第5回 いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします |
第1章について(その1) 今回から、やっと本文第1章に入ります。本文が18章と、前序と後序がある歎異抄ですが、この第1章には、全体を貫くエッセンスが凝縮されているということができます。 つまり、歎異抄はこの第1章で尽きるといってもいいほどであります。 その中でも特に肝要な文章は次のものです。ここに、引用します。できましたら、この文章を何度もなんども読んで頂いて、それも声に出して読んで頂きたい。そして、暗唱していただくほどにまで読み込んで頂けたらと思います。 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 ≪弥陀の誓願≫ ここでは、一応弥陀の誓願という、小見出しを立てましたが、弥陀の誓願と不思議は切り離すものではありません。読んでいただくときも、ここは弥陀の誓願不思議と一息で読みます。切って読むと、弥陀の誓願という不思議な用きに、という意になります。 不思議と分けて二つにできないところですが、敢えてここでは、弥陀の誓願を取り上げます。 弥陀の誓願は、本願ともいい、浄土真宗は本願の宗教といわれ、教えの根幹であります。 本願については、無量寿経に神話形式で次のような物語が説かれています。 ある国王が、世自在王仏という仏の説法を聞いて、いままで味わったことがないような深い感動と喜びを得て、菩提心を起こします。菩提心とは、真実を求め、道を求める心です。そして、直ちに国を棄て王を捐てて、道を求める沙門となって法蔵と名告ります。 我々の最も望むことは王になることではないでしょうか。王というのは、領民の殺生与奪権をもち、責任を負う事を除けば、すべてを思うがままにふるまえるわけで、われわれの理想と言えるでしょう。その理想としているあり方を捐てるほどの感動を受けたのです。 そして、法蔵は世自在王仏のように生きたいという願いをもちます。そこで、世自在王仏に「わたしも、あなた様のような生き方をしたいのです。どうか、そのための教えをお説き下さい」とお願いするのですが、世自在王仏は、「それは、あなた自身の問題である。あなた自身が考えなさい」と突き放します。それに対してさらに、「私のできることではありませんので、是非お教え願えないでしょうか」と、懇願をする。そこで、世自在王仏は、二百一十億の仏土を法蔵に審らかにお見せになった。法蔵は、あらゆる諸仏の世界をよくよくご覧になり、長いながい思惟を経て、お浄土を建立するために選び取られた清浄の行が48の本願であります。 ≪二百一十億の仏土≫ 210億の仏さまの世界ということですから、なんかホラ話のように聞こえるかも知れませんが、数え切れない仏さまの世界というようにご理解頂きたいと思います。 これまでに、「こうなれば、たすかる」「こうすれば、救われる」「こうすることで、幸せになる」「これが、人生の目的だ」と、どれほどの教えが説かれて来たことでしょうか。 現在の日本に限っても、手元に資料がありませんので正確な事は申せませんが、一万をはるかに超える宗派があります。真宗大谷派を1と数えての教団が1万を超えます。つまり、「こうすれば、たすかる」という教えがそんなにもあるということ意味します。そこには、もちろん、教祖と少数の信者という極小さな教団も入れてのことですが。 他の国においても、日本ほどではないでしょうが、多くの教えがあることでしょう。それが、人類が始まって以来のことを思い合わせると、数え切れない教えがあったということを想起することは、そう困難なことではないでしょう。 それらのすべての世界をつぶさに見せられ、そのなかから、清浄の行を選び取られたというのです。それが、48願です。 ≪48願≫ その48本願は、等しく「もし私が仏に成り得たとしても、この願が成就しなければ、正覚を取らない」と、誓いをたてておられます。そのため、特に誓願とも言われます。正覚とは、成仏ということですから、この誓いは、自身の成仏を、願の成就にかけられるわけです。願成就とは、衆生を一人残らず救済するということですから、つまり、ここでの弥陀の誓願は、一人でも衆生をたすけることができなければ、私は仏とならないという意であり、自らの成仏を衆生の救済にかけたわけです。そこに、誓いという意味があります。 48願と言いますが、48通りの願があるわけではありません。48も願があるのでしたら、本願ではなく諸願ということになります。そうではなく、一つの願を48通りに表現したのです。その一つの願は、18番目に説かれる18願のことを言います。それは、中心にして根本であるということから王本願とも言われます。 18願は、「南無阿弥陀仏と仏の御名を聞いて、浄土に生まれたいと願う人を一人残らず浄土に生まれさせたい。そうならなければ、わたしは仏にはならない」というものです。そして、この願によって我々がたすけられるのです。どのようにたすけられるのかと言えば、「この私もまた、浄土に生まれたい」という私を言い当てられ、私自身の根源的な欲求を知らされ、気付かされることにより、すくわれるのです。 ただ、「浄土に生まれる」ということが、どういう事を指しているのかがはっきりしないかと思いますが、浄土真宗のすくいとは、「浄土に生まれることを願う私となる」こと以外にはないということだけはご了解頂けたらと思います。 そのうえで、「浄土に生まれる」とは、どういうことであるのかを聞き開いていただきたいのです。教えを聞くというのは、そのことを聞くことを言います。 ≪出遇い≫ 物語として語られる本願のはじまりは、世自在王仏の説法に国王が心に深い喜びを感じられたところにあります。そして、王を捐て、沙門となります。そこに、世自在王仏と国王との出遇いがあります。それはまた、親鸞聖人が29歳の時に法然上人出遇われたことを思い起こさせます。20年にわたって比叡山で学問修行を重ねられましたが、これで間違いなしという実感をもてなくて、途方にくれておられた親鸞聖人が、法然上人の説法にふれて、私もこのような生き方をしたいと、自らの人生の方向を見いだす事ができたところに出遇いはあるのでしょう。国王にしても、親鸞聖人にしても、師によって今までとは全く異なった世界を与えられたように感得されるということが、おこったのでしょうが、しかし、その内実は、自身では、いままで気付きはしなかったけれども求め続けていたことを、世自在王仏の説法によって、法然上人によって、言い当てられ、掘り起こされたと言うことではないでしょうか。出遇いとは、師に出遇うことによって、私自身の一番深い欲求に出遇う事でもあると言えないでしょうか。そういうことでは、常に求め続けるところにしか、出遇いは起こらないと言うことでもあります。こちらが何も求めていなくて、棚ぼたのようにしては、出遇いはないといえます。 |