる道筋が明確に立てられていることをしめすのであるというわけです。あとは、我々が、その道理を頷くかどうかがあるだけということです。 さらに、弥陀の誓願と示すことによって、仏が現にましますことを表します。そのことは、「今現在説法」今まさに仏が説法されていることを表します。そのことがなければ、経典は神話を説く、文化の一領域に入ってしまうことにならざるを得ません。大昔に、阿弥陀仏になられた菩薩がおられたということではなく、今この私に目覚めよとはたらいている仏が現にまします。そのことを、弥陀の誓願という表現で教えられます。 ≪不思議≫ ところで、不思議というと、何かよく分からないこと、訳が分からないことを指すように思いますが、それは不可解というべきところで、不思議というのは、不可思議、つまり思議できないことをいいます。思議というのは、われわれの分別や考えのことですから、分別・考えや想いを超えていることをあらわします。 しかも、それは出遇い得たときにいえることです。出遇ってもいないことを、不思議とはいえません。出遇い得た世界が、いままでの尺度や考え方では到底理解し、また表現できない。われわれの分別や経験では、計り知れない世界に出遇えた。あるいは、その世界に出遇うことによって、まったく考えも及ばぬ自分自身を見いだすことができた。考えもしなかった自身に出遇いえたと言ってもいいかと思います。 ここでは、我々の分別を超えた弥陀の誓願によって、相対差別の世の中で、他に勝つこと、勝他を原理とし、解放された欲望のなかで、快楽をのみ求めて生きているこの私に、「仏の国に生まれんと願え(欲生我国)」という声が聞こえた。そして、自分のことしか考えずに生きているこの私に、あらゆる人々と共に浄土に生まれたいということが課題となった。このような思いもつかない自分自身との出遇いを、弥陀の誓願不思議によって開かれたという感動が、不思議ということなのでしょう。 ≪世自在王仏≫ それはまた、法蔵菩薩が世自在王仏に出遇われた時にも、同様のことが起こったのでしょう。世自在王仏と出遇われた時には、王であった法蔵は、私もまた世自在王仏のようになりたいという願いを起こし、王位を捨てて求道者となられます。王であった者の上に、そういう出遇いが成り立つことも不思議といわざるを得ません。 そして、世自在王仏という仏の名に、法蔵がどのような存在になろうとされたのかをうかがい知ることが出来ます。それはまた、我々自身が願い求める世界と別のことではないのでしょう。 世自在王仏の世は、世間を指しています。世間とは、我々の生活しているこの世界のことです。世間は、遷流(センル)にして、敗壊(ハイエ)なるものという定義がなされます。 つまり、移り変わり、流れ去り、絶えず変化することをよぎなくされ、しかも、元の形をとどめず壊れ去るものということです。変化し、壊れることを本質とする世間にあって、自在に生きる。自在は、自ら(みずから)在る。世間は、どのような状況にもなりえますが、いかなる状況にあっても、自ら在る、つまり、私が私自身を失わず、私であるという自在を生きる。いわば、独立者の名乗りが世自在といえます。 たすかるとか、救われるということによって、この私がどのようになることかと言えば、それは、独立者としての私を生きるものとなること以外にはありません。 ≪往生をとげる≫ つぎに、往生についてですが、一般に、この言葉は、どのように理解されているでしょうか。「大往生」とか「往生されました」というときは、亡くなることを意味します。また、「渋滞で往生した」というと、困ったという意味になります。困ったという使い方は、死ぬことは我々にとって最も困ったことであることから、そこから派生したと考えられます。どうも、往生は死の同義語として受け取られているようです。 往生という言葉は、往きて生まれる、あるいは、生まれ往くということであって、そのどこにも死ぬということと繋がるものはないにも関わらず、どうして、そのような理解がなされるようになったのでしょうか。 往生は、元もとその下に、浄土がついて、往生浄土と熟語されるものです。浄土に往生するということです。そして、その浄土に往生するのは、死んでからであるという理解があったものですから、往生浄土と死が同じように見られ、往生が死ぬという意味に使われるようになったものと思われます。 しかし、死んでから浄土に往生するということが、親鸞聖人のお心にかなうでしょうか。穢土のただ中を生きている、この身において、浄土の徳を生きる者となることこそが、親鸞聖人のおしえであります。 往生浄土とは、いまこの身において、浄土に照らされ、浄土を根拠として穢土を生きる者となる。つまり、穢土を独立者として生きる者となることこそが、念仏が開く往生であります。 |