ただ美しく闇を纏いて 黄昏編3 

by 獅子丸



秋も終わり、色付いた木々の葉がすっかり落ちて、季節は冬へと移りゆく。酷く冷え込んだその日は朝から細かい雨が降っていた。
ミッターマイヤーは、故郷オーディンの幼年学校の招きでこの地を訪れていた。首都機能がすべてフェザーンに移されたこともあって、オーディンではあまりテロ行為は行われていない。そのせいもあって、街並みも枯れた木々も時間に取り残されたかのように、以前のまま変わっていない。
ここには家族の墓もあり、ひっそりと墓参を済ませた後、短いスピーチを終えると、ミッターマイヤーは校舎を巡って歩いた。いつものように半歩後ろにバイエルラインを従えて。
「懐かしいな。前にもここで講演させられたっけ…」
その頃は、傍らに別の背の高い男が一緒におり、二人揃って帝国軍の双璧と呼ばれていた。すべての輝きからひとり取り残され、再びここを訪れることになるとは、その時は夢にも思っていなかった。
ひとときも忘れたことはなかったのに、まるで禁忌のように封印していたその名前を数年ぶりに口にしてみる。
「校庭の向こうの…ああ、全然変わってないな…あの大きな木の根元に、ロイエンタールと二人で座って…堅苦しい話は苦手だったから、結局は握手して雑談だけでお茶を濁したりしてしまったが…」
渡り廊下で立ち止まり、指さされた大木は雨に煙る広い校庭の隅に冬枯れた姿で佇んでいる。
生徒達はさぞや喜んだことだろう。その時の様子が目に浮かぶようで、バイエルラインは微笑ましく思うと同時に、ロイエンタールの名を口にしたミッターマイヤーへ、多少訝しげな視線を向けてみる。

遠く、雨の向こうを透かして見つめていたミッターマイヤーの横顔が、突如はっとしたように変化した。吐き出した白い息が凍り付いたように止まる。
「なに…?」
ミッターマイヤーが小さく呟く。バイエルラインが慌てて視線を追うと、校庭の向こう、あの大木の傍を誰かが歩いているように見える。
その追った視線を戻す間もなく、ミッターマイヤーが弾丸のように雨の中を走り出していた。
「閣下っ!…ガードにコンタクトッ。校庭の男をチェックしろ!!」
小型マイクに怒鳴りながら追い掛けたバイエルラインは、大木の下で立ち止まったミッターマイヤーに追いついた。
「ミッターマイヤー閣下…、どうなさったんですか?」
上がった息を押さえながら、答えのないミッターマイヤーを覗き込む。
木の傍に見えた筈の男は、影も形もなかった。
「閣下!」
「…あ、ああ、すまん。なんでもないんだ」
繰り返される呼びかけに、返事は返ってきたが相変わらず心ここにあらずといった様子だ。
その時、俄に雨が激しく降り出したが、色を濃くした蜜色の髪から雨の滴が零れ落ち、蒼白な頬が濡れて行くのを気にも留めていない。
「閣下、お風邪をひきます。戻りましょう」
いつの間にか校庭にはたくさんの護衛官が集まってきていた。その光景にようやく我に返ったミッターマイヤーは、頭を振って苦笑する。
「すまんっ。本当に何でもないんだ。皆に謝っておいてくれ」

市内のホテルに猛スピードで戻り、バスルームへ直行させられる。
「おーい、バイエルライン。一緒に風呂入るか?卿も冷えただろ」
「何言ってるんですか。良く温まって下さいね。いつもみたいにカラスの行水じゃ駄目ですよ」
だが、その甲斐も虚しく夜になってミッターマイヤーは熱を出した。医者が呼ばれ、軽い風邪との診断が下され、騒ぎが落ち着いたのは夜中だった。
「たかが風邪じゃないか。あまり大騒ぎするなよ」
「閣下に何かあったら、この国がどうなると思ってるんですか?閣下お一人の身体ではないんですからね」
「そんなにプレッシャーかけてくれるな」
バイエルラインは、ベッドに横たわり力なく微笑むミッターマイヤーを覗き込みながら、寒くないように肩を毛布でしっかりくるむ。
そっと手を伸ばして額に触れてみると、しっとりと汗に濡れていてまだ熱があるようだった。
ここ数ヶ月でかなり痩せたせいで、もともと小さな顔が手の中に収まってしまいそうになる。
「バイエルライン」
ミッターマイヤーが小さく囁いた。はっとして掌を離すと、熱のせいで少し潤んでいる、淡く透き通るようなグレイの瞳は、何処か在らぬ方へ視線を彷徨わせている。
「卿は…何も聞こえなかったか?」
「は?」
「…いや、いい、何でもない。気にしないでくれ」
バイエルラインは、言葉の意味を図りかねて少しの間黙っていた。ミッターマイヤーが後を続ける気がないことが判ると、小さく溜め息を付いて明るかった部屋の照明を薄暗く落とした。
「閣下。このお薬を飲んでもうお休み下さい」
「ああ、済まないな。迷惑をかけてしまって。卿ももう休んでくれ」
「閣下がお休みになったら休ませて貰います」
不眠に苦しめられているのを見かねてどれだけ睡眠導入剤を勧めてもけして口にしようとしないミッターマイヤーではあったが、今日は内緒で医者に処方して貰ってあった。
大人しく白い錠剤を飲み下し、間もなく安らかな寝息を立て始めたのを見て、バイエルラインはほっとする。
滅多に見ることのないその無防備な寝顔を眺めながら、枕元に椅子を引き寄せ座る。

今日のミッターマイヤーはどこか変だった。
一体校庭にいたという人物は何者だったのだろう。ガードシステムに記録は残っていなかった。それもおかしい。確かにミッターマイヤーにも自分にも、誰かが居たように見えたのだ。滅多に表情を変えることの無くなったミッターマイヤーに、あれだけの動揺を走らせる人影とは何だったのだろうか。
しかし、たったあれだけの行動に自分たちも酷く狼狽えたものだ、とバイエルラインは苦笑いする。
幾重にも鍵を掛けておいた鳥篭から大切な鳥を逃がしてしまった時のような焦燥感。
──護ってみせる。ずっと、貴方を。
初めて会った時に誓いを立てた。どんな戦場でもその誓いを忘れたことはない。
ランテマリオの宇宙に立ち、ハイネセンの総督府で死者を送ったあの時も。
黄金の獅子が去っていった時でさえ。
「生きて下さい、ミッターマイヤー閣下。貴方には何があっても、どんなことがあっても、生きていて欲しいんです」
──これからも護り通してみせる。
その時、小さな音を立ててミッターマイヤーの手がシーツからはみ出てきた。
バイエルラインは、息を殺し、長い時間をかけてその手を己が両の掌でそっと包んだ。
熱っぽい指先が、彼の手を握り締める。誰の手を想って込められた力なのかは判らない。だが、バイエルラインは、一瞬我を忘れるほど掌の中のその手の持ち主を愛おしく思った。
気が付いた時には、桜色の爪の先に唇を寄せていた。
「ん……」
乾いた唇が微かに動いて、バイエルラインは我に返る。
震える指先でミッターマイヤーの手をシーツに戻し、音も立てずに寝室を出る。
その夜、バイエルラインはまんじりともせずにソファに座ったまま、雨が雪に変わる様を見つめ続けていた。

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