宗政報告No10(2004年5月6日)


                   常会を迎えるにあたり

              教区内ご寺院に報告したものを掲載いたします

  

◆今年の宗会をどのように迎えようとするのか

 例年ですと、宗会閉会後にご報告をしていましたが、今回は宗会に臨むにあたり、特に肝要と考えます2点についてお伝えし、教区内の皆さんのご意見を頂戴して、宗会に反映出来ればと思います。
 その2点とは、選挙制度に関することと、教育基本法「改正」問題であります。もちろん、この他にも「同和審議会」が答申(3/31)しておりますように、「同和」の言葉そのものの問い直しと同時に、同和推進本部の名称と職制についての改正の必要性が指摘されており、それに関しての条例が予想されます。また、宗務改革推進委員会が報告(同和審議会答申と、後日真宗誌に掲載されるでしょう)しています「教区および組の改編」と「門徒数調査」を教区で実施するにあたっての条例等々、大事な諸条例が提案されると考えられます。そのような中、何故、この2点なのかと思われることでしょう。
 選挙制度に関しては、長年の懸案事項であり、もはやこれ以上の先送りは許されませんし、教育基本法「改正」問題は、宗門の社会的責任として看過できる事ではありません。
しかし、正直申しまして、共に状況は、手詰まりのうえ、先行き不透明であるといわざるを得ません。
 そこで、是非、この問題に関しまして、みなさんのご理解をえ、ご支援をいただきたく存じます。これ、ここに、この問題を取り上げる所以であります。

◆選挙制度について

選挙制度につきましては、随分長きにわたり問題にされてきました。
 問題になっていますのは、宗議会議員の選挙権は有教師にありますが、その被選挙権並びに教区会議員の選挙権・被選挙権は住職にしかないということです。さらに、これは、選挙制度ではありませんが、組会の会員権もまた住職にしかありません。
 果たしてそのことが、同朋公議を宗門運営の基本方針として標榜する教団にとって相応しいのか。また、宗門の活性化・女性の宗政参加を目指す上で、問題はないのかということが問われています。
 住職でなくても、宗門を荷負う意欲と能力のある有為の人が、宗政に参画することのできる途を開くことは、宗門を活性化すると共に、教師の宗門への責任感をより喚起し、若年層の宗門への参加意識を高めることにつながることはあきらかです。
 一方、教区や組で教化活動に積極的に参画している住職でない教師は多くいますが、その人たちが、議決機関に関わる途が断たれている時、おのずと主体的になりえませんし、しらけることさえあるでしょう。
 それらの多くの問題が指摘されているなか、今回特に問題としているのは、宗議会議員の被選挙権についてであります。

◆三派協議会

 宗議会議員被選挙権の問題は、1995年の宗議会常会で取り上げられて以来、2000年の常会まで毎年、本会議で取り上げられて来ました。また、98・99年の議会に設置してあります宗政調査会の制度機構専門委員会でも課題とされ、そこでは「宗議会の被選挙資格を全ての有教師に開く必要がある」と結論づけています。
 それらを受けて、2000年9月には、「宗議会等の選挙制度に関する検討委員会」が設置され、翌年3月30日に委員会は、当時の木越総長に「住職(主管者も同様)・前住職・代務者・責任役員・候補衆徒・副住職は被選挙資格を有する」と、拡大することが望ましいと報告しています。
  そして、2002年常会で、ときの三浦総長は、2005年の宗議会議員選挙は改正された選挙条例で行いたいという方針を表明。それを受けて、三会派で、自主的に選挙制度協議会を設置。一年半以上の協議を重ね、なんとか三派で議員提案できるように合意点を模索しましたが、お互いの主張の溝は埋まらず、合意に達することが出来ませんでした。手詰まりとは、このことを指します。

◆三派の各々の主張

  [真宗興法議員団の改正案]
 所属寺院(教会)の住職(主管者)の認定した教師は、被選挙資格を有する
  [真和議員団の改正案]
 所属寺院の前住職・副住職・候補衆徒・代務者・責任役員・副住職のいずれかである教師は、被選挙資格を有する
  [グループ恒沙の改正案]
 25歳以上のすべての教師は、被選挙資格を有する

◆グループ恒沙の提案理由

 我が宗門は、同朋公議を宗門運営の基本方針とすると、宗憲前文で宣言しています。宗門運営の最も肝要な場となる宗議会の議員を選出する選挙こそ、同朋公議によってなされねばならないと思います。
 また、教師は、宗憲および条例にてらします時、宗門を荷負する自覚と責任を有するものとして、宗務総長が補任した者であります。
 このふたつを考え合わせます時、本来、宗議会議員の被選挙資格は教師に与えられていなければならないものだと考えます。

◆ここがヘンだよ、真宗興法議員団の改正案

 本来は、門徒一人ひとりが宗門の基礎構成単位として、宗門を荷負することが望ましいのでしょうが、門徒数を把握することすらままならない現況では、寺院が宗門の財的基盤の単位であり、住職がその任を一人で担っているということは、三派で確認しています。

  [同朋公議を全く無視]
 興法議員団の改正案は、住職が財的負担を一人でになっているのであるから、住職にはそれなりの権限が与えられてしかるべきであるというわけです。その権限が、認定権ということです。
 この発想は、何を根拠にしているかといえば、明らかに義務と権利の関係です。重い義務を負う者には、それに見合う強い権限が与えられるべきであるというものです。これはすぐに、高額納税者のみにしか参政権のなかった制限選挙を想い起こさせます。日本社会は1925年に、これを克服して普通選挙を実施しています(女性の参政権獲得までには、さらに20年を必要としますが)。それから、すでに、一世紀近く経っているのですが。
 我々は、果たして、義務と権利の関係を運営の基本方針としている宗門なのでしょうか。81年の宗憲で、先にもふれましたが、宗門運営の基本を同朋公議に置くと、広く宣言したのではなかったのでしょうか。
 同朋公議は、宗門に関わろうとする一人ひとりの声に耳を傾けて、宗門を運営していきたいという願いを言い当てようとしたものです。それはまた、一人ひとりを、同じ重さで見出そうとすることでもあります。
 一方、義務と権利の関係は、人に軽重をつけて、それを運営の上に持ち込もうとするもので、同朋公議と対局にあるといえます。つまり、これは、同朋公議を全く無視することで、ひいては宗憲違反と言わねばならないでしょう。   

  [ミニ法主に逆戻り]
 先の本山問題の原因の一端は、大谷家の専横を認めてきたところにありましたが、認定権を住職に認めるという事は、寺院での専横に通じかねない関係をつくりあげる危険性があります。
 そこには、聞法者として共に歩むという関係ではなく、認定する者と認定をもらう者という上下の関係を持ち込み、それはいつでも、認定する者を特別な者としていく危険性があります。さらに、認定を得られない事が、住職の恣意による不当なものである場合の救済策については、全く考えられていません。住職の恣意であろうが、思いつきであろうが、ムシの居所の具合によろうが、認定されない場合は、それをそのまま受け容れなさいというものです。こういうことを、逆引き辞典では、専横というのではないでしょうか。
 現宗憲では、住職は寺院を主管し代表すると、十二分にその権限が認められています。このうえ認定権なる権限を付与することは、宗憲改正前に逆行することであり、「ミニ法主」を生み出す事にもなりかねません。

  [教師が信頼できない]
 宗憲および、僧侶条例・教師条例によりますと、教師は、教法を宣布し、本廟崇敬の念を持ち、宗門ならびに寺院興隆に務めることを任務とする僧侶の中より、宗務総長が補任するとあります。
 そこには、当然、宗門人としての責任と使命を深く自覚する者と認めた上での補任でありましょうし、大いに宗門活動に参画することを期待し信頼するということでもあるはずです。
 総長が補任したものに対して、改めて宗議会議員として立候補することが相応しいかどうかの認定を住職がするということは、総長の補任そのものを疑うということになりますし、被選挙資格を認定しないということになれば、総長の補任を認めないのと同じこととなり、明かなねじれ現象を引き起こします。どうして、教師を信頼できないのでしょうか。
 
 真和議員団の改正案については、真宗興法議員団の案ほど指摘すべき問題点はありませんが、間口を拡大したという意味は評価できますが、開いたということにはならず、同調できるものではありません。 
 この宗会で、決着を付けられなければ、来年の宗議会議員選挙での実施は無理だと思われます。といって、長年、宗門課題として検討と協議が積み重ねられて来たこの問題を中途半端な条件を付して、改正の趣旨も願いも曖昧にしてしまう妥協の産物で決着させてはならないと考えます。
 被選挙資格を、25歳以上のすべての教師にあたえるという改正案に、ご理解をいただきたいと同時に、強力な後押しをお願いするものであります。
 なお、宗議会議員選挙条例が改正されれば、おのずと教区会議員選挙、および組会会員についても改正に向けて動き出すものと思われます。

◆教育基本法「改正」問題

 教育基本法「改正」問題といっても、私たちも、はじめ、それほど深い関心があったわけではありませんでした。有事関連法とリンクして、愛国心が強要されるような教育というのは「とんでもない」という受け取り程度のことでありました。しかし、全日本仏教会が「改正」にむけて賛成運動を展開していると知り、私たち自身が「とんでもない」状況を作り出そうと積極的に推進している一人にされていることに、ちょっと待てと思うようになったわけです。
 大谷派は、全日仏の常務理事教団という主要構成教団のひとつです。その大谷派が黙認するということは、好まざるとも「改正」に積極的に賛成していることになります。はたして、それで大谷派が、社会的責任を果たすことになるのか、こういうことが大きく問われているわけです。

  [教育基本法「改正」のどこが問題なのでしょう] 
 ここでまず、なぜ、教育基本法「改正」を問題にせねばならないのか、確かめてみたいと思います。いままで教育基本法を読む機会もなかったのが正直なところで、読んでみますと、日本国憲法の精神を実現するために、いわば、憲法とセットで作られたということがよく分かりますが、平和教育が中軸になっています。
 「改正」を主張する人たちが、あたかも教育の荒廃の原因が基本法にあるが如き事を言いますが、どのようにみればそのように読めるのか聞きたいものです。
 ところで、2002年4月、小泉内閣は「有事法制三法案」を国会に提出し、わずかな修正を経て2003年6月6日これを成立させました。これと、表裏をなすかたちで教育基本法「改正」が考えられていると見る時、「改正」理由がよくわかります。
 有事とは、はっきりさせるために言えば「戦時」のことで、戦事体制下においては、それを支え、それに協力する国民精神が必要とされます。そのためには、平和教育では間に合わず、「国を愛する心」や「日本人としての自覚」を求める「改正」が不可欠ということなのでしょう。
 「改正」が目指しているのは、戦争をする国を支える人づくりのための教育であり、それはまた、平和憲法改悪の地ならしとして位置づけられていると見るべきでしょう。

  [全日本仏教会の動き]
 ここで、中央教育審議会と全日仏の動きと、それに対する大谷派の対応について大まかにふれてみましょう。
2000年3月、小渕首相の私的諮問機関として設置された「教育改革国民会議」は、その12月(森内閣)、教育基本法の改正が望ましいと提言。それには、全く法的根拠がないにもかかわらず、2001年11月(小泉内閣)、当時の遠山文科大臣は、それを受けるように、教育振興基本計画の策定と基本法のあり方を中央教育審議会に諮問します。中教審では、2002年11月14日、中間報告を行います。
 一方、全日本仏教会では、常務理事である石上智康氏(本願寺派の宗会議長)が中心になって、中教審の中間報告を先取りするかたちで、2002年11月13日、理事会において、教育基本法第9条、宗教教育の条文改正の必要性ありとの合意を取りつけます。そして、翌年2月には、「宗教教育推進特別委員会」を設置して、基本法「改正」賛成の流れを完全に作り上げてしまいました。
 そして、中教審は2003年3月、基本法「改正」を答申します。

   [大谷派の対応]
 一方、全日仏で「改正」賛成を取り決めた時期は、派内では三浦内局総辞職という混乱期にあり、この件に関して責任ある対応を取り得ていなかったということがあります。
 さらに、うかつにも、我々は、全日仏が基本法「改正」に賛意を示し、さらに運動展開までしていることを昨年の9月まで知りませんでした。そのため、遅きに失した感はありますが9月11日の議員総会で内局に、大谷派として全日仏に如何に対応しているかを確認したところ、明確な報告を得られませんでした。
 そこで、9月12日、29名の大谷派の議員で、教育基本法「改正」には、反対であることを全日仏に強く申し入れ、即時運動の停止を求める要請文を提出致しました。29名の内訳は、真宗興法議員団18名、グループ恒沙11名であります。
 それに対して、全日仏の「宗教教育推進特別委員会」は、10月7日付けで、熊谷総長宛に、教育基本法第9条の「改正」に向けての協力をお願いする書面を出しています。このとき、わざわざ東本願寺まで足を運び手交したという噂まであります。
 再度、対応を確認するために、11月18日・20日の議員総会で、熊谷総長に改めて見解を求めました。それに対し、総長は、基本法「改正」については、いろいろな意見のあることは承知しているが、第9条に関しては改正に賛成である。「いただきます」ということも教えられないような教育はなんとかせねばならないという思いが強く、この機に第9条の改正をやってもらいたいという意見のようでありました。宗教者として、宗教教育に真摯でありたいというまじめさは、わからないではありませんが、それが政治的思惑に利用されるということに思いを致してもらいたいのですが。「靖国」に学んできた宗門の責任者としては、はなはだ心許ないと言わざるをえないものです。  
 この総長発言から、この問題に対する真宗興法議員団の対応が、目に見えて硬化します。1・2を上げますと、昨年12月16日、宗議会同和委員会から全日仏に要請書を出すことを提案しましたが、反対にあい賛意を得られませんでした。また、この2月5日には、体制の変わった全日仏に改めて要請書を提出しようと提案しますが、真宗興法議員団からは一人の賛同者も得られず、グループ恒沙の11名のみで提出しました。
 いまだに、宗門として明確な反対表明が出されることなく推移しています。いまも「改正」賛成を推進していることになります。

   [大谷派議会は、「改正」賛成なのか]
 真和議員団の人たちは、我々の最初の呼びかけから拒否されていますから、それが明確な態度表明なのでしょう。
 しかし、真宗興法議員団の人たちも、本当に教育基本法「改正」に賛成なのでしょうか。異議申し立てをしないということは、必然的にそういうことになります。昨年9月の要請書に署名された18名の議員は、意見を変えられ賛成にまわられたのでしょうか。ご意見をお聞かせ願いたいものです。
 何かこのように書くと、他の会派を批判しているようにしかお読みいただけないかもしれませんが、大谷派として、どのように態度決定せねばならないかという時に、会派がどうのと言っている場合ではないのです。会派の都合と事情ばかりを優先させ、議会としての機能と使命が忘れ去られているとしか見れないと報告せねばならないことが残念です。
 わが大谷派議会は、1995年6月、過去の過ちを懺悔し、「惨事を未然に防止する努力を惜しまない」と不戦決議を採択いたしました。一昨年、仙台の戦災復興記念会館で、大谷派と縁のない団体が戦災写真展を開催した折、そこに不戦決議の全文が張り出されていました。
 もしここまま、全日仏に同調して、「改正」賛成の方針を変更しないとするなら、不戦決議をした議会に対する背任であることは言うに及ばず、大谷派を信頼し、期待している人々への裏切りともなることを肝に銘じなければなりません。
 本当に、「改正」に賛成だという議員が多数を占めているなら、それが現状なのだから認めねばならないでしょう。しかし、もし、反対の議員が多数を占めていながら、それ以外の要因が働いたが為に、賛成の流れのままに身を任すこととなったとすれば、議会の存在理由をどこに見出すことが出来るのでしょうか。

 私たちが、この宗会に臨むにあたって、課題としておりますこと、何とかしたいと願っていますことの一端をご報告させていただき、皆さんのご批判を仰ぎたいと思います。
 我々は、あまりにも非力です。どうぞ、みなさんのお智慧をお力をおかしください。
  
  なお、お西の宗会議員で教育基本法「改正」に反対しておられる方々と共に、下記の要領で集会を開催いたします。
  京都にお出かけになる都合がおありの時には、是非ご参加下さいませんか。
  
           教育基本法改悪反対宗教者集会
   講師  野 田 正 彰 氏 (関西学院大学教授)
   期日  5月28日(金)  PM6:00 〜 8:00
   会場  京都府立総合福祉会館 ハートピア京都
   主催  「教育基本法」改悪に反対する東西本願寺宗会議員有志の会