困ったときは笑っとけ 3 by 獅子丸



もう2月だと言うのに、新しいマンションの合い鍵がなかなか出来てこない。
おかげでロイエンタールは、ミッターマイヤーが帰ってくる前に家に滑り込むために自分の仕事が押してくれば無理矢理時間内に終わらせる努力を怠りなくしていたが、片やミッターマイヤーは、相も変わらず仕事に夢中になると何も眼中になくなるらしく、心配してロイエンタールがわざわざ研究所まで迎えに行くことも珍しくなかった。
そんなばたばたした生活の中でも、休日だけはミッターマイヤーも何か考えるところがあるのだろう。
朝から溜まった家事を手伝い、一週間必要な食料の買い出しに一緒に出かけ、台所仕事も見よう見まねでトライするようになった。
男女で言うなら、普通の新婚家庭のような生活を送っているとの確信がロイエンタールにはある。
同居を始めたばかりの頃、意識的に距離を取ったり、触れられるのを露骨に避けたりしていたミッターマイヤーが、最近はまったくそういうそぶりを見せなくなってはいる。
だが、最後の一歩がやはり遠い。
穏やかな時間の中で、彼一人じりじりと待たされ続けている。
ミッターマイヤーが自ら「納得して」触れさせてくれるようになるその時を。

ベルゲングリューン経由で手に入れたグループの系列ホテルで使用されている極上フランス産マロンペーストのたっぷり入ったマロンケーキがオープンから良い匂いを漂わせ始めた。
「ヴォルフ、コーヒーは?」
テーブルの上を午後のお茶用にセッティングしながらエスプレッソマシンと睨めっこをしているミッターマイヤーに声を掛ける。
「今ミルクに泡たててる。ちょっと待て」
彼はスチームで固く泡立てた後、アエロラッテでなめらかできめ細かく仕上げるこの作業に最近夢中だ。
「よし、出来た」
舌もとろけるようなスウィーツと薫り高いコーヒーをゆっくり楽しむのは、すっかり日曜の午後のお楽しみになっていた。
「美味いっ」
ケーキを一口頬張り、ミッターマイヤーはうっとりと微笑んだ。
こくのあるクリームコーヒーを味わい、にこやかに一切れを食べ終わって、ふと見上げると少し静かなロイエンタールに気付く。
「どうしたんだ?ロイエンタール。元気ないな」
「そうか?そろそろミートローフのゆで卵を作ろうと思っていただけだ」
「あ、それ、俺がやる。何個茹でれば良い?」
ケーキの残りはデザート用に仕舞い、皿を片付ける。
そうしてまた緩やかな時間が過ぎて行く。
寝しなに明日の持ち物をチェックしているミッターマイヤーにロイエンタールが声を掛けた。
「ああ、ミッターマイヤー。悪いが明日は鍵を持って行ってくれないか」
「え?」
「少し遅くなるかもしれない。定時に終わるなら先に帰ってくるだろう?」
「わかった」
「明日は冷え込むそうだから、しっかり暖かくして出かけるんだぞ」
「……」返事はない。
見れば、布団に身体を半ば滑り込ませた状態で眠ってしまっている。
まるでゼンマイの切れた玩具のようだ、とロイエンタールはため息を付く。
「お休みのキスくらいさせてくれても良かろうに」
よいしょ、と力の抜けた身体をシーツの間に押し込み、上掛けを掛け、額に唇を寄せる。
僅かに開いたカーテンを閉めようとベッドから出て、ロイエンタールはぶるりと身震いした。
月の煌々と輝く、なるほど冷え込みの厳しそうな夜だった。

翌日の昼からは低く雲が垂れ込め始め、本格的に真冬の寒さが訪れた。
「ミタさん、このデータなんだけど…」
「ミタさーん、お電話よ〜」
ひっきりなしに襲いかかる雑用に立ち向かいながら、ミッターマイヤーはロイエンタールの作ってくれたお弁当の包みを睨み付ける。
お腹がすいて死にそうだ。
ようやく昼食にありついたのは午後2時を回っていた。
ポットに入ったカフェオレと野菜や薄切りにしたチキンやハム、チーズがたっぷり挟まったベーグルのサンドイッチ、数種類のフルーツ。
ロイエンタールのまめさにはほんとうに感心する。
何から何まで人に世話をされて生きていける筈なのに、彼の家での信頼が厚かった乳母であるベルゲングリューンの母に、「人として生きるために最低限のこと」を躾けて貰ったと笑って語っていたっけ。
彼がその料理や家事の腕を惜しげなく注いで、生涯を共にしたいと必死になった相手はミッターマイヤーだけなのだが、もちろんそんなことは今更言わずもがな。
恋愛思考回路に不通部分の多いミッターマイヤーにだって、そのくらいのことは理解出来た。
何故自分なのだろう、という問いはいまだについて回っていたけれども。
遅い昼食を終え、お弁当箱を片付けながら彼はため息を付き、そのため息を自分で吹き飛ばすが如くに柔らかな蜜色の頭部を振り回した。
彼にもひとつの決心があった。
プロポーズを受けたあの日、そして、同居を始めて今日までのロイエンタールの真摯な眼差しに応えなければならない。
いつまでもロイエンタールが大人しくしているのを良いことに待たせ続けていられるとは、いかに彼がのんびり屋でも思ってはいなかった。
「すまん、ロイエンタール。もうちょっと、待っててくれ」
「ミッターマイヤーさん、たいへんよ〜〜」
間髪入れず、声がかかった。午後も忙しくなりそうだった。

さて、午後の「たいへん」とは突発的な一大事で、全ての処理をようやく終えて、スタッフ全員が研究所を引き上げる事が出来たのは日付も変わろうかという時間になっていた。
「こんなこと、年に何度あるかないかでしたね」
「あれれ〜、寒いと思ったら雪ですよ」
「ほんとだ」
雲に覆われた空から、ふわふわと雪が舞ってきている。
「お疲れ様でしたー」
口々に呟きながら皆が解散し、手を振りながら別れたミッターマイヤーが自転車を漕ぎ出そうとした瞬間、路肩に止めた高級外車に凭れて佇む人影を認めた。
「ロイエンタール…あっ!!!」
──鍵!
ミッターマイヤーの記憶が夕べの会話を瞬時に蘇らせた。もちろん時既に遅し、なのだが。
「……すまん」
ロイエンタールは、ミッターマイヤーをじっと見つめ、ほう、と深く息を吐いた。
「心配した。無事ならそれでいい」
声を聞き、ほっとしてミッターマイヤーは慌てて自転車を畳む。
だが、その後ロイエンタールは一言も言葉を発しようとしなかった。
ミッターマイヤーが、研究所で起きた突発的な出来事をいろいろ説明している間も黙っている。
エレベーターの中での痛い程の沈黙に、ミッターマイヤーは押し潰されそうだった。
家に入っても、珍しくコートを椅子の背に掛けたまま、ロイエンタールはどさりとソファに座り込む。
いくら自分が悪かったとはいえ、黙っていられるのには耐えられそうにない。
「ロイエンタール、ご免、俺が悪かったよ。黙ってないでなんか言ってくれないか」
「…すまんが静にしてくれ、ミッターマイヤー…」
それだけ聞き取れない程の声で言うと、ロイエンタールは片手で額を抑えるようにしてソファに横たわった。
「ロイエンタール、おい、どうしたんだ」
額に触れると燃えるように熱い。
「うわ、凄い熱じゃないか。病院…ああ、今、夜中だ、どうしよう」
ぐったりとしているロイエンタールに、とりあえず毛布を持ってきて掛けてやり、ミッターマイヤーは大慌てでベルゲングリューンに電話をした。
「すぐ行きます。オスカー様をベッドに入れて、熱を測って下さい。暖房機と加湿器で部屋を暖めて」
ミッターマイヤーはベルゲングリューンの指示通りに直ぐロイエンタールをベッドに入れた。
日頃着ないパジャマを着せ、ミッターマイヤーが熱くて嫌がる毛皮の敷き毛布をシーツの下に入れる。
「さむ…い」
「大丈夫か、直ぐに温まるから」
エアコンの温度を上げ、加湿器のスイッチを入れる。
熱を測りながら、何枚も毛布や上掛けを重ねる。
「ごめんな、ロイエンタール。俺が閉め出したばっかりに」
体温計は40度に近い数字を指している。
電話をしてきっかり一時間でベルゲングリューンは医者を連れて駆けつけた。
「ミッターマイヤーさまは出て下さい」
寝室から出されたミッターマイヤーは、しばらく所在なげに佇み、それから脱ぎ散らかされた服や道具の片付けをのろのろとした。
ベルゲングリューンの持ってきた袋の中には、スポーツドリンクのペットボトルががたくさん入っている。
よく気の付く彼は、水分補給用に買ってきたのだ。
いつもあんなにロイエンタールに良くして貰ってきたのに、自分はいざとなると何も役に立たない…激しい自己嫌悪に陥ってミッターマイヤーはぼんやりソファに座り込んだ。
「インフルエンザですよ。検査キット持ってきて良かった」
診察を終え、若い医師はにっこり笑った。
「仕事とか、忙しかったようですか?」
「え?」
「だいぶ疲労が溜まっているようだから、インフルエンザの症状が重く出たかもしれないですね。ゆっくり休ませてあげて下さい」
時刻はもう明け方で、ベルゲングリューンは医師を送り、点滴をしてくれる看護士と、処方された薬を受け取るために出て行った。
その表情にはあからさまにミッターマイヤーに対する苛立ちが浮かんでいる。
年明けからこっち、二人に会ったのはほんの数回。
それはロイエンタールが手伝うと言うベルゲングリューンを必要ないと遠ざけた結果なのだが、彼は彼で、疲れが溜まっているであろう大事な主を放っておいてしまった自分に臍を噛んでいる。
別にミッターマイヤーのせいではないと判っていても、彼の為に頑張っていたロイエンタールのことが、彼にとっては一番の重大事だった。

そして、一週間。
ようやくロイエンタールは起き上がって食事が取れるようになった。
一時は肺炎も心配されたがなんとか乗り切り、付きっきりで看病していたミッターマイヤーとベルゲングリューンをほっとさせた。
もちろん、まだ野菜スープや口当たりの良い柔らかいものが中心だったが、久しぶりに栄養ゼリーやスポーツドリンク以外の食事にロイエンタールは憔悴して険しくなっていた表情を緩めた。
「ありがとう、ミッターマイヤー。もう心配は要らない」
「ダメだよ、ロイエンタール。今無理しちゃ」
シャワーを浴びてさっぱりしたロイエンタールをベッドに押し込み、枕元に座り込むと、額に触れ、熱がないか確認する。
「さっき7度きっかりだった。そろそろ平熱に戻るだろう。ミッターマイヤー、明日からはもう仕事に戻って良いぞ。済まなかったな」
一週間、研究所へも行かず、ひたすら看病してくれたミッターマイヤー。
ロイエンタールが目を覚ますと、何時も心配そうなグレイの泉があった。
そして今、返事がないので見上げると、ミッターマイヤーは椅子に窮屈そうに座り込んだまま眠っている。
ロイエンタールは微笑んで腕を伸ばすと、こくりと揺れる蜂蜜色の髪を指先で撫で、そっと力ない小柄な身体をベッドに引っ張り込んだ。
暫くして何の気配もない寝室をベルゲングリューンが覗いてみると、ロイエンタールがしっかりとミッターマイヤーを抱き締めるようにして二人ともよく眠っていた。
今までベルゲングリューン自身は居間にあるシングルベッド並みの大きさがあるソファで寝起きしていたが、ミッターマイヤーは小さな書斎の床に直接敷いた布団で寝ていたからきつかったのかもしない。
起こすのも可哀想なのでそのままにしておくことにした。
元気になってきたのにお預けを食らわして暴れられても困るし、と実際は何週間もお預け食いっぱなしなのを知らずに呑気なことを考えているベルゲングリューンなのだった。

だからといってこの期に及んでロイエンタールがなんと言おうと、ベルゲングリューンは大事な若様がきちんと回復するまで側を離れるつもりはなかった。
「文句言っちゃダメだよ、ロイエンタール。俺は仕事行かなきゃならないし」
それから少し寂しげに笑って「あんまり役に立たなくてごめんな」と小声で言う。
「おまえが側に居てくれるだけで十分だ」
ロイエンタールが抱き寄せてキスしようとすると、人の気配を感じたミッターマイヤーはさっと身体を起こして立ち上がった。
「じゃ、行ってくる。良い子で寝てるんだぞ、オスカーさま」
一転していたずらっ子のように微笑んでみせるのも忘れない。
寝込んでいる間に合い鍵が出来てきて、ミッターマイヤーはそれをしっかり握り締めて出かけて行く。
「そんな顔したって、私は怖くありませんよ」
不機嫌きわまりないロイエンタールの冷たい視線を感じても、ベルゲングリューンは動じない。
彼はこの一週間、生きた心地がしなかった。
そのことを思えば、元気を回復して彼を叱り飛ばすか無理難題や嫌味の山を積み上げるか顎で使うかしてくれるだけ喜ばしい。
「さあ、食事をして下さい。薬を飲まなければなりませんからね」
起き上がるロイエンタールにかいがいしくガウンを着せかけたり、枕やシーツの取り替え、洗濯も手慣れたものだ。
「そういえばベルゲングリューン。あれ、ちゃんと手配してくれてあるか?」
「ありますよ。そろそろ代理店の方から連絡が入る頃です」
「そうか。早めに返事貰ってくれ」
「ほんとに行かれるおつもりですか?」
「もちろんだ。それまでにきっちり治す!」
やれやれ、とため息を付きながら、友人の中華レストランシェフに教わった漢方薬入りの鳥粥に青ネギを散らす。
どんな動機にしろ健康を回復する努力をしてくれるのは大歓迎だった。

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申し訳ありません、長くなってしまったので分けました。
つくばのロイエンタールは、ほとんど風邪もひかない丈夫な若様なので、寝込んだなんてベルゲングリューンの記憶にもないことらしくて、彼は大パニックになっちゃったんですねー。困ったもんだわ。
ちなみに、当然の事ながらベルゲングリューンの家事の腕も一級品です(笑)

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