歎異抄に聞く

                第4回

以前、いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録です。
現在は、年2回、寺報「プラサーダ」に掲載しております。

 
前序について(その2)
 
 前号に続き、前序について、ふれてみたいと思います。前序の中で、特に「有縁の知識」と、「自見の覚悟」という二つの言葉を取り上げました。そのうち前号では「有縁の知識」について確かめましたので、ここでは、「自見の覚悟」という言葉を通して、浄土真宗の教えについてご一緒に考えてみたいと思います。
 この教化欄では、歎異抄について述べていますが、それは、歎異抄についての諸々の知識を持って頂きたいからでは、決してありません。歎異抄を通して、浄土真宗の教えにふれて頂きたいからであり、歎異抄により浄土真宗の教えをご一緒に考えたいからであります。
 したがって、歎異抄そのものを解読することが課題であるより、それを手がかりとして浄土真宗の教えを確かめることに重点を置きたいと思います。そのため、全文についてふれるのではなく、大事な言葉に立ち止まって、確かめていきたいと思います。
 ただ、このことから、歎異抄に興味を持たれ、改めてたずね直してみたいという方が出られたら、それほど有り難いことはないのは、申すまでもありません。



≪一水四見(いっすいしけん)≫
  
 
 序文には、「全く自見の覚悟を以て、他力の宗旨を乱す事なかれ」とあります。自見の覚悟で他力念仏の教えを乱してはならないと。自見の覚悟とは、独りよがりの理解、自分勝手な了解ということであります。念仏の教えに遇いながら、自己解釈を加えて自己了解したところを、他の人に伝えることは、念仏の教えを混乱させることになる、そういう問題提起であります。
 ところで、我々は、教えに遇い、教えを聞く時、自己了解をまぬがれないということがあります。
 それは何も、教えに限ったことではありませんが、我々が何かを理解するということは、それを我々の今までの知識や経験によって、咀嚼し、整理して、我が認識とします。そういうことでは、我々の認識は、自己了解を一歩も出るものではないといえます。
したがって、同じものを見ても、同じ事を聞いても、見る者、聞く人によって異なった受け取りかたをするという事になります。
 そういうことを、一水四見という喩えで、教えられています。同じ水を見ても、天人は宝で飾られた池と見ますし、人間は水と見ます。水を飲むことの許されない餓鬼には、膿血と見えますし、魚には住処と見えるというものです。見る者、聞く人の境遇、状況、関心、あるいは経験によって、それぞれ違った見解を持つということです。
  

≪得手に聞く 意巧に聞く≫ 

 それは、教えについても当てはまります。そして、それが問題であるというのが、ここの課題です。
 蓮如上人の頃のエピソードとして語られていることに、蓮如上人が大変大事なお話をされたので、それを聞いた人が、このままにしておいては、忘れたりしてもったいないからと、六人の人が座談会をして、お話の確認をしたら、四人の人が、全く違ったように教えを聞いていた、というものであります。
 それを、蓮如は、得手に聞き、意巧に聞き、面々にききかえられそうろうと、教えられています。
 得手に聞くとは、自分に都合のよいように聞くことであり、意巧とは、こころたくみに聞くことで、いづれにしても、自分の想いに合うように聞き変えるという事が我々に起こるということです。
しかし、これでは、折角、教えを聞きながら、教えを聞いたことにはならず、自分の想いを聞いた
教えを通して、確認したことに過ぎません。
 教えを聞くとは、教えのごとく受け取るということがなければなりません。しかし、我々は、自分
に合うようにアレンジして受け取ろうとします。そこに、我々が、教えに何を期待するかということが大きく関係するように思われます。つまり、教えを聞くことによって、仏教のユニークなものの見方を身に付けたり、仏教の知識を得ようとしていないでしょうか。教えを、我々の生活に役立てるものとしてみていないでしょうか。おかしな事を言うようですが、仏教の教えは、我々の生活に役立つものではありません。役立つものなのではなく、我々を救うはたらきです。


 
≪三止三請の教え≫ 

 法華経が説かれるくだりに、こういうやり取りがあります。舎利弗(シャリホツ)が、お釈迦様のお顔をみて、今日のお顔はいつになく、こうごうしく輝いておられる、これはきっとすばらしい教えを感得されたに違いない、それを是非お説き下さいと懇願する。
 それに対して、釈尊は、もし聞けば恐れをなすであろうと答えられる。なおも、お説き下さいと懇願する舎利弗に、聞けば大坑に落ちるであろうと言われ、それにめげず舎利弗は、三度にわたって懇願する。そのとき、五千の慢衆がその会座から去ったとあります。そこで、釈尊が教えをお説きになる場が整ったといわれます。舎利弗が三度懇願し、それを拒否されたということから、三止三請といわれる。
 そこに、教えにふれれば恐れをなすと説かれ、大坑に落ちると言われ、そして、五千の慢衆が去ったとあります。ここで、五千の慢衆とは、我々の自慢の心であり、誇り偉(えら)ぶりたい想いであります。聞き得た仏法を誇る心です。つまり、仏法を聞き知ることによって、自分を高め、偉くなろうとするような関わり方が指摘されています。いわば、教養として仏法を聞こうとする時、恐れをなし、地獄の大坑に落ちると言われる。恐れをなすというのは、聞くことによって、今までの価値観が大きく揺さぶられて不安になることであります。地獄の大坑におちるというのは、聞いて分かったつもりになって、中途半端に覚ることによって、もう二度と聞こうとしなくなる。地獄の大坑とは、救済の機会を失うことをいいます。わかったと言う人は、それ以上聞こうとはしないものです。
 不安になって、それを解消しようと勝手な自己了解をして、生半可な覚りに至ったつもりになり、そのことで、折角貴重な教えにふれておきながら、結局、自己関心を満足させることに終始する結果となるという指摘であると思います。


 
 ≪迦羅求羅虫(カラクラチュウ)≫ 

 ところで、我々が教えに遇うと言うことは、この私がどのようになることなのでしょうか。その事を考える上で、大変示唆に富んだ喩えがあります。これは、浄土の重要なはたらきをあらわすのに、中国の曇鸞が「浄土論註」で書いていることなのですが、迦羅求羅虫という、実在しませんが中国の故事に説かれる虫のことです。
 この虫は普段は形も小さく全く目立たない虫であるのに、一旦風を受けると、その風を内にはらんで、山をも包み込んでしまうほどの大きさになるというのです。
 迦羅求羅虫は、小さくて、いわば、取るに足らない存在ですが、風をはらむことによって山をも包み込むものとなる。とは言え、迦羅求羅虫は風をはらんで山ほどの大きさになっても、もちろん風そのものではありません。風をはらむことで、風のはたらきをわがものとするということなのです。
 それはちょうど、我々も、仏の教えにふれることによって、仏になるわけではありませんが、仏と等しい徳を賜る者となるということです。教えを聞くと言うことは、私が仏になるわけではなく、仏のはたらきを生きる者となる。ちょうど、迦羅求羅虫が、風ではないが、風のはたらきを得て山をも包む存在となるのと同じであります。教えにふれることで、凡夫である私が、凡夫のままで、仏の徳を賜るということです。


   ≪談合せよ≫ 

 仏の教えにふれるということが、仏と同じ徳を賜るということであるなら、教えを聞きながら、自己解釈を加え、勝手な自己了解をしているかぎり、教えにふれたことにはならず、したがって仏の徳を生きる者とはなれないでしょう。
 教えを聞くのは、仏の徳を生きる者となる事こそが、目標であり、目指すべき方向であります。自己了解を出ることがないかぎり、決してそうはなりません。
 自己解釈を加え自己了解を出ることの出来ない我々に、蓮如は、教えを聞いたら談合せよと教えます。談合と言っても、陰で密談をすることではありません。今では、座談会と言った方が良いでしょう。各々が、了解したところを話し合い、お互いに意見を述べ合って、確かめ合い、そのことによって、独りよがりな解釈からできるだけ離れるようにすべきであると説いておられます。
 さらに大事なこととして、教えを聞き取るのではなく、教えが私のところにまで聞こえてくるまで、何度も何度も聞き続けることこそが、勝手な自己了解を超える道であるとも説かれています。
 自見の覚悟をでるには、他の人と確かめ合い、何度も何度も重ねて教えを聞き続けることこそが肝要であるようです。