宗政報告No14(2005年6月28日)


   
第44回宗議会報告




 さる6月2日から14日の会期で、宗議会が開催されました。
予算については、一般会計は、経常部・臨時部あわせて、約85億円で、昨年度予算に対して、約4%の減額。それに伴い、全国への総御依頼額を0.5%減額することとしましたが、中越地震被災地への御依頼減額を全国で負担しあう事によって、ほぼ減額分がそれに相当し、昨年同額の御依頼がされる事になったようです。なお、今後とも、経常費御依頼の超過は、あまり望めないでしょうから、厳しい予算編成は当分続く事が予想されます。

 以前にも、宗議会の仕組みについてふれましたが、改めて申しますと、本会議と委員会審議の大きく二つに分かれます。本会議では、議案の上程、代表質問・一般質問、そして採決等が行われます。上程された議案は、予算委員会・決算委員会、そして、条例関係は特別委員会に付託され、各々の委員会で審議されます。全国の門徒・僧侶から提出された請願は、請願委員会で本会議にかけるべきであるかどうかが審議されます。今議会には、26件という例年にない非常に多くの請願が出されました。その事は、あとでふれます。そのうち「広域災害に対応するためのボランテイア委員会の設立について」の請願が、本会議にかけられ、請願として採択されました。請願が採択されると、内局は、それに対して、どのように取り組んだかを報告しなければならなくなります。委員会としてはその他に、懲罰委員会があり、議員の非違行為などを審議します。この4年間、この委員会が開催された事はありません。
 今回は、特別委員会に属し、内局提案の条例案11件、議員提案の条例案2件の審議をしました。13条例案のうち、「ご遠忌お待ち受け推進態勢確立のための条例」、「解放運動推進本部職制」そして、我々が発議した「宗議会議員選挙条例一部改正」について報告してみたいと思います。
 さらに、今議会もっとも内外の関心と注目を集め、審議に多くの時間をかけた玉光前教学研究所所長解任問題と、共済制度について報告します。

 

ご遠忌に向けて

  《組を教化の基軸に》
 正式には「ご遠忌お待ち受け推進態勢確立のための関係条例の整備に関する条例」といい、組を教化活動の基軸とするための諸条例の整備をするためのものということです。
 組を共同教化の場として活性化し、教化活動の中心的位置付けにしようとすることには、大いに賛同いたします。しかし、その事を実現する上で、次のような施策が有効であるかどうかについては、いささか疑問を持つものです。

  《組同朋総会》
 組会・組門徒会が組の議決機関であり、組教化委員会が教化事業の企画・立案・実働を担うことは今まで通りでありますが、新たに「組同朋総会」を設置するというものであります。
 「組同朋総会」については、条例では、「組の運営に関わる住職・教会主管者、僧侶、坊守及び門徒会員等の意見を広く聴取する」とあります。これでは、組会・組門徒会の構成員より広い範囲の人たちの意見交換の場になるわけですから、そこで話された事が、組会・組門徒会よりも重くみられるという混乱は容易に想像できる事です。あるいは、「組同朋総会」を寄り合い談合の場として、組の運営に係る各般にわたる課題について意見聴取するとありますが、ただ聞き取るだけで、そこで話された事が具体的な施策にまでならないとするなら、参加者はしらけるだけでしょう。といって、「組同朋総会」で出された結論と、組会・組門徒会での議決が異なったとき、いよいよ混乱をきたすということも懸念されます。
 また、「組同朋総会」の説明として、「組における教化推進の実働体制の基盤を確保する」と、組教化委員会が果たしてきた役割がそこに謳われていて、組教化委員会との役割分担も明確にしなければならないように思われます。
 さらに、いままで実施されてきた組同朋会議と組同朋総会とは、どこがどう違うのか。あまり、その違いがはっきりしないと言う事もありますが、これからは組同朋会議ではなく、組同朋総会ということでいくということのようです。組同朋会議では何故ダメなのでしょうか。それも、はっきりしません。「組同朋総会」については、教区で、よくよく議論する余地がありそうです。

  《組長・副組長の任務の明確化》
 いまでも、組長の職務はかなりハードになってきています。そのうえ、さらにこの度提案されている事業を実施するとなると組長の職務の増大化は避けられないでしょう。その事に対しては、どのように対応しようとしているのかという問いに対して。副組長の任務を組長の職務を補佐すると条例で明確にし、組に必要により会計又は主事を置く事ができるとしたということ。従来、組長一人に集中していた職務を、副組長そして、会計・主事にも分散させることにより、組の円滑な運営をはかってもらいたいということのようです。
 また、今回の条例では、組教化委員長は組長が当たるが、必要により組会員の中から選定されたものをこれに充てることができるとしています。

  
《七つの施策》
 ご遠忌に向けての、中期教化研修計画として、次の七つの教化施策が提案されています。
  @お待ち受け総上山
  A帰敬式実践運動
  B推進員養成講座
  C親鸞聖人講座
  D真宗子ども講座
  E教化特別研修生制度
  F同朋唱和推進事業
 このうち特に組の教化事業として取り組む事を要請されるのが、C親鸞聖人講座ですが、これは、組内の住職・坊守・教師を対象にして、年間2回以上、テキスト「宗祖親鸞聖人」の「法語」を読む。なお、サブテキストとして真宗本廟育成員研修会の講義録を配布。
 以上が概要ですが、全国419組が、各々独自の教化活動を展開しているなかで、サブテキストの講義録を輪読して研修会を実施しなさいと指示する事の持つ意味やねらいは何んでしょうか。研修内容まで、一々指示しないと研修会が持てないような状況であると、全国の組の現状を認識しているのでしょうか、あるいは、419組で、同じテーマで研修会を持つ事が何か、そこに大事な意味があるのでしょうか。ここは、教区の教化委員会が、仙台教区の8組にとって、組の教化活動をより活性化するには、この「親鸞聖人講座」が有効であるのかを含めて検討する必要があるように思われます。

 
 《組交付金》
 いままで、経常費御依頼の5%が、組交付金として、組の会計に入っていましたが、今年度からは、一旦教区会計に入れ、組の活動実績や実情によって応分の額を組に交付するというものです。
 つまり、教区が交付金によって組を管理・査定するという仕組みを持ち込む事になります。果たして、そういう関係がのぞましいのでしょうか、。組は、それぞれの立地条件や歩みの違いにより、独自なあり方をしています。それを、画一的な事業を実施したかどうかで査定するという事自体、組の独自性・自主性を奪い、犯すことになりはしないかと危惧されます。このことも、教区として検討せねばならない事のように思われます。



女性室」を組織部所管から解放運動推進本部へ

 今回、解放運動推進本部の職制を一部変更して、女性室を解推本部が所管することになりました。
 昨年、部の統廃合があり、そこには明確な理念も方針もうかがえず、ただ部の看板を減らす事のみが目的であったとしか思えないなかで、ただ教務部が組織部と一つになることにより、女性室の業務が円滑に進むのではないかとひそかに期待をしていました。
 つまり、女性室は、当面の目標として、宗門における男女平等参画基本法に当たるものを作り上げることをあげていました。それはまた、一般寺院においても、男女平等参画による運営が願われているわけですが、教務部は一般寺院とその構成員を担当する部署であるため、組織部と一つになる事によって、一般寺院での運営面の問題点がより整理され易くなると思われたからです。しかし、どうも期待はずれで、教務部と合併する事による利点を活かせないまま推移し、今回は、解推本部に移管されるという事になりました。
 解推本部に移管するのは、「性差別問題を具体的な信心の課題として広く宗門内に受け止めて頂くため」であるとしていますが、女性室が課題としているのは単に性差別問題に止まらず、男女両性で形作る教団であり、この度の移管には納得できないものがあります。
 移管にあっては、女性室のスタッフには、相談ではなく、伝達として、「所管が変わるだけで、今まで通り何も変わらない」ということが伝えられたと言うことのようです。これも驚く話で、所管が変わるのに、何も変わらないというのなら、何を所管していたのかと聞きたくなりますし、またそれでは、何故所管を変えるのかを聞きたくなるのはわたしだけでしょうか。




選挙制度について

  《すべての有教師に被選挙権を》
 宗議会議員選挙条例一部改正については、二つの条例案が上程されました。一つは、我々グループ恒沙が発議者となって議員提案したもので、「25歳以上のすべての有教師に被選挙資格を与える」というものです。この改正案は、賛成少数で否決されました。

  《不服審査請求制度??》
 今一つは、当局提案の改正案で、ここで記すべきことは「不服審査請求?」ができるようになったという当局説明についてであります。
 相前後しますが、ご存知のように昨年の議会で被選挙資格が改正されまして、住職以外の教師にも被選挙資格を拡げるようになったのは大事な事なのですが、そこに、何のための拡大であるかという意図を全く否定することになるともいえる「住職の同意」という項目を入れた改正となったわけです。そんな同朋公議を真っ向から否定するような改正には賛成できず、今回も又、上記の改正案を提出したわけです。
 そこでは、「不同意」の基準や根拠が全く開示されることなく、「不同意」となったものは立候補できないことになります。それに応えるためのものとして、「不服審査請求制度?」が提案されたのかと思いました。つまり「不同意」となった者が、その理由を住職に開示させ、それが「不同意」とするに適さわしいかどうかを審査するものであると。
 しかし、条例では中央選挙管理会が、それを3日間でやるというのです。どうも、おかしいと、改めて内容を確認すると、「不服審査」とは、全く似て非なるもので、単なる書類審査、それも署名・捺印が整っているかどうかを確かめるものでしかないのです。そこでは、やはり、何故「不同意」なのかという理由の開示すら保証されていません。そのようなものを、「不服審査」などと詭弁を弄していいのでしょうか。
 いま少し、その書類審査の中味の説明を加えますと、「不同意」の住職は、その事を証する書類を作り、責任役員・総代の署名・捺印を必要とするものとしたわけです。したがって、責役・総代の署名捺印が整っているときには、立候補できなくなりますし、不備がある場合には、立候補できるということです。
 これは、「不同意」が、住職の専横専断となるという批判に応えたるものとして考えられたものでしょう。つまり、責役・総代の署名捺印が必要なのであるから、住職一人の専断ではないと。しかし、内実は、責役・総代が住職の専断を覆い隠し見えなくする役目や、住職の専横を追認する役割を果たす事に過ぎないことを見逃してはならないでしょう。この改正が、「同意」が宗憲違反であり欠陥条例であることを見えにくくし、不備な条例を固定化する方向にはたらくことを最も恐れるものであります。

  《特命住職に同意権》
 さらに、今年度の再度の改正でも残った問題として、特命住職のことがあります。事情があって特命住職を教務所長が兼任している寺院があります。その場合、行政官に、立法に関わろうとするものの適否を判断する権限が、この条例では付与されている事になります。これは、明かな欠陥と言わねばならないでしょう。



中越震災復興共済・支援について
 
 この度の中越震災で、改めて共済制度の問題点が浮き彫りにされました。
 この度の震災で共済給付申請寺院が55ヶ寺あり、そのうちの19ヶ寺が再審請求、つまり査定内容に異議があると言う事です。申請寺院の35%の寺院が、これはちがうだろうと受け止めたということは、大きい事ではないでしょうか。この問題に対する、つまり再審請求の多さは異常ではないかという質問に対して、参務の答弁は、「異議を感じた寺院個々の問題であり、数の問題ではない」という認識を示します。
 そこには、共済加入被災者と当局との間に大きなズレがあると言う事なのですが、たぶん再審請求によって、査定が変わる事はないのではないでしょうか。
 自治体が出している被災証明では、同じレベルの被災状況の寺院同士でありながら、当局の査定では違いが出ているケースがいくつかあります。
 そこにある不信感には、査定基準と査定方法が開示されず非公開にされている事と、専門家が現地に足を運んで査定をするシステムが確立されていない事によると思われます。この事が、放置されたままであるとすれば、共済加入者が今後、減少することが懸念されます。
 ただ、この度の震災を機に「広域災害に対応するためのボランテイア委員会の設立についての請願」が議会で採択され、内局に送付されたことは大きいと言えます。



玉光教学研究所所長解任問題とは、何であったのか

 今宗会は、ある意味で、「玉光宗会」と言ってもいいものでありました。この件については、先の冊子「世の祈りにこころ入れる宗政を」でも、ふれましたが、三月三十一日で、「後進に道を譲ってもらいたい」という理由で、玉光氏を解任し、後任に前大谷大学学長の小川氏を任命します。熊谷総長のなかでは、玉光氏より年上の前学長が玉光氏の後進(後輩)にあたるという認識のようであります。
 玉光氏が解任されるようだという風聞が、三月上旬に流れ出した頃から、全国から25通、人数にして900名の人たちから、厳しい抗議や、この人事を思い直してほしいという要望、嘆願が寄せられました。また、今議会に対して、先にも触れましたように、26件の請願が提出され、そのうち20件がこの問題に関するものでした。その請願の内容としては、解任理由を開示せよ、この問題の糾明委員会を設置せよ等です。これほどの請願が出されることは、極めてまれです。 

 《予算委員会での特別審議》
 本会議の代表質問・一般質問に先立ち、予算委員会(6月3日午後)において、特別審議の場が持たれました。そこでは、解任理由を明確にする、教研に対する方針が総長と玉光氏ではどう違うのか、免役処分は条例違反ではないか等が質問として出された。それに対して総長は、人事のことであるから、解任理由については言うわけにはいかない。また、3月30日に教研の所員と面談した時に、玉光氏とは、異なった方針を持っているわけではないと伝えたといい、教研に対する考え方に違いのないことを明かす。辞令は免役ではあるが、辞めることに玉光氏も合意をして、事実上は、依願免であると答弁。
(依願免:本人の希望で辞めること。  免役:いわゆる免職で、辞めさせること。免役にするには、宗務役員分限規定で定められた項目がある。今回の問題では、免役としながら宗務役員分限規定に則っていない事が問題となった)

 《一般質問で手続きについて糺す》
 今回、6月7日の午後に一般質問の機会がありました。質問内容については、後述します。そのなかで、免役にした条例上の手続きと、また、もし手続き上瑕疵があった場合、処分は撤回されることになるのか、あるいは、処分をした行政処置そのものが糾問されることになるのかを質問。それに対して、総長は法規総覧の「依願免職」の項目を読み上げられたので、その後を読んでいただきたい旨を再度要請。そこには、免役規定が記されているのですが、その要請には答えず、答弁が中断。議長が予定外の休憩を宣言し、議会が中断されました(こういう事はほとんど無い事)。再開後、当局は、「教研所長の任免権は宗務総長の専権事項であり、玉光氏からも合意を得ている」と、事情説明で質問をかわす。質問には、全く答えてはいず、再度追求してもよかったのですが、「任免権」という言質もとれ、同じ応答が予想されたので、それ以上の再質問は控えました。

 《不信任案提出》
 6月9日、無所属の木全議員が発議者となって、熊谷内局不信任決議案が提出されました。今回の解任問題で、全国から内局のもとに多数の人が抗議文・要望書・嘆願書・質問状が寄せられているのに内局は全く無視し続けたこと。さらに、条例を無視した独断専横の人事権の乱用で、宗門全体に宗政不信と混乱をもたらしたことは、不信任に相当するとして内局不信任決議案を提出。
 翌日、上程されて、採決の結果。20:44で否決されました。20票の中味は、グループ恒沙11票、無所属8票、真和会1票。44票は、真宗興法議員団34票、真和会8票、無所属2票。欠席、真宗興法議員団1名。
 
  ※無所属8名  今年3月、真宗興法議員団から分かれた人たちです。他の会派の事ですから、あまりコメントするのもどうかとおもいますが、この8名の人たちは、総長経験者2名、参務経験者4名と、真宗興法議員団の中枢、つまり大谷派の権力中枢にいた人たちです。その人たちが、かつて願った宗政を実現するために、真宗興法議員団と袂を分かったということなのでしょう。それほど、今の真宗興法議員団は、変質してしまったという事なのでしょうか。ただ、内部にい
て、真宗興法議員団を変えようとしなかったのかという疑問は無いわけではあり
ませんが。とはいえ、真宗興法議員団の宗政における横暴と弊害について、辟易としていることは言うに及びませんが。

 《総括質問で罷免権について糺す》
 6月13日午後に特別委員会の総括質問の時間があり、そこで改めて玉光問題を取り上げました。今回の問題は、玉光氏個人の問題だけではなく、宗務役員の身分の保証が十全になされているのかどうかを確認したいという事がありました。
 一般質問で、総長には任免権があると説明していますので、その事を是非確かめたいということがあります。つまり、総長に宗務役員を罷免する権限があるのかどうかということです。
 質疑応答では、罷免権があるというわけですが、罷免するには、宗務役員分限規定第2条・第3条に該当する場合にしか罷免できないということは認めるわけです。
 少し煩瑣になりますが、本人が退職を願い出た時や、懲戒処分された場合を除くと、
1.心身の不調で職務を執行できない。
2.職制や規則の変更で宗務役員が過剰になった時。
3.勤務成績が甚だしく不良である場合(宗務役員分限規定第2条)には、罷免することはできますが、同時に、それ以外では、罷免する事が出来ないという事です。
 条件に関係なく罷免したり、しなかったりする権能や自由が付与されているなら罷免権と言えるでしょうが、宗務役員分限規定第2条および第3条に該当する場合しか、罷免できないとすれば、これは決して罷免権とは言えません。上記条例に該当して罷免する場合も、これは総長の権限ではなく任務と言うべきでしょう。総長に罷免権という権限が付与されていない事は明白です。
 今回の問題は、罷免権が与えられていないにも関わらず、罷免権を行使したところに問題の本質があります。つまり、総長は、玉光氏に後進に道を譲ってくれといい、教研の将来構想を話し、玉光氏も同意をしたから辞めてもらったといいます。だからこれは、事実上の依願免だと言うのが総長の主張です。しかし、分限規定によってしか罷免できないにも関わらず、分限規定には、「後進に道を譲るため」も、「将来構想のため」も、「本人の同意を得た場合」のどれも項目としてはありません。分限規定にない理由で罷免したという事は、本来付与されてもいない罷免権を行使したという事なのでしょう。
 これは、手続き上のミスではなく、罷免に相当するに足る事由が無いにもかかわらず罷免したということであり、本来無い罷免権を行使した条例違反と言わざるを得ません。

 残念ながら、いまの制度には内局が条例違反をしても、それを明らかにし、違反を糺す機関がありません。この度の問題で、内局の条例違反を糾明する機関の設置の必要性を感じましたし、総長には、罷免権など無い事を明確にしておかなくては、宗務役員は、門徒や宗門の方ではなく、いつも総長の方を向いて宗務を執行するようになってしまう危険性を払拭する事ができないでしょう。



今議会で採択した決議をここに紹介します。そして最後に一般質問の抄録を掲載します

 [ 決 議 ]
日本国憲法「改正」反対決議

 今年、私たちはアジア・太平洋戦争敗戦60周年を迎えました。1931年の「満州事変」に始まり、1945年8月の広島・長崎への原爆投下に終わった15年にも及ぶ戦争一色の年月の中で、日本国民約300万人、アジア諸国民約2000万人の命が奪われ、その悲惨な傷跡は未だ癒されることなく国内外に深く残っております。
 1946(昭和21)年に公布され翌年施行された「日本国憲法」で私たちは、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄」の三原則を国のあり方の根本と定めました。この「日本国憲法」は、二千数百万人にも及んだあまりにも大きな犠牲へのおののきと、人類の滅亡すら危惧される核の時代がもたらす底知れない不安感を背景に、「政府の行為によって再び戦争の惨禍起こることのないようにすることを決意し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」して生み出されたものでありました。
 しかしながらその後、日本政府も私たちも、国の基本法である「日本国憲法」に謳われた精神を具現化することをおざなりにし、戦争犠牲者から託された、恒久平和構築の悲願を忘れたかのように、経済的物質的豊かさのみを飽くことなく追求してまいりました。まさに、「恥ずべし、傷むべし」と言わざるを得ません。
 私たち大谷派宗門もまた、「遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり」と本願念仏のみ教えをいただかれた親鸞聖人を宗祖としながら、宗祖聖人の仰せにもなきことを聖人の仰せと偽り、釈尊の「兵戈無用」の金言を忘れて、戦争遂行に協力してきました。 戦争の悲惨さを知る人が少なくなりつつある今、日本国民が、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓」った「日本国憲法」を「改正」しようとする動きが急加速しております。ことに2001年9月に発生した同時多発テロ以降、アジア近隣諸国との関係悪化に便乗するかのように、「戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否定」を謳った第9条の「改正」を中心とした憲法「改正」の動きが俄に現実味を帯びてきました。
 「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と宗祖の仰せをいただき、1995年・戦後50年に当たって「不戦決議」を採択した私たちは、宗門の負の歴史を心に刻み、「日本国憲法」を生み出した戦争犠牲者の声なき声に耳を澄ませて、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「国際紛争を解決する手段」として「永久にこれを放棄する」意志を再確認し、今般の「日本国憲法」「改正」の動きに対して、真宗門徒として強く反対の意を表明いたします。

  2005年6月14日 
                     真宗大谷派 宗議会

 

核燃料サイクル推進に反対する決議

 さる5月30日、最高裁第一小法廷は、高速増殖炉「もんじゅ」設置許可をめぐる行政訴訟に対し、先の名古屋高裁金沢支部の「安全の証明がなければ運転は認められない」という「いのち」を重視した判断をくつがえし、現地住民の不安や原子力の危険性には答えることなく、「危険が証明されなければ運転を認める」という行政追認の判断を下しました。
 一方、国の原子力委員会は、今秋取りまとめ予定の「原子力長期計画」中間報告で、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場で使用済み核燃料の再処理を行うことで、核燃料サイクルを推進していくことを発表しました。
 半減期2万4000年のプルトニウムは核兵器にも転用可能な猛毒をもつ元素です。核燃料再処理に必然する永遠とも言える年月に渡る深刻な放射能汚染と核兵器転用可能なプルトニウムの拡散を恐れ、世界各国が核燃料サイクルからの撤退を決める中、高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開と核燃料再処理へのゴーサインにより、日本は核燃料サイクル推進に本格的に足を踏み出そうとしています。世界の潮流に反して日本が核燃料サイクルを推進することは、プルトニウムの蓄積による潜在的核保有国になるのではないかとの疑念を生み、国際社会からの批判にさらされることになるでしょう。
 私たち真宗大谷派は、1999年9月に発生し周辺住民への被曝被害にも及んだ東海村JCO臨界事故に際し、「危険の上に成り立つ豊かさから、いのちの尊厳に立ち返ってのエネルギー政策の見直し(趣意)」を内閣総理大臣に要望し、さらに2002年1月には、真宗ブックレットNo.9「いのちを奪う原発」を発行し、「原子力による被曝の拡散と核廃棄物の蔓延は、未来への絶望と無責任であり、いのちへの冒涜であり、共に生かされていく世界の喪失である」と、真宗門徒しての視座を一般社会に公開したことであります。
 プルトニウム利用推進は、原発と核兵器開発との区別を曖昧にするとともに、放射能による膨大な「ヒバクシャ」を生み続けるものであります。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下からイラク戦争をはじめとする劣化ウラン弾等による戦争に関わる被曝と原発推進や核燃料再処理によって生ずる労働者と住民の被曝、その悲しみは世界中に拡散してしまいました。もうこれ以上、日本が未来の被曝者を生み出すことの一端を担うことは止めなければなりません。
 共に生かされていく世界である浄土を願い、いのちの尊厳に真向かう宗教者として未来への希望を閉じる核燃料サイクル推進に反対する決議をいたします。

  2005年6月14日
                    真宗大谷派 宗議会


 

 ( 一 般 質 問 抄 録 )                   

 6月7日、一般質問の機会を得ました。ここに、その内容をご報告します。なお質問に対する答弁は、メモを取っていないものですから、正確さを欠くために、記すことは控えますが、「真宗」誌上で確認頂ければ幸いです。

 弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
皆さん、よくご存知の正像末和讃の冒頭の和讃です。これは、康元二歳二月九日の夜、寅の時の夢の告げに感得されたとあります。ところで、この2月9日という日は、実は、承元の法難により、住蓮・安楽が死刑になったその日のことです。住蓮が、いまの近江八幡市で、安楽が六条河原でそれぞれ打ち首にされた日です。そして、康元二年は、親鸞聖人85才、西暦では1257年、つまり法難のあった1207年から、ちょうど50年たっています。この和讃は、念仏者が国家によって、首を刎ねられた日から50年経ったちょうどその日の夜中に詠まれたものということです。
 宗祖は、この法難により、流罪となり、国家から与えられたり奪われたりする僧と訣別し、非僧非俗となり、期せずして配流の地で、苦渋に満ちた流人としての生活のなかで、「いし・かわら・つぶて」の如く、その存在をも無視された、その日その日を生きることに精一杯の人々との出遇いにより、宗祖自身がまた、弥陀の本願にてらされ、群萌の一人であることに頷いていかれました。ここに、愚禿親鸞が誕生したのです。それはまた、ひたすら生きることにのみ必死の人々を同朋として見いだしていかれたことでもありました。そこに、同朋教団の原点を見いだすことができます。
 この和讃は、承元の法難以来一日たりとも、忘れられることはなかったのではないかと思われますが、念仏者を打ち首にし、流罪にした国家に対する激しい憤りと、流罪によって出遇い得た人々の中に本願念仏の教えの確かさを感得し得た感激が同時に詠まれたものであるといえるでしょう。
 その法難から、再来年は800年になります。高田教区では、地元の自治体や諸団体と共に記念事業をされるということを聞き及んでいますが、ここは、宗門として、愚禿親鸞を生み、同朋教団の原点とも言える法難を改めて問い直し、その持っている意味を今一度確かめ直すべく「法難800年法要」を宗門の事業として厳修すべきではないでしょうか。
そこでは、非僧非俗を名告った愚禿親鸞を宗祖とする同朋教団としての視座から、改めて教団の現況と問題点が検証され直すことになるでしょう。また、教団と国家のあり方が問題とされることでしょう。
 宗祖は、念仏者を打ち首にし、流罪にした原因の一つを、「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸をしら」ないからだと、興福寺の奏状に象徴される仏教教団のあり方を教行信証・後序で厳しく指弾されました。仏教教団が、時機に相応した教えを見失い、権力に寄り添い、体制を補完することを専らとしているということでしょう。国家は、間違いや過ちを犯すものであり、仏教教団は世俗にありつつ、世俗に埋没すべきでないことから、国家を相対化し、それを批判し、糺すことが求められるにも関わらず、ただ国家に奉仕することにのみ関わり果てているということです。
 しかしまた、わが宗門においても、国家に寄り添い、世俗の価値を宗門の価値とし、そのことで国家の体制強化に奉仕してきた歴史があります。法難に学ぼうとする時、そのことは決して看過できることではないでしょう。ここでは、その一例を指摘し、それに対する明確な対応をお聞きしたいとおもいます。それは、御影堂の正面に掲げられている大師号・見真額についてであります。
 大師号については、両本願寺は1754年と1808年の二度にわたって大師号を贈ってもらいたいという運動を起こします。しかし、共に失敗し、やっと1876(M9)11月28日、大師号が贈られたという経緯があります。そもそも大師号は、天皇が諡号として与えるもので、天皇による権威付けをこの上なきものと考える事に他なりません。宗祖の素意からは最も遠いといえます。
 宗門では、宗憲が新しくなった時を期して、大師堂を御影堂に、大師堂門を御影堂門と名称を改め、また天皇の宣旨をお西とやり取りしていた宣旨奉送迎を取りやめました。また、その後、親鸞聖人・蓮如上人・法然上人の御影にそれぞれ見真大師・慧燈大師・円光大師の大師号を付けないことを決めています。誠に理に適った措置であります。ただ、最も目に付き、教化上影響力が大きいと考えられる御影堂の正面に見真額が、今も堂々と掲げられています。掛けておかなくてはならない理由があるのでしょうか、あるいははずせないわけでもあるのでしょうか。法難800年を期して、見真額の撤去を明言して頂きたい。
再来年、できれば、真宗10派と浄土宗にもはたらきかけて、共に「念仏法難800年法要」が勤められればさらに意義深いものとなるでしょう。法難800年法要を厳修し、見真額をはずした、修復なった御影堂を2008年には見届けたいものであります。
 つぎに、ご遠忌テーマについてお尋ねします。
「いま、いのちがあなたを生きている」。フレーズとしては、分かります。しかし、ご遠忌テーマとして相応しいのでしょうか。テーマづくりが大変であることは、承知していますが、ご遠忌テーマである限り、真宗の教えを発信し、広く世間にふれていただくものであることを期待します。誰にでも分かる言葉で表現することは大事ですし、何も教学用語で表現すべきであるなどとは決して思いませんが、そこに浄土真宗としての独自の教えが発信されることがより肝要ではないでしょうか。「いのちの私有」に対するメッセージであるなら、べつにわが宗門でなくても、誰もが共通の課題としています。つまり、このテーマは、他の教団やグループが掲げても全く違和感がないでしょう。このテーマを、真宗の教えの言葉に戻せば、どのような表現になるのでしょうか。ご遠忌テーマに、真宗独自のメッセージ性が希薄であることは、やはり問題であると思います。
 もう一点、こちらの方がより問題であると思われますが、最近の宗門の「いのち」の使い方には、曖昧さと危うさを禁じ得ません。「いのち教学」と評する人さえいます。
 とりわけ、このテーマの「いのち」は、その指し示す内容が甚だ不明瞭です。テーマ説明には、「無量寿としてのいのち」として提案したいが、そのいのちと生物学的命がどう違うのかについては、はっきり示しきれないという意のことがあげられています。これでは、あまりにも、無責任ではないでしょうか。また、このテーマ説明には、「無量寿としてのいのち」といい、総長演説では、「無量寿といういのち」といわれていますが、そこでいうところの「無量寿」について、その内容を教えて頂きたい。また、「いのちの大地である無量寿」という表現もテーマ説明にはありますが、そのような「無量寿」理解は、宗祖の著書のどこにその根拠を見いだすことができるのか、お示し頂きたい。
 「無量寿」が課題とする内容と、ここでの「いのち」で言い当てようとするところには本来、大きな隔たりがあるように思います。第13願の寿命無量の願や、阿弥陀仏を無量寿仏として表現するのは、いかなる時代、あらゆる時を尽くしても、すべての衆生を救わんという誓いであり、名告りであると教えられました。そして、それに応えられたのが、宗祖の正信偈の第一句、帰命無量寿如来であったのでしょう。末法を生きる宗祖の上に、時の隔たりを超えて本願の教えが到り届き、帰順することができたという感動と、「親鸞一人がためなりけり」の自覚がそこに表白されているのではないでしょうか。
 ここでお尋ねします。テーマ説明にある「無量寿」の内容を明確に概念規定していただきたい。そしてその根拠となる出典を示して頂きたい。そのことを明確にしないで、テーマ発表は控えるべきではないでしょうか。
 ここは、テーマを再考してもらってはどうでしょうか。われわれグループ恒沙は、「同朋を生きん 世の祈りにこころいれて」と、同朋社会の顕現を存立の目的とする宗門であることを発信するテーマを提案しています。6年あります。再考しても遅くはないと思いますが。
 次に、決議並びに声明に対しての当局の対応についてお尋ねしたいと思います。
 昨年、宗議会は、「教育基本法改正反対決議」を採択しました。政府は、与党内での調整さえつけば、いつでも改正法案を提出するでしょう。また、全日仏は、相変わらず、基本法の改正そのものの妥当性を論ずることなく、今も、教育基本法第9条の改正を、当初の改正案を少し変更していますが、主張し続けています。そのようななか、当局は、「教育基本法改正反対決議」を、宗門内に内実化し、さらに対外的に反対であることを明確にするために、どのような有効な施策を講じたでしょうか。全日仏の常務理事教団として、全日仏に対して、強く反対であることを申し入れ、方針を変更するように如何なる働きかけをしましたか。また、政府与党に対してどのような対応をしましたか。さらに、宗門内に周知徹底するための施策を何か講じましたか。議会が決議したことを具現化することが、当局の任務ではないでしょうか。もし何ら施策を講じることもなく放置していたとするなら、それは、明かに議会軽視です。もしくは、職務怠慢と言わざるを得ません。さらにあろうことか、議会への挑戦とも取れる発言が、お待ち受け大会の所信表明でなされました。「このような惨状は、人間の尊厳と価値を憲法で保障され、人格の尊重を謳われた教育基本法で教育を受けたはずの人々において起こっている事柄である」と、あたかも憲法や教育基本法が惨状を生み出した原因であるが如き論述であり、教基法改正反対決議とは対極にある立場です。何故、わざわざこのような表現をとったのか、そのねらいと意図を明確にして頂きたい。
 また、これは決議でありませんが、今まで多くの声明を発信しています。死刑反対、首相の靖国参拝反対、イラク派兵反対等々。これらの声明は、社会に対して宗門の姿勢を明確にする上で極めて重要であります。しかし、そこで表明していることを宗門内の課題として共有する事が同時により重要であると考えます。ここにお尋ねします。決議を具現化し内実化するために宗門内に、そして社会に対していかなる施策を講じましたか、また声明については、どのように宗門全体の課題にしようと考えておられるか教えて頂きたい。
 次に、教研所長解任問題についてお尋ねします。まず、全国から数多の要望書・嘆願書・抗議文等々が寄せられましたが、それらに目を通された感想をお聞かせ頂きたい。
 この度の問題に対して、ある宗務役員が、「教研所長だから、これだけ問題になっているが、一宗務役員なら、こんなに問題にはならないでしょう」と、ふと本音を漏らしていました。総長に解任されたら、泣き寝入りするしかないという反応です。こんな情況を良しとして、何でも言えて、必要なやりたいことができる宗務が執行できるでしょうか。もし、こんな事が認められるとすれば、総長にばかり顔を向けて、門徒や宗門を二の次とする、宗務が執行されることになる恐れを感じます。
 辞めたくない人を辞めさせることを世間では,解雇といいます。辞めたくない人を呼びつけて、説得という強圧と甘言をもって、納得させたり辞表を出させることも。たとえ辞表を出したとしても解雇と言うべきなのでしょう。いままでも、依願免というかたちで辞めていった宗務役員のなかにも解雇された人は多くいたのではないかと想像するに難くありません。辞めたくない者が辞めさせられるにあたる十分な理由なしに辞めさせられることはないと、現条例ではその身分保障がされています。もし、辞めさせられる理由なしに解雇されたとすれば、条例違反となるでしょう。
 ところで、昨日の高橋議員の質問に対して、玉光教研前所長は免役であったと答弁しました。ここに、免役にあたっての条例上の手続きを示して頂きたい。もし、手続き上問題がある場合には、免役処分そのものが無効になるのでしょうか、あるいは、免役に処したことが条例違反として糾問されるのでしょうか、教えて頂きたい。総長は人事のことだからと、解任理由について全く答えていませんが、全国から9通にのぼる多数の請願が解任理由を開示してもらいたいと寄せられています。請願の重さを思う時、このことを総長はどう受け止めておられるかあわせてお聞かせ頂きたい。
 明解な答弁を期待します。