世のいのりにこころ入れる宗政を

                                 グループ恒沙

 ご遠忌は真宗教団の大事ではありません。40年前、ご遠忌をきっかけにして同朋会運動がはじまったことを懐かしく回顧する人たちがいますが、もう時代はご遠忌厳修で何かが始まるなどという幻想を許さないでしょう。ご遠忌を勤めることが、教団再生の道となるなどという夢を抱くべきではないでしょう。
 これから、教団はいよいよ、ご遠忌色を強めていくことでしょう。しかし、教団の一切がご遠忌に集約されていくようなご遠忌教団にだけはならないように注意せねばなりません。
 ご遠忌は、大法要ではありますが、教団の大事ではありません。小事にすぎないことを認識することから始めましょう。
 教団がしなければならないことは他にあるのです。
 ここに、私たちの基本的な考え方と施策に対する方針を示し、ご批判を仰ぐとともに教団や宗政についてご一緒に考えていただくたたき台になればと、この小冊子をお届けします。







は じ め に 

 まず 総論において、教団を取り巻く情況についての基本認識と、近々到来するであろう情況の予測に立って(もちろんそれは、ある一断面を切り取った情況に過ぎないが、宗政を検討するうえで肝要とみられるもの)、その情況下での宗政の課題・使命・可能性について問題点を整理し、今我々に何が求められているのか、どのように応えうるか、今後の方向をみいだす視点の一つでも提示できればと思います。
 そして、教団が世界に負う責任を自覚し、その使命をよりよく果たすために、教団自身が成し遂げなければならない変化・変容・変革の方向を模索しつつ、宗祖750回ご遠忌(この名称については後述します)法要をはじめ、教団がかかえる諸問題について我々の見解を披瀝したいと思います。





T.総  論 ・ 宗 政 と は な に か
   1.宗政の果たすべき課題をどのように捉えるのか 
   2.ご遠忌・ご修復事業は「小情況」に過ぎないという認識をしよう
   3.同朋会運動40年の総括という課題は「中情況」
   4.「廃仏毀釈」再来という「大情況」のなかで希望を語れるか?

U.現今の宗政をめぐる諸課題について
   1.如何なるご遠忌を迎えようとするのか
   2.男女平等参画による同朋教団をめざして
   3.行財政改革について
   4.議会制度について

  追 記

  後 記


T. 総  論   


  1.宗政の果たすべき課題をどのように捉えるのか

  私たちは今まで、5年・10年の節目ごとに運動の点検と総括を重ねてきました。これまでの運動をどのように評価し、克服すべき課題は何であるのかを明確にするための点検と総括は、新しい基軸や新施策を展開するうえで、欠かすことのできない作業ではありますが、その作業は多く、各施策や事業を個別的にとらえ、宗政上の関心と尺度によって評価することが主眼とされてきました。
 ここでは、その手法を取らず、文化・社会・政治・経済等の歴史と現状に照らしながら、宗政をより客観化してとらえ直す方法をとりたいと思います。そこでは、自己肯定的な情況認識を決め込むのではなく、あくまで批判的態度を堅持しつつ、情況把握に努めたいと思います。
 かりに結論をさきにいうことを許していただくなら、われわれは現代版「廃仏毀釈」(※1)の大波に洗われているといえるのではないでしょうか。今、私たちがさらされている「廃仏毀釈」の波は、かつてのように国家権力が発動されて宗派活動に弾圧を加えるというような「単純明快な暴力」によってもたらされるものではありません。それは、近代化という政治的・経済的・文化的営みが招いたむなしさであり、希望のなさをいうのであります。これを軽視せず、あえて教団から意識的に距離をおき、情況を把握するために、「小・中・大」という区分をつけて述べてみたいと思います。

 (※1)廃仏毀釈:国学者や儒者の一部が仏教を批判し、明治政府は仏教を排除し、
     神道を国教化しようとした。かつては権力が行った仏教廃止運動。
     ここでは、世間の人々が仏教を排斥しようとしているという意。


  2.ご遠忌・ご修復事業は「小情況」に過ぎないという認識をしよう

 いま教団は、ご遠忌・ご修復事業一色にいろどられようとしています。しかし、ご遠忌・ご修復は小情況の域をでないことがらであります。もっとも、小情況と受け取ることは、決して「どうでもよい」と無関心を気取ることではありません。宗政のあり方が問い返される現実的な契機・節目として、宗祖750回ご遠忌法要は大きな意味があります。
 したがって、ご遠忌に対する態度表明・企画案の提示には、会派としても責任があります。 
しかし、単純に「ご遠忌法要・ご修復の円成」などというかけ声に同調し、大政翼賛的に関わらないことが大切なのではないでしょうか。
所詮はイベントであり、建物の修復なのですから。


  3.同朋会運動40年の総括という課題は「中情況」

   (1)世俗化の波  

 1962年に提案された同朋会運動は「純粋なる信仰運動」を標榜し、「家の宗教から個の自覚の宗教へ」という当時としては斬新なスローガンのもとに「信心の回復」を期したものでした。
それはまた、「七百年間、宗祖親鸞聖人の遺徳のうえに安逸をむさぼってきた」
(『宗門白書』)歴史に対する、厳粛な自己批判と懺悔にもとづいて起こった運動でありました。
 そしてそれは、封建制のなごりである「家制度」から解放された「近代的意識を持った」念仏者の誕生を期し、同時に、寺院および教団における組織・機構の近代的・民主的変容をめざしたものでもありました。そこでは、近代人としての念仏者の誕生と、組織・機構の民主的変容が宗門再生につながるものと信じられていました。しかし、宗門人の願いに相違して「純粋なる信仰運動」は、「世俗化」(※2)という波と、社会構造の加速度的変化に大きく翻弄されることになってしまったのです。
 60年代からの日本の経済状況や生活形態とその意識の激変は、宗門の基盤である農村を崩壊させ、支持単位である「家」を解体するにとどまらず、宗教に対する無関心をますます加速させ、日常から宗教性を排除することがあたかも近代的なライフスタイルであるが如き風潮を生み出しました。そのうえ、11年に及ぶ「教団問題」は、宗教的権威を失墜させるのに、さらなる拍車をかけることとなりました。
 教団の地盤沈下による影響力の低下や統合力の弱体化、あるいは世俗化によってもたらされる宗教への無関心、それらに対する警鐘は、運動当初からならされ続けてはいましたが、適切な打開策をみいだしえずに推移しました。さらには、創価学会をはじめとする「新興宗教」の伝道攻勢はすさまじく、真宗門徒集団が「新興宗教」教団の信者獲得の草刈り場の様相を呈するにいたり、寺院においては寺院経営上の死活問題ととらえられ、その不安は関係者を保守化せしめると同時に、信仰の世俗化を一層促進せしめたと言えます。
 一方、宗門は、世俗化の反動として、いよいよ中央集権化を図り、宗門への帰属意識の高揚に努めようとします。真宗本廟の「聖域化」は、その顕著な例としてみることができます。しかしそれは、決して近代化や世俗化に応えることにはなりえないことは当然です。 これらの課題に応えられなかった要因には、近代化・世俗化の問題に対する歴史哲学的知見への軽視と学び不足による宗政上の対応の甘さ、近代化によって大量生産されてくる人間の経済的、政治的、科学技術的……諸欲望、ならびに地球規模の諸問題に対する応答の言葉を持ち得ていない教学の貧困を指摘せねばならないでしょう。
 脆弱な宗政と教学の貧困が、同朋会運動の目的を支えることができないのは自明のことです。

 (※2)世俗化:ベッカー(H・Becker)によれば、社会は「隔絶された神聖社会」から
     「開かれた世俗社会」へ進化するものであるという。この前者から後者へ向けて
      の社会の連続的発展過程を世俗化という。          (哲学辞典・平凡社)
                                    
   (2)「宗風」の消滅
 
 世俗化は近代化によって生ずる3つの要因によるといわれます。

  ○社会全体に働いていた制度や機能が分化・特殊化する社会分化
  ○世界をますます経験的で合理的な観点から解釈しようとする合理化
  ○伝統的な共同体が解体されることによって、国家などのより大きな単位に再組織化
   されること(ソシエタリゼーション)

 かつて真宗門徒は独自なライフスタイルと価値観をもっていました。しかし、ソシエタリゼーションの洗礼から我々も逃れられるはずもなく、門徒とそうでない者との境界線はないに等しく、自分らしさを確認する要件として真宗門徒であるということなど意味をなさなくなっています。
 それはまた、教団においてもいえることで、キリスト教団や「新興宗教」教団に比べて、大谷派の表情がみえないという批判があります。何をする団体であるのか、何をいおうとしている組織であるのか、それらがわからないということでしょう。有り体にいえば、教団ならびに寺院は布教・伝道を使命としているようにはみられず、社会からは葬儀業としての認知しか与えられていないのが実態ではないでしょうか。
 「宗風」という言葉に、教団の実態や門徒の信仰表現のライフスタイルがいいあてられてきました。
 しかしいまや、独自の表情をすて、実態を失った教団そして門徒は、無表情のまま現代社会に投げ出されているといえないでしょうか。

  (3)「同朋公議」は宗門運営の基本原則となっているか

 いわゆる「教団問題」は、世俗化が先鋭的にあらわれた事件でした。同時にそれは、「日本文化」を問い直す問題を内包し、教団レベルでいえば、組織・制度を近代化する好機でもありました。しかし、宗派内の問題と矮小化することによって「日本文化」を俎上にあげることもなく、教団のかかえる様々な矛盾を大谷家に収斂させることによって、制度・機構にはまったく手をつけることができませんでした。
 そして教団は「即決和解」という中途半端なかたちでの解決策を選び取りました。ただひとつ評価できることは、翌年81年に新宗憲を生み出したことです。そこには、教団運営の基本原則として「同朋公議」を掲げました。教団に関わるものの意見をできるだけ広く、多く聞き取って宗政に反映していくような教団運営をしたいということです。
 それまで門徒・女性・住職以外の僧侶の意見は、ほとんど反映されることがありませんでした。住職中心の教団運営しかされていなかったということです。そこに、宗憲の前文に「同朋公議」を掲げ、教団運営の原則を示したのです。しかし、改正以来四半世紀近くの時を経過して、「同朋公議」の原則がどれほど制度上で実現されたといえるでしょうか。
 あたかも、宗憲改正に腰をおろし、内実化など放棄してしまったかの体たらくです(我々の責任でもあります)。
 そのようななか、昨年議会で、「宗議会議員選挙条例一部改正案」が興法議員団提案のまま通過してしまいました。一見、前進のようにも受け取れないこともありませんが、同朋公議の理念を正面から否定するものです(後ほど詳述)。
 近代化の政治的帰結は当面「民主主義」体制であり、また、思想的には「人道主義」といえるでしょう。その意味では、同朋会運動は教団の制度・機構の民主化を徹底しようとする運動であったともいえます。しかし、その種の試みや取り組みは、いつもいわゆる「古い宗門体質」からの反撃にあうものです。
 思えば、本来果たすべき教団の課題を明確にすることより、「古い宗門体質」との対応ばかりにエネルギーと時間を消耗してきた感さえあります。

   (4)「世をいとう」視点
 
 やや乱暴ではありますが、同朋会運動会40年を総括すれば、(1)から(3)で述べてきたように、組織・制度上での近代化への脱皮を果たし得ないまま、世俗化のみが我々の、そして教団の身体を蝕んだということではないでしょうか。
 表現を変えれば、旧体制のままの意識や制度が、現代的諸課題に揺さぶられるものですから、表面的な取り繕いばかりの対策に疲れてしまう、という悪循環を抜け出せないでいるのです。徒労と無力感が運動の火を消してしまうのです。

    「としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころを
  もおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、
  世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうろえ」
                                    (御消息集 真宗聖典P563)

 念仏申すということは、「世をいとう」ということが、この私の上に開かれてくることではないでしょうか。「いとう」とは、厭うことで、そのものを避けて離れ、身を引くことであります。つまり、そのものを絶対化し執着しそこに埋没することを徹底して許さないことであり、そのものの限界性、虚偽性、虚妄性を知らされる、智慧による作業といえます。
 一方、組織はつねに絶対化を目指します。運動はいつも無謬であることを主張します。その状況のなかで、我々は「いとう」視点を宗祖から要請されているのではないでしょうか。我が身をいとい、教団をいとう。同朋会運動が念仏によって開かれた運動であるとするなら、今こそ、同朋会運動を「いとう」作業がなされねばならないと思われます。それは、軌道修正をするという程度のものではなく、「ポスト同朋会運動」という質を持った、つまり、同朋会運動を解体するという覚悟と内容を持ったものになるでしょう。
                  

  4.「廃仏毀釈」再来という「大情況」のなかで希望を語れるか?

 かって廃仏毀釈という名の仏教弾圧が行われました。われわれを取り巻く閉鎖的・悲観的情況は、「廃仏毀釈」の再来と指摘してもいいものであります。しかし、明治期のそれとは違って国家権力による仏教弾圧ではなく、国民の「仏教離れ」というかたちであらわれているといえるでしょう。そしてまた、教団を支え続けてきた門徒意識が、同様の変化を選び取りつつあるということを認識すべきでしょう。
 このまま手をこまねいていると、寺離れ、宗門離れ、そして仏教離れはいよいよ進行することでしょう。如何なる宗教を選ぶかが個人の裁量にゆだねられ、さらに各種宗教情報の氾濫が、門徒の寺院・教団への帰属意識を後退させることは自明のことです。その予測に立つなら、寺から人へ、また、本山から教区へ、教区から組へといった宗門形成軸の重心移動、時代的転換こそが手当されてよいはずです。
 「廃仏毀釈」が進むなかでの教団の未来像は、楽観できることなど何もないといわざるをえません。宗教法人に対する優遇税制の見直しは必至でしょうし、そうなれば経営上行き詰まる寺院もでてくるかもしれません。あるいは、仏事コーディネーターなどの国家公認の業者が用意したメニューのもとで仏事が執行されるところでは、住職・僧侶の権限・裁量は大幅に制限され「儀式の執行権」すら危うくなるかもしれません。すなわち、民衆が寺院や僧侶に愛想づかしをする傾向に歯止めが効かなくなるでしょう。
 そして何より深刻な事態として危惧されるのは、寺院・僧侶が自身の社会的存在意義を見失い、自信喪失におちいるとともに、僧侶における「求道心・菩提心の衰微」が、徹底した世俗化現象としてあらわれるのではないかということです。
 この情況にあえて積極的な意味をみいだすとすれば、今日的「廃仏毀釈」を「仏教批判の宗教運動」あるいは、「宗門批判の仏教運動」として捉え直すことではないでしょうか。
 つまり、仏教離れ、宗派離れは、実は真の仏教を、あるいは真に依るに足る宗派を求めている運動なのだと、読み替えることができる時、今こそ、その欲求に応える運動の展開が求められる時です。
 それはまた、「檀家制」が寺や宗門組織を支える力を失う時こそ、同朋会運動の真価が問われる時でもあり、同朋会運動が再スタートを切らねばならない時なのです。
 それは必然的に、教団人が教団に関わる方法とシステムを変え、その関係を再定義・再構築することを迫られることでもあります。

 今、「廃仏毀釈」の再来情況のなかで、同朋会運動が当初宣言した「世界人類に捧げる教団」というスローガンは、どのように表現しなおされねばならないのでしょうか。また、掲げられた使命の実現にむけて、宗門そのものが制度的にどのような変化・変容を遂げねばならないのでしょうか。
 今こそ、新たなる運動宣言が求められているといえるでしょう。
 いま、敢えてその運動宣言となりうる具体的可能性を挙げれば、教化研究132号の「教学研究所の研究体制について」に見い出すことができるようにおもいます。ここで、前玉光所長は、時代社会全体への責任を担うものとして教団教学を位置付け、明確にすべき課題を真宗の政治学・真宗の経済ー環境学・真宗の教育学・真宗の人権学・真宗の情報ー文化学・真宗の科学としています。その目指すべき教団教学に、「廃仏毀釈」の再来といえるなか、新たなる運動宣言としての質と意味を見いだすことができる可能性を大いに感じます。


   U.宗政をめぐる諸問題 


  1.如何なるご遠忌を迎えようとするのか  

 1998年に厳修された蓮師500回ご遠忌は、一般の人々に何を発信し、どのように受けとめられたでしょうか。また、教団内には、何を生みだしたのでしょうか。蓮如をあたかも隠すようにして展開してきた同朋会運動のなかで、蓮如をどのように位置づけて讃仰するのか、という疑問はついに払拭されることはありませんでした。蓮如を讃仰するためにご遠忌を勤めたのではなく、ご遠忌があたっているから讃仰しようとした法要は、気がついたら終わっていたという感想を強く持ちます。
 ご遠忌(※3)といえど、教団に対する帰属意識が希薄で、門徒自身の関心や価値感が多様化している現在、門徒をひとつにする契機には成り得ないことを自覚すべきでしょう。
そのような情況のなかで、ご遠忌を勤める意味をどこにみいだすことができるでしょうか。
 もし、ご遠忌を厳修することに積極的な意味を見いだしうるとすれば、それは、大谷派がいかなる教団として存在しようとするのかという、存立の意義を発信するようなご遠忌を勤めるということ、さらにいえば、教団が世界に対して果たすべき使命と責任を表現する場にできるかどうかということではないでしょうか。

  (1) ご遠忌テーマについて

 テーマ   同朋を生きん−世のいのりにこころいれて

 私たちは、宗憲前文に「同朋社会の顕現」こそ教団存立の意義であると宣言しました。それは、あらゆる人を「同朋」としてみいだすことのできる社会をあきらかにすることであり、また、苦悩の中に生きる者の奥底に流れる微かな宗教心(世のいのり)にどこまでも信頼をよせる事であります。
 しかし、教団の視線はいつも内向きで、現実の諸課題に積極的に関わることを避けてきました。宗憲改正以前から同和問題・靖国問題を通して、信心を個人の心の問題として矮小化し、社会的関わりと広がりを見失ってきたのではないか、と指摘されてはきましたが、なかなか重い腰が上がらないのが実状というしかありません。
 それゆえに今こそ、「同朋社会の顕現」を改めて掲げるべきでありましょう。それは、現実の諸問題に反応しうる感性を磨き、教団として関われるものには、様々な工夫をして関わり続けるということであり、具体的な関わりのなかで「願生浄土の大道」こそが人類普遍の救済道であることを証せんとする営みであるといえます。このご遠忌に願われるのは、「同朋社会の顕現」こそが教団の使命であるというということを明確に内外に表明することではないでしょうか。
 そして、ここでいう「同朋」とは、仏が私たちに課した名告りといっていいでしょう。そして私自身のあり方に対する問いとしての名告りともいえます。つまり、自身を良しとして顧みることなく、他を見失って痛痒を感じぬ、そういう自身を呼び返す名告りであります。あるいは、浄土に願生せんとする者の名告りであります。願生者として自身をみいだし、あらゆる人々を願生者として発見することでもあります。
 誰もが、おのれに自信が持てず、他との関係に悩み、今後の方向を見失っているのではないでしょうか。その闇を破るキーワードこそが「同朋」という言葉なのだと思います。

 ここに、ご遠忌テーマを「同朋を生きん − 世のいのりにこころ入れて」として提案するものであります。

※3 「ご遠忌」の名称については、早くから「忌」の持っている問題性が指摘されているのにも関わらず、十分審議されることなく、また「ご遠忌」とする明確な理由も示されず、見切り発車的にそうなったという感じをぬぐえぬ。これも、蓮師500回ご遠忌が充分総括されていたら、こんな事にはならなかっただろう。ここでは、一応、混乱を避けるため「ご遠忌」という表現をとる。
 私たちは、「宗祖親鸞聖人750回報恩講」もしくは、「宗祖親鸞聖人750回大法会」とすべきであると提案してきた。


 (2) 法要について

 「廃仏毀釈」の再来ともいうべき情況で勤められるご遠忌であることを肝に銘じる時、法要も自ずと従来通りを踏襲するという手法は許されないでしょう。そこでは、伝統的な法要儀式に真宗の法要の本来性を問い、また、広く同朋が主体となって参加できるような法要、あるいは現代語訳による法要や儀式と聞法が一体として成り立つような法要のあり方等が実験的に試みられるべきであると思います。
 つまり、荘厳に厳修されると同時に、今後の法要儀式の可能性をさぐる大いなる実験場となることを恐れてはいけないということです。そして何より、全国に動員をかけて身内だけの仲間意識を結集した法要にはならないよう注意すべきでしょう。
  
   [ 法要期間とその内容 ]

45日から60日ぐらいの期間がのぞましい。
  ○ 宗務所が主体となって厳修する法要のほかに、各教区が主体となる法要。
  ○ 各部署が主体となる法要。
  ○ 差別・非戦・死刑廃止等具体的課題についてそれぞれ考える法要。
               (何々教区の日・何々部の日・何々を考える日等)

   [ 法要イベントについて ]

 真宗本廟や各教務所で、現代社会が抱える諸問題について、「真宗を発信する」イベントを催していく。
 「真宗を発信する」というのは、従来のように我々の主張を一方的に訴えるのではなくて、「聞くことで発信する」という内容を持つものでありたい。
 つまり、現代社会の諸問題に直接関わっている、あるいは問題を憶念し続けている、また問題の所在を的確に指摘している哲学者・宗教家・思想家・科学者・社会学者・文学者・芸術家等に、連続講座・講演・シンポジューム・演劇・映像等を通してメッセージを聞き取り、それを同時に発信するというものです。
  真宗本廟と各教務所で多岐の分野にわたり、多くの識者から提起されたメッセージは、教団にとって得難い財産ともなることはまちがいないでしょう。

  (3)記念事業について

 ご遠忌記念事業は、「同朋社会の顕現」を教団存立の意義として鮮明にしうる、制度・機構の整備を中心にすえるべきではないでしょうか。具体的には、次項「3.行財政改革」でふれる内容がそれにあたりますが、ここでは、宗務職制においての構想並びに開教本部体制の強化徹底について記したいと思います。
   
   [ 総合教化本部構想 ]

 「同朋会運動について、レポートを書こうとして学生が宗務所で担当部署をたずねたら、研修・企画・組織とたらい回しにされて、結局何も聞くことができずに帰らざるを得なかった」という笑うに笑えない話があります。同朋会運動を宗門のいのちと位置づけていながら、同朋会運動を担当する部署が明確になっていないことを示しています。
 それに対して、どこの部署が担当なのではなくて、宗務所全体が同朋会運動推進本部であるという言い方があります。であれば、たずねられた人が誰でも答えられるという態勢になっていなくてはならはずですが、はなはだ疑問です。
 そこで、いわば、同朋会運動推進本部として、宗門の教化体制を担う総合的な教化本部の設置を提案したいと思います。

  ○現在の部署でいえば、企画室・組織部の教化担当・解放運動推進本部・教研・青
   少年・高倉会館・総会所が果たしている業務を担うと同時に、総合資料室的機能も
   兼ねるものとする。
  ○それはまた情報や資料の収集とその提供及び公開を基本とする機能が願われる。
  ○一般の人々にも、教えを公開することを基本とする教化本部。
  ○場所としては、現在の総会所当たりに建てることが望ましい。
  ○その教化本部の中に、特に青少幼年センター並びに同朋社会推進センターを併
   存すべきであるという事を合わせて提案したい。

  [ 青少幼年センター構想 ]

 教団においての青少幼年教化については、以前から即応性・一貫性・公開性のなさが指摘されていました。青小幼年センターは、諸課題の克服と現場での取り組みの拠点として提唱されています。
 青少幼年の問題は単に青少幼年にとどまるのではなく、我々自身の問題でもあり、地域社会のかかえる問題でもあります。青少幼年の声に耳をかたむけ、ともに学び、対話するなかから、教団においての青少幼年教化のあり方を模索するものとしてセンター構想が立ち上げられています。それもまた、総合教化本部に位置づけたいと思います。

  [ 同朋社会推進センター構想 ]

 教化基本条例には、現代社会の諸課題に積極的に対応することが教団の責務であるとされています。ところが、現行の機構では、教化基本条例の願いに充分応えられるものとはなっていないのではないでしょうか。いのちに背き、奪い、差別してみえなくしている諸課題に敏感に対応し、教団内外に向かって的確に問題提起しうる窓口の設置が久しく望まれてきました。
 昨年、同和推進本部の名称改正について「同和審議会」は、「同朋」という言葉を基底とし、具体的には「同朋社会推進本部」を答申しました。そこには、部落差別問題はもとより、時代社会から問われる諸差別、そして靖国問題や非戦平和の課題等が有機的連携のもとで推進される本部職制が望まれるというものでした。当局は、その答申を活かすことなく、また明確な説明もなく、解放運動推進本部とし、職制を変えました。そこでは、スタッフの増員もないところでの変更で、今のままでは、いくつもの課題を重複して担当せざるを得ず、過重な負担がスタッフにのみ掛けられる事が懸念されます。
 ここは、同朋社会推進センターと名告り、スタッフの増員と、体制の立て直しが望まれます。

 ○部落差別問題・靖国問題・非戦平和問題・ハンセン病問題・性差別問題・アイヌ民族
  問題・在日韓国朝鮮人問題・死刑制度問題・野宿生活者問題等について、総合的に
  検討をするためのセンター構想が必要と思われます。

  [ 首都圏開教本部体制強化 ]

 過疎過密の問題を含めた都市化問題への取り組みは、将来の教団の浮沈に関わる問題であり、また、現代社会の負託に応えうる教団となるための重要な課題とされてきました。そのため、2002年には、「全国の諸都市を視野に入れた都市開教・教化に取り組む体制の確立」と「時代社会と真っ正面から向き合うという首都圏教化に対する積極姿勢を明確にする」ために、参務を本部長として本部体制を整えました。
 しかし、本部体制はとったものの予算措置・施策面に積極的変化を見い出すことができないのが現状です。教団として、着実に時代の趨勢を見据えた施策を展開するためにも、早急に、この問題が全教団的課題であることの周知徹底をはかるとともに、着実にして有効な施策が講じられるべきであります。 
  

  2.男女平等参画による同朋教団をめざして

 「同朋」を課題とし、「同朋社会の顕現」を教団の存立意義とし、「同朋公議」を運営の基本方針としながら、教団は「同朋」の半分を見失ったまま歩んできました。教団の構成員の半数に当たる女性について、ほとんど光をあてずに教団運営をしてきたのです。

    (1)いままでの経緯について

 教団が、女性住職、及び性による格差是正について言及したのは、1987年3月31日の宗務審議会宗務検討特別委員会答申が、最初であります。この答申は、部落解放同盟鳥取県連合会の糾弾に応えるかたちで教団としての取り組みを表明したものであります。ところで、この答申が、実質的な寺格撤廃を生み出したことは評価できますが、同時に問題にされていた「堂班」については、名称を「法要座次」と変更しただけで、内容としては何等変わることなく、現在も制度として存続し続けていることを見逃すべきではないでしょう。
 そして、この答申で、早急に改善されるべき問題として、女性住職、女性の堂班・教師・得度年齢等の制限撤廃が取り上げられています。
 その後、1991年、寺院教会条例が改正され、「男子の後継者を欠く限りにおいて」という制限付きですが女性住職の道が開け、翌年、初の女性住職が誕生します。同時に、得度年齢・教師・法要座次における性による格差が取り除かれました。
 また、男子の後継者を欠くという条件が取れるのは、1996年になってからです。
 もっとも、これらの改正の背景には「坊守会連盟」や「真宗大谷派における女性差別を考える女たちの会」などの宗務当局に対する要望活動を見逃せません。
 
    (2)坊守制度について

 女性住職の誕生によって、これまで、男性住職の配偶者を「坊守」としてきたことが問題となりました。女性住職の配偶者(男性)を坊守とするのか、ということです。現行の寺院教会条例では、女性住職の場合、その配偶者を坊守とみなさない、としています。  「坊守」についての方向性を明確にできないまま、暫定措置としてたてられた条例が手をつけられないままになっています。しかし、次の2点からもこれは、早急に改められるべきでしょう。
   ○「坊守」になるということが、主体的な選択として許されていない。
     本人の意思と意欲によって決められることではなく、配偶者が住職であるかどう
     うかによって決められてしまう。
   ○性差を根拠とした法規上の格差は、他の諸条例において一応なくなったが、「坊
     守制度」に関してだけ適応除外を設けることは、性差を超えんとする取り組みに
     逆行するものである。

 「坊守」に関しては、「住職の配偶者」という定義をはずし、住職とともに寺院運営に積極的に参画する役職として位置づける。資格としては、男女の性別を問わず、僧侶ないし門徒であることとします。
 あるいは、「坊守」の呼称を捨てて、例えば「住職補佐」とし、住職をたすけて寺院運営に関わることを明記し、性別を問わず、資格としては、僧侶ないし門徒であることとします。皆さんのお考えはいかがでしょうか。

    (3)男女平等参画にむけて

 前記の「坊守に関する」条例以外では、性による格差は法規上からは取り除かれたといいましたが、それは決して、性による格差が教団からなくなったということではありません。教団にかかわる男女が、性による差別について考えるため、ようやく同じテーブルに着きかけているというのが現状なのです。
 今後、男女平等参画による教団運営を根付かせるには、推進条例を制定して平等参画に向けてのシステムの構築と意識改革が求められるところであります。
 ここに、男女平等参画推進条例(試案)を提案し、たたき台となればと思います。
 まず、男女平等参画推進条例(試案)の基本理念について述べれば、次の3点になると思われます。

  1.異なった性を生きる者同士が、互いに対等に向き合い、「同朋」として相手をみい
    だすことによって、ともに解放されていくことを願い続ける。
  2.男女が平等に参画するということは、ともに、協議し、企画し、立案し、決定し、運
    営することであり、そこでの情報は公開されることが望まれる。
  3.男女平等参画がどこまで推進されているかをチェックし、評価し、勧告する機関が
    必要である。

     男女平等参画推進条例(試案)
   
(目的)第1条
 この条例は、男女が一人の尊厳に目覚め、互いに認め合い、平等な立場で運営に参画
 する教団の実現に寄与する施策を推進することを目的とする。

(教団の責務)第2条
 教団は、男女平等参画推進に関する施策及び教化研修計画を策定し実施する責務を
 有する。
 2.宗務所、教区、組並びに寺院・教会は、その施策及び教化研修事業の企画立案決
  定そして実施にあたっては、男女が対等な構成員として平等に参画する機会を確保し
  なければならない。
 3.宗務役員の任用に際しては、どちらか一方の性に偏らないよう配慮しなければなら
  ない。
 4.宗務に関する委員会及び審議会等の諮問機関の設置においては、その構成におい
  てどちらか一方の性に偏らないよう配慮しなければならない。

(基本計画の策定)第3条
 この条例の目的達成のため、「男女平等参画推進基本計画」(以下「基本計画」という)
 を定めねばならない。
 2.基本計画は、次に掲げる事項について定めるものとする。
   (1)総合的かつ長期的な施策の大綱
   (2)当面の行動計画の概要

(男女平等参画推進委員会)第4条
 この条例の目的を達成するため、宗務所および各教区に中央男女平等参画推進委員
 会および教区男女平等参画推進委員会を設置する。
 2.中央男女平等参画推進委員会および教区男女平等参画推進委員会は、それぞれ
   宗務総長及び教務所長の直属の機関とする。
 3.中央男女平等参画推進委員会は、次の業務を行う。    
   (1)男女平等参画推進基本計画の企画立案に関する事項
   (2)宗門の教学教化及び組織機構並びに儀式における性差別の調査研究及び資料
    収集並びに検証に関する事項
   (3)男女平等参画推進の宗門活動を阻害する制度及び施策の点検に関する事項
   (4)その他必要な事項
 4.中央男女平等参画推進委員会は、委員40名以内で組織する。
   2.委員は男女同数であることを旨とする。 
    3.委員の任期は2年とし、各教区男女平等参画推進委員会から推薦された者、さ
    らに学識経験者から宗務総長が任命する。
 5.中央男女平等参画推進委員会に正副会長をおき、委員の互選によって定める。
   2.会長は会務を統理し、委員会を代表する。
   3.委員会は、会長が宗務総長の同意を得て招集する。
   4.委員会はその必要に応じて、関係部署への資料の提出、意見の開陳、その他
    必要な協力を求めることができる。
   5.委員会に関する事務は、総務部が担当する。
 6.教区男女平等参画推進委員会の業務及び正副会長並びに招集権等は中央委員会
   に準ずる。
 7.教区男女平等参画推進委員会は、委員20名以内で組織する。
   2.委員は任期を2年とし、教務所長が委嘱する。

(男女平等参画推進監視委員会)第5条
 この条例の目的達成度を監視するため、男女平等参画推進監視委員会を置く。
 2.男女平等参画推進監視委員会は、宗議会議長の直属機関とする。
 3.男女平等参画推進監視委員会の業務は、男女共同参画推進の達成度を点検、評
   価、報告、勧告を行う。
                    (その他の事項についてはここでは略す)
                                                以 上


  3.行財政改革について

 近代化と世俗化による経済構造と生活形態の激変は、教団構成員の意識と関心を大きく変化させてしまいました。我々は仰ぐべき権威も、いだくべき幻想もなにひとつ持ち得ないことをあらためて認識しなければなりません。
 かつて、明確な帰属意識によって支えられていたであろう強力な中央集権的システムが、その意識が変質してしまった現在においてもなお存続しているのは、何によって支えられているからと言えるのでしょうか。
 その問いにうまく答えるものを持ち合わせていませんが、大変うがった言い方をすれば、「その実態がわからない」(かつてもそうであったにちがいありませんが)ということによって、支えられてきたのではないでしょうか。つまり、そのシステムの実態がよくわからないために、批判の俎上にあげようがなく、問題点を議論することも変革することもできないために存続してきた、というこではないでしょうか。それほど、宗門の情報は非開示のベールでかたく覆われています。
 そのようなかたちで維持されている教団や宗政に対して、我々はどのような関わり方ができるのでしょうか。それは、無関心・無感覚・無関係という反応しか取り得ず、行き場のない閉塞感をいだくことになるのは、いたって当然の帰結です。
 この末期的情況を打開するには、直接参加と情報公開しかありません。
 ここに、直接参加という意味で「中央集権型」から「教区分権型」への移行、宗議会選挙被選挙資格問題、そして情報公開、さらに財政問題についてふれてみたいと思います。


  (1)中央集権型から教区分権型へ

  [ 中央集権的システムの制度疲労 ]

 ここで中央集権的システムといっても、どこがどのように集権的なのかということは、なかなか指摘しにくいと思います。そこで、具体的に交付金制度と教区会・教区門徒会の実態を通して考えてみたいと思います。

   @交付金制度
 各教区で経常費として、宗務所に上納(数年前まで、交付金を下付金と呼んでいた)した金額の10%が、教区に交付され、教区の主要な収入となります。
 しかも、10%の交付金は、自動的に交付されるのではなく、実施された教化事業の経費として交付されるという形を取るというものです。
 一旦、中央宗務所に納められて、そのうちの10%が交付されるというこのあり方が、中央に上納し、地方が交付をうけるという関係を固定化してきました。つまり、中央は地方に交付金を下げ渡し、地方はいつも中央から交付を受けるにふさわしいように、中央の意向を推し量り、その意向にそうものであるという関係を作り上げてきました。この交付金制度こそが、中央が財政的に地方を統制するシステムといえます。
 ところで、この「中央」と「地方」という呼称とその関係が、上意下達を貫徹するシステムとなり、中央は常に「情報の発信者」であり「運動の指示命令者」、一方地方は、「受信者」であり「動員される者」であるということを固定化してきました。
 そういう関係がこれからも望ましいのか、それとも、宗務所と教区が上下の関係ではなく、それぞれ任務と役割の違いによって位置付けは異なれど、水平のネットワークの関係となり、宗務所はその核的はたらきを果たすことがいいのか。私たちは、上下から水平の関係への移行を提唱したいのです。
 また、交付金についても、自分たちが拠出した金員を宗務所から交付される必要は全くないのであり、逆に宗務所が必要とする経費を教区が拠出金として、宗務所に交付すればいいのではないでしょうか。
 現行では、教化事業に対して交付するという形を取って、教区の教化を中央が統制しています。さらに、何よりも顕著な教化統制は、中央からの出向職員である教務所長が教区の教化委員長を兼ねるということです。教区においての教化事業というのは、多岐に渡りますし、具体的にして緊急を要する事項を課題とするということが多々あります。そういうことでは、教区教化委員長は博い知識と豊かな感性を持ち合わせていないと勤まるものではありません。優秀な行政官が同時に有能な教化委員長であることを今のシステムは要求します。こういうかたちで、中央は地方の教化統制を図ろうとしています。しかし、そのために、これは過重な負担を個人に要求する不幸と、適任でない個人を受け容れる教区の不幸がともに存在します。
 手近なところでは、まず教区教化委員長を教区から選出しようという「教化委員長公選制」から、中央の地方統制を切り崩す一点としたいものです。
 また、交付率10%の数字の妥当性についても、議論されたことがありませんが、それでいいのか。実際はこの他にも、組に5%、教区に奨励経費として3%。我々の納めた金員の82%(交付金とは別に補助金があるので必ずしもこの数字ではない)が宗務所で使われるのですから、どのように使われているのか目を大いに光らせていなくてはなりません。

   A教区会・教区門徒会
 教区においての最高議決機関は、僧侶代表の教区会と、門徒代表の教区門徒会です。つまり、この両会で教区の意思が決定されます。
 おおく教区会・教区門徒会(通常会)は、その年度の教区予算の審議に入ります前に、内局からの宗派経常費「御依頼」について審議します。しかし、これは「御依頼」を受けるかどうか、あるいは、「御依頼」額が妥当かどうかについて審議するのではなくて、教区に来ている「御依頼」を、教区内でどのように割り振りするか、割り当ての仕方の審議ということであります。
 ある教区で、一昨年(御依頼の新基準を適用)の教区会・教区門徒会で「御依頼」が35%以上増加した事に対して、公平性・客観性に照らしても新基準は受け容れがたいと割当方法について審議することが出来ない事態が出来しました。
 そのとき教務所長が取った処置は、直ちに議会を閉鎖することでした。
 つまり、懇志教団といい、宗派経常費は御門徒の懇志として納められているという建前に立ちながら、「御依頼」を受けるかどうかという、いたって教区の自主性が重んじられるべき事項に関して、その審議権が教区の議会に無いということです。そこに参加していた教区会議員・教区門徒会員は、大きな無力感を感じたと感想を漏らしていました。最も基本的な審議権さえ奪われているということが、自治・自立ということからはなはだ遠いという現実を教えてくれます。

 今、見てきたのはほんの一例で、教区に自治や自立が充分確保されていないところでは、そこに参画することが教団を荷負し、教区を担うのだという意欲を喚起することには繋がらないのは当然です。教区の自主性・自立性が強められ高められることによって、始めてそこに参加意識を確認する場が開かれるのです。

    [ 教区分権に向けて克服すべき課題 ]

 教区分権を進めるにあたり、まず、宗務所が担うべき役割と、教区・組の役割分担を明確化する必要があります。宗務所では、教団の根幹に関わる事柄についての企画と総合調整を行う場とし、さらに真宗教学の研鑽と育成、時代社会への発信と提言等を中心とし、教化施策の財源と権限は教区・組に委譲する事が必要です。今実施している「推進員養成講座」など良い例で、宗務所が関わらねばならない必然性はどこにも見いだせません。
 次に、教区分権の前提になるのが、教区においての体制整備だといえます。つまり、教区の自立が人においても、財政面においても、意識においても不可欠になってきます。
 人的にも財的にも、それなりの基礎体力を保有する事が求められるということでは、大教区制への移行ということがはずせないものとなるでしょう。
 また意識のうえからも、「他人のカネで他人のために働く」のが公共の論理だそうですが、これからは「自分たちのカネで自分たちのために働く」という民間の論理の発想が求められるでしょう。また、これまで人々に最も身近な機関を末端機関といってきましたが、末端ではなく最先端機関であり、末端行政ではなく、先端行政という視点が求められるでしょう。

    [ 大教区制への移行と組の抜本的改編 ]

 1934(S9)年に30教区制になって、爾来70年以上にわたってそのままの体制でやってきました。敗戦や現憲法の制定、真宗同朋会運動の展開、そして宗憲の改正を経ても、教区の改編はなされることがありませんでした。
 現行の教区や組の区割りがベストであると考えている人は少ないと思います。しかし、長らく慣れ親しんできたシステムを変えることは簡単ではありません。
 道路や交通網の整備により地域交流圏が大きく変化し、また急速な少子高齢化や過疎化の進行、深刻な財政危機、そして人の確保のうえからも、大教区制という将来に見通しを付けた対応が迫られています。
 しかし同時に、一方で規模を拡大することにより人々の声が届きにくくなったり、活動が減衰したり、地域の歴史や個性の喪失が懸念されてもいます。
 教区・組の改編(合併)賛成者は規模拡大を、反対者は小規模化を主張することが予想されます。広域化と狭域化という、一見矛盾する二つの面を如何に両立させていくか。見過ごせない重要な課題がここにあります。


    (2)選挙制度問題

 先にも触れましたが、同朋公議を教団運営の基本方針であると宗憲で宣言したにもかかわらず、制度上でその内実化を全く果たそうとしないまま四半世紀近く経過した中で、この度の宗議会選挙被選挙資格を拡大する問題は、宗憲の宣言そのものが問い返されるものであったわけです。宗政への「参加」の道が大きく開かれるのかが注目されました。

    [ どのように改正されたのか ]

 昨年の第43回宗議会において、「宗議会議員選挙条例の一部改正」について、グループ恒沙と真宗興法議員団から、別々の改正案が提案されました。
 われわれグループ恒沙は、「25歳以上のすべての有教師に被選挙資格を付与する」という案を提案。真宗興法議員団からは、下記の案が提案され、多数で可決。参議会においても可決され、この条例は今年9月に行われるであろう宗議会議員選挙に先立ち、7月1日から施行されることになっています。
 改正条例は下記の通りです。
  
  選挙資格を有する年齢25歳以上の者であって、次の各号の一に該当する者は
  被選挙資格を有する。
     1 住職及び教会主管者
     2 自らが所属する寺院又は教会の住職又は教会主管者若しくはそれ
       らの代務者の同意を得た教師

    [ 「改正条例」の大きな誤り ]

   @同意権って、何?
 教団を荷負せんとする教師の意欲のところに、生きた教団の歩みがあり、教団の歴史に参入せんとする情熱の源泉があります。教団を担わんとする意欲になんらかの歯止めを条例に設けることは、教団の死を意味するといえます。
 宗憲は、教団の痛苦の歴史を通して、「何人の専横専断をも許さず、あまねく同朋の公議公論に基づく」と同朋公議を勝ち取りました。住職に異議申し立ても許されない同意権を与えるということは、全くその歴史に学ぶ事を放棄して、住職に「専横専断」を認めることになり、宗憲以前に逆行することです。これは、明白な宗憲違反です。
 不同意の決定がなされた場合にも、如何なる理由で不同意であるのかという説明も当事者になされる必要がないとされています。不信と懐疑が同朋の関係を断ち切る要因ともなりかねません。
 さらに、同意を得られない場合が十分想定されながら、その場合の異義申し立ての場も、救済機関も考慮されていず、条例として全く不備と言わざるを得ません。

   A総長を不信任することに。
 教師が立候補するのに、何らかの条件を付けるということは、教師を信頼していないからということなのでしょう。
 教師は、宗務総長によって、教法を宣布し、本廟崇敬の念を持ち、宗門ならびに寺院興隆に務めることを任務とする僧侶の中より、補任されたものであります。
 それは、当然、教団人としての責任と使命を深く自覚する者と認めた上での補任でありましょうし、大いに教団活動に参画することを期待し信頼するということでもあるはずです。
 ところが、宗務総長が補任した教師に、住職が不同意をだすことは、総長の補任を否定することとなりはしないでしょうか。

    [ 今後の問題として ]

 宗憲違反の欠陥だらけの「改正条例」を修正する事を当面の目標とし、現在、選挙権・被選挙権ともに住職・主管者にしかない教区会議員選挙および住職・主管者しか会員になれない組会についても、各々教区・組において議論がなされるように働きかけていきたいものです。

   (3)情報公開条例

 行財政改革の必要性を否定する人はいないのではないでしょうか。しかし、改革が必要とされる課題や事項について的確にどれほどの人が把握し指摘できるでしょうか。そしてそれは、我々が怠慢であるために指摘できないのではなく、的確に指摘できるだけの情報を持ち合わせていないからであり、それは先程もふれましたように必要な情報が公開されてこなかったからに他なりません。
 必要な情報は、宗務役員の手に独占されてきたというのが正直なところです。
 一例を挙げれば、教団の最高議決機関たる「宗会」の議員たちにさえ、調査権が充分確立されているわけではありません。具体的な政策論を戦わせ、施策の策定・構想を根拠づけるために必要な情報が決定的に不足しているため、議会は慢性的な欲求不満の情況を超えられないでいます。説明責任(accountability)・情報公開(dasclosure)などという洒落た言葉はわが宗門には通用しないようであります。

 宗務機関が保有する情報は、教団人のものであり、決して宗務役員のものではないことは申すまでもないことです。そのうえ、獲得された情報によって、教団人の積極的な宗政参加と教団荷負の自覚を促すでしょうし、教区の自治・自立を推し進めるうえでも大きく寄与すると思われます。もちろん、個人のプライバシー保護に関しては十分な配慮をせねばならないことはいうに及びません。
 ここに、情報公開の必要性を痛感し、情報公開にむけての条例(試案)を提示したいと思います。

     情報公開条例(試案)

 (総則)
 情報の公開は、門徒同朋の宗政への信頼を確保し、教団運営の基本方針である同朋公議の実質を深め、活性化するために不可欠なものである。
 宗務機関が保有する情報は、門徒同朋のものであり、これを共有することにより、門徒同朋の宗政への主体的参加を促進し、もって同朋社会の顕現に資するものとせねばならない。
 その精神のもと、宗務機関が保有する情報は公開を原則とし、門徒同朋は、宗務機関が保有する情報を求める権利を有することを明らかにするために、この条例を制定する。
 (目的)
 この条例は、同朋公議の本旨に則した宗政を推進する上において、宗務機関が保有する情報の公開が重要であることに鑑み、情報の開示を求める権利を明らかにするとともに、閲覧、写しの交付、その他に関して必要な事項を定める。  
 それをもって、教団の諸活動を門徒同朋に説明する義務が全うされるとともに、門徒同朋による宗政への参加と監視を促進し、もって公平で開かれた宗門運営に資する。
 また、宗務機関が保有する個人情報の開示、および訂正を請求する権利その他の個人情報を保護し、個人の権利利益の保護をはかるとともに、個人の尊厳と人権の尊重に寄与することを定める。
 ◎情報公開条例において整備されなければならない条項
  ☆宗務情報の開示の請求と方法、開示決定と期限。
   宗務機関に対して、その保有する情報の開示請求方法。開示の方法、開示の手続
   き、請求の不備に対する補正と参考情報の提供、開示適用除外情報の明記、開示
   決定の通知、開示情報の中に第三者の情報がある場合の処置についての明記等。
  ☆個人情報の保護、安全確保、収集の制限、利用の制限、従事者の義務。
    個人情報の保護条例については、収集の問題、利用の制限・保管と廃棄の問題、
    それに関わる従事者の義務についても定めておく必要があろう。個人情報を扱うと
    いうことは、人間を扱う事であるので特に注意をしなくてはならない。
  ☆個人情報の開示請求、訂正等請求と方法・決定・実施。
    個人に関する情報については、本人より開示の請求があった場合は開示しなけれ
    ばならない。非開示の情報の明記。個人情報の記載の誤りの訂正等の請求と方法
    決定・実施についても定める。
  ☆不服申し立ての諮問、手続き、意見の陳述。
    請求者は、開示、非開示の決定等について不服がある時は、諮問を求める。その
    手続き、意見の陳情についても定める。☆情報公開審査会の設置。
    不服申し立ての諮問を求められた時、審査会に送付して処置する。審査会の設置
    運営、権限等について定める。
  ☆教団が出資・助成の法人や団体の情報開示。
    教団が出資または助成している学校法人・財団法人・所属団体等の情報開示の
    推進に応じる事の明記。
  ☆宗務機関の会議の公開。
  ☆費用の負担について。
                                      以 上


  (4)財政のあり方

 一応ご遠忌にむけては財政的には見通しが立っていますから、ご遠忌後の財政のあり方について、この数年の間に論議を重ね、過ちのない方向を見いだして行かねばなりません。 2002年に「新割当基準」が示された時、多くの教区から教団の行財政改革を望む意見が出されました。また、ご遠忌厳修にあたっては、「行財政改革をこそご遠忌記念事業とすべし」という意見が示されもしました。
 その要望に応えるかたちで、門徒数調査と教区及び組の改編にむけての委員会が立ちあげられ、鋭意作業が重ねられています。さらに、宗務審議会「財源に関する委員会」において、今後の財政のあり方が審議されています。
 財政改革については、特に単独では成り立ちえず、行政・政治・機構・制度改革と共に連動して考えていかねばならない課題であります。これが、小手先の改革に終わることのないように、注視して頂くとともに大いにご意見をお出し頂きたいと思います。

   [ 社会情況と財政 ]

 既に触れていて、重複するようですが、財政に関わる情況について改めて見てみますと、今後ますます少子高齢化が進み、2010年頃をさかいに人口の減少が始まると予測されています。同時に、都市部への人口流入は続き、地方の過疎化に歯止めが見いだせない情況は続くものと予測されています。
 すでに見てきましたように、教団への帰属意識はますます希薄になるでしょうし、たとえ宗教や仏教に関心があっても、「寺嫌いの宗教好き」という寺離れの情況は拡大するでしょう。
 そのような中、教団は、今以上に門徒数の減少、寺院教会の減少という事態に直面せざるを得ないでしょう。
 あるいは、都市部へ移転した門徒に対して、いかにして関係を確保し続けていくか、また、寺離れ、無関心層にどのように働きかけ続けていくかということも重い課題であります。
 今後は法義相続・教団護持の意識が希薄となり、さらに人口の減少と教団を支える基盤の農村部の過疎化という情況の中、公平公正にして安定的かつ恒久的な財政の確立という難題の解決が求められます。

   [ 御依頼すれど割当せず ]

 教団は、懇志教団と名告りを上げています。御門徒一人ひとりの御懇志によって運営される教団ということです。
 ところで、毎年、内局から教区へ「御依頼」がなされます。教区では、それを寺院・教会あるいは組に「割当」します。そして、「割当」に対しては、完納・未納ということが発生し、そこに信賞必罰が用意されているといえます(多くの教区では、本来懇志である「御依頼」を義務金化し、未納に対して罰則規定が設けられている)。
 それによって、私たちは、納金の義務を果たすことが責務となって、懇志教団の確立という願いを忘れ去ってきたのではないでしょうか。
 一昨年、当時の三浦総長は「ご遠忌・御修復の募財は、御依頼はするが割当はしない」という、懇志教団としては至極当然の提案をしました。割当をしないということは、そこに完納・未納ということがないわけですから、完納による賞典も、未納によるペナルティもないわけです。つまり、信賞必罰を背景とする募財をやめて、御門徒一人ひとりの懇志によって募財をしたいという提案であったわけです。
 ところが、三浦総長を選出した真宗興法議員団をはじめ、反対の大合唱にあい、提案の是非を議会にかけることもなく、三浦氏は総長を辞します。反対した人たちの言い分は、それでは、資金計画が立たない、あるいは殊に御修復に関して業者への支払い責任が果たせないというものでした。一理があるようにも聞こえますが、お預かりした懇志の範囲内で事業を行えばいいことなのですから、全く反対の根拠になどなりません。
 これは、懇志教団への大きな試みの一歩を踏みにじり、懇志教団たらんとするあり方そのものを否定する愚行と断ぜざるを得ません。しかし、悲しいことですが、これが実情であるということを認め、そこから、これからの財政を考えていかなければなりません。

   [ 収納実態から見た問題点 ]

 現在、宗派経常費の教区御依頼総額の7割近い額が院号法名・須弥壇収骨(大雑把な年間平均が院号法名3万件以上・須弥壇収骨1万件以上)等の相続講の賞典を目的とした即納によるものです。

  教区総御依頼額53.8億円(2002年度)
院号法名 3万6千件 須弥壇収骨 1万件として
院号法名   8万円 ×3万6千 = 28.8億円
須弥壇収骨  12万円×1万   = 12憶円 計 40.8億円(75%)

 数字が煩瑣になりますので、大雑把な数字を出しましたが、2002年度で見ると7割5分を超える割合を院号法名・須弥壇収骨の即納で納められています。それは、財源の多くの部分をわずか5万足らずの御門徒によって支えられているということでもあります。
 また、院号法名については、即納が増えるほど「法名料」と同じように受け取られ、「法名を買う」という感覚にさえなっているのが実態かも知れません。

   [ 今後の課題 ]

   @懇志教団としての内実化をめざし
 毎年、一部の御門徒の懇志に大きく依存した財源のあり方は、不健全であり、今後予想される社会情況の変化と考え合わせる時、大変不安定であるとも言えます。
 一人ひとりの御門徒と教団の関係を確かなものにしてゆくためにも、全ての御門徒に負担を願うのが望ましいかたちでないでしょうか。方法としては、全門徒に一律に御依頼する、もしくは口数制にするということもあります。その際、会費制の導入も考慮する必要があるでしょう。一般的な感覚からは、会費制という方がむしろ、相続・護持という懇志本来の精神が理解されやすいのではないでしょうか。一般社会と教団の感覚のズレを解消することから始める必要があるのかもしれません。

   A相続講賞典ー院号法名・須弥壇収骨ーのあり方
 真宗の教えの上からは、院号法名は説明できないのではないでしょうか。大谷派においては、御門徒への院号法名授与は、「軍人院号」の授与によって始まったという歴史を持っています。しかし、同時にこれを奨励し、それによって支えられてきた歩みもまた、わが教団の歴史です。
 その存廃については、様々な意見があるでしょうが、いかなる教団を願うかという一点に立って、ご一緒に考えていきたいと思います。
   
   B負担の軽減と透明性の確保
 財政改革に願われていることは2点。一つは、教団の安定的にして恒久的な財政基盤の確立であり、いま一つは、御門徒への負担軽減であります。
 負担軽減とは、他ならない財政規模の縮小です。前述のように宗務所をその役割において必要最小限に絞り込むことによって、「小さな政府」とし、教区に多くの機能と権限を委譲し、教区分権に向かうことが同時に目指すべき方向であります。
 さらに、教団への信頼と信順は、情報の共有による透明性の確保によってもたらされるといえるでしょう。
 つまり、ここでも、地方分権と情報公開の必要性を強く感じるところであります。



 4.議会制度について
 
 議員の宗務所での活動は、年に一回開かれる常会(必要に応じて臨時会が開かれることがある)と、年間5回開かれる宗政調査会です。
 宗議会の宗政調査会には、4つの専門委員会があり、今年度は教学教化に関する専門委員会・財政に関する専門委員会・選挙制度に関する専門委員会、そして議会制度に関する専門委員会であります。
 その「議会制度に関する専門委員会」で、大谷派の議会のあり方を大きく変える可能性のある議論がなされています。

 この項目は、議会内部のことについての事となりますので、みなさんにはあまり関係がないと思われるかも知れませんが、議会のあり方は宗政に大きな影響を及ぼしますし、もっといえば、議会が変わらなければ、宗政は変わらないという想いがあるものですから敢えてここに取り上げました。これから申し上げることは、議員としては、忸怩たるものを禁じ得ませんが、実情を包み隠さずお知らせして(議会から、まず情報開示)、問題点と向かうべき方向を提示し、ご一緒に考えて頂けたらと思います。


   (1)宗政調査会

 そもそも、宗政調査会(以下宗調という)は、議員相互による宗政に対する調査・研究を目的とし、その結果を議長に報告するものとなっています。今年度は上記の4つの課題に絞って専門委員会を設置していますが、これは年度毎にそのときの重要課題を研究調査する目的で設置しますから、決まっているわけではありません。今年度、議会制度についての部会が設置されたのは、長年の懸案事項として、宗調のあり方が問題になっていたからです。
 それは、宗調が、如何なる場で、何ができ、どのような権能が付与されているのかということが不鮮明であるという問題です。実は、それはいまに始まったことではなく、その性格が不明瞭であるという批判が多く、その目的を明確化するために、1985年には宗調規程を改定して「宗務執行に寄与する」という事を盛り込んでいます。つまり、宗調で調査し検討し、議論したことが、何ら宗政に反映されていないではないかというフラストレーションが、この規程改定を生んだと思われます。しかし、残念ながら改定からすでに20年経過して、同じ問題をいまも抱えているわけです。

   (2)議員の職務

 ところで、議員の職務は、次の3つといえるでしょう。

   ○条例あるいは政策等を提案あるいは審議する立法活動。
   ○予算をはじめとする内局提案に対して、それを精査して、可否を決する審議活動。
   ○承認した予算が、適正にかつ有効に執行されているかを見極めるチェック活動。
 
 いま、これらを議員の職務だとすると、その職責が充分果たされているかといえば、立法活動については、同朋教団確立にむけて充分とは言えなくても責務を果たさんとしているといえるでしょうが、審議活動、チェック活動については、どうもそうはいえないことを認めるしかありません。
 そのうち、行政チェックには、次の二つがあると言えるでしょう。一つは、決算審議によって、予算が適正に執行されたかをみる。いま一つは、通常業務において予算が有効に執行されているかを確かめる。
 大谷派の決算審議は、常会の中に決算委員会が設けられ、そこで行われます。そこで審議するものは、実に一年遅れの決算です。一年遅れというところに、既に鮮度が大きく落ちているということがまずあります。
 さらに、決算委員会の説明員として、委員会に出席するのは財務部長一人です(予算委員会には、それ以外の部の部次長がすべて出席)。質問に対して、数字上の答弁はできるでしょうが、例えば研修会一つ取り上げても、そこでどういう事が問題となり、どのような課題が掘り起こされたかということになると、答えられるでしょうか。
 担当者に確かめて後で答える場合には、質問と答弁に時間的ズレがあり、審議が深まり問題の所在が浮き彫りにされるということなど期待できるわけがありません。予算委員会と同じ重さで見られるべきものが、大変軽んじられているということです。もっといえば、できるだけ簡単に済ませたいという意向を嗅ぎ取らざるをえません。
 そのため、私たちは、前年度の決算を審議するための秋の決算議会の開催、あるいは、それが無理なら決算委員会での部長がダメなら、各部の次長・主事の説明員の出席要請を申し出ていますが、残念ながら取り上げられません。
これでは、決算委員会がチェック機能を十分果たせているとは、到底言えません。
 一方、決算でチェックする事以上に、より重要なことが通常の業務のチェック機能だといえるでしょう。どのように予算が執行され、事業の進捗状態や問題は何か、この問題克服にはもっと予算が必要であるとか。そういうことが確認されたり、問題にできるような場が議会に全くないというのが実情です。
有り体に言えば、多くの議員は、各部での業務内容についてほとんど知らないのではないでしょうか。せいぜい、知り合いの宗務役員から情報を得ることでかろうじて現況把握をするのが精一杯であります。それは、議員が不誠実で怠けているから情報に疎いのではなく、いまの宗調には各部から業務内容の報告を受け、そこで検討を加えるような事が全くなされていないのですから、現制度ではそうならざるを得ないのです。
 しかし、各部での業務並びに活動内容の把握こそが、最も議員として肝要な任務のように思われます。何がなされ、何が克服せねばならない問題かという正確な認識なしに、充分な審議も成立しませんし、問題克服のための政策も条例制定もあり得ないことなのですから。
 また、審議活動について細かくふれることは控えますが、チェック活動が不十分なところでは、十全に展開できないことはいうに及ばないでしょう。
 宗調での成果が、宗政に反映されないということと同時に、より重要なことは、宗調が議員としての職責を全うする資けとなっていないということがあります。

   (3)常任委員会制

 「議会制度に関する専門委員会」での議論は、いまの宗調ではダメだということでは一致しているのですが、その宗調を改変しようという意見と、宗調を解散して常任委員会制を引こうという意見があるといえます。私たちは、宗調を少々変えてみても欠けているものを埋めることはできないと考えています。ここは、解散して、新たに常任委員会制を導入すべきであると思っています。
 常任委員会制というと、いままで試みたことがないわけですから、すぐにはイメージできないのは議員間においても同様です。どのような権能と機能をそこに盛り込んでいくかということはこれから議論すればいいことですが、少なくても常任委員会を設置するということは、常会が閉会されている間に、議会の質を持った委員会を持つということになるかと思います。したがって、そこに出席要請された内局はじめ、宗務役員は説明責任を果たさねばなりません。
 たとえば、(常任委員会は各小委員会に分けられるかと思いますが)各小委員会の担当部署から業務内容・活動内容・発生してる課題・克服すべき問題点等の報告を受けることは、行政チェックそのものです。そこではじめて、各部での業務や活動についての認識が議員に成り立つのではないでしょうか。そういう意味では、これこそが、議員の職務の基本にして最重要なるものといえます。
 まだ事の趨勢がはっきりしていないのですが、今年度の宗調は終わったのですが、この宗調再考に関しては、宗調終了後も各派の代表によって継続的に審議を重ねる委員会を設置することになっています。大谷派議会を活性化し、宗政を変えるには、常任委員会制は大変有効な手段であると考えます。宗調に問題を感じていない議員はいないでしょうが、常任委員会制となると別だという意見の議員もいるでしょう。
 これは、読者の皆さんへのお願いですが、来る宗議会議員選挙では、「あなたは、常任委員会制には、賛成か反対か」と確認してもらいたい、賛成の人を一人でも多く議会に送り込んで頂きたい。そうすれば、常任委員会制がひかれることになるでしょう。そうなれば、これは単に議会を活性化するに止まらず、立法と行政が緊張関係を確保し、いままでのような一方的な行政支配を突き崩すことができるでしょう。

   [ 議会と行政の関係 ]

 議会と行政との関係をみるのに、ここに教団における委員会や審議会を取り上げることにしましょう。委員会あるいは審議会は多く条例によって設置されますが、それは、総長若しくは内局の諮問機関的性格のもので、行政執行上必要と認められる、いわば行政委員会といえます。
 ところが、今までは、多く行政委員会で検討され審議されたことを根拠として条例案が議会に提案されてきました。そこでは、議会は立法機関であるより、あたかも行政委員会が立案したものの承認機関の体しかなしていなかったといえます。
 さらに、その行政委員会には、議会との結論が異ならないようにという議会対策的意味から、各会派から議員が入っていました。議員が議員の資格で行政委員会の一員となること自体、立法の独立を脅かすものといわねばなりませんし、しかも各派から出ていることで、あたかも予備審議をする場であるが如き感をもたせ、そこに議会が行政にすり寄り、また行政は議会を懐柔しようとする両者のもたれ合い関係があることを指摘しなければなりません。それほど、議会と行政は未分離で、緊張関係を失っているということでしょう。
であればこそ、常任委員会制の確立がまたれてなりません。そうなれば、議会に付与されている権能を活かすことができ、行政とは緊張関係を保ちつつ、議会本来の職責を果たす事のできる途が開かれると信じます。


 [ 追 記 ]

  ◎玉光教学研究所所長解任される!

 玉光教研所長が解任されました。現在教研は、教団の中心課題として、人の養成を期するプロジェクト「特別研究生制度」を展開しています。いままで、教団の使命の一つとして人の養成を挙げていたにも関わらず、その方向と内容が明確にならない中、このプロジェクトが立ち上げられ、大いなる期待と関心をもって注目されています。この教団の最重要課題とも言える「特別研修生制度」が、今年度から始動し、その活動の端緒といえる時に、その責任者を解任する意図やねらいが全く理解できません。
 玉光所長は、先程も少しふれましたが「教学研究所の教化体制について(教化研究132号)」で、「真宗文化による、日本人の、世界人類の価値観の大転換とでもいうべきことを本気で実現してみたい」という壮大な抱負を語り、具体的な課題として真宗の政治学・真宗の経済ー環境学・真宗の教育学・真宗の人権学・真宗の情報ー文化学・真宗の科学をあげています。そのなかで、玉光所長は、困難ではあろうがと断りつつ、真宗教学研究所が果たすべき業務のあり方を明確に提示しています。そこに提示されている方針には、教団の可能性と今後に大いに光と期待を抱かせるに充分なものがあるといえます。
 明確な方針を提示している所長を解任するということは、その方針に対する異議・不信任なのか。そうであるなら、それに変わる明確な教研の研究方針を示すことを求めずにはおれません。
 任免権を有するものには、この度の解任について、すべての教団人に明確な説明責任を果たすことを強く求めたいとおもいます。  
 なぜ、いま、玉光所長の解任なのか!
 
 このことに対する、皆さんの、ご意見・お考えを是非、お聞かせ頂きたいと思います。下記代表宛にお願い致します。

 
 《 後 記 》
  私たちが、宗議会の院内会派として『グループ恒沙』を名のって8年になります。11名という少数野党ゆえに、多数が力となる議会では、私たちの主張が通りにくいということがあります。私たちの歩みを見届け、賛同し、支援して下さる人々も決して少なくはないのですが、多くの教区(19教区)では、『グループ恒沙』の考え方や活動について直接ご理解頂く機会をもてないでいます。そこで、昨年6月には冊子によって、宗議会報告をさせていただき、活動の一端をお知らせいたしました。今回は、小冊子をお届けします。宗門を取り巻く情況と当面する課題について記し、ご批判を仰ぐとともに、ご一緒に教団のこと、宗政のことをお考え頂くたたき台になればとおもいます。
 ご意見・ご感想お待ちしています。
 なお、私たちの活動に賛同頂けましたら、同封の振替用紙でカンパのご協力をどうぞ宜しくお願い致します。

 グループ恒沙のメンバーは、次の11名です。

   長野 淳雄 (日豊教区)  釈氏 政昭 (四国教区)  三浦  長 (岡崎教区) 
   篠田  穣 (岐阜教区) 森嶋 憲秀 (富山教区) 藤島  恵 (高田教区)
   高橋  悉 (三条教区) 藤森 教念 (東京教区) 藤内 和光 (仙台教区)
   新羅 興正 (山形教区) 寺永 哲 (北海道教区)



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                      長岡市関原町1丁目1019 願興寺内
                               グループ恒沙代表    高橋 悉