ただ美しく闇を纏いて 黄昏編4 

by 獅子丸



フェザーンに戻ると変わらぬ日常が待っていた。たくさんの書類、データ、接見、行事。
ミッターマイヤーが、ここ数ヶ月のガードシステムの監視映像記録を持ち出したことを聞きつけたバイエルラインは、夜更けに執務室を訪れた。
オーディンでひいた風邪は一晩で良くなったが、フェザーンに戻ってからも仕事の量を極力抑えるようバイエルラインを始めとするスタッフが努力したお陰で、ここのところのミッターマイヤー自身は毎晩日付が変わる前に家に帰っていた筈なのだが。
「閣下。何か気になることがおありですか?」
「うむ…ちょっとな」
数台のモニターの画面はいくつもに分割されていて、その全てに早送りの映像が映し出されている。そのどれもがミッターマイヤーの行動記録であり、彼自身とその周囲を写したものだ。
バイエルラインも驚くべき早さで切り替わる画面を目で追い、一番新しいものを見終わるとモニターのスイッチをオフにした。
「やっぱりただの勘違いだったらしい」
「どうなさったのですか?」
「ここのところ、誰かに見られているような気がして仕方がなかったんだが…記録に不審な人物は見当たらなかった」
「画面の範囲内の人物は、すべてチェック出来ますが」
直ぐにも行動を起こしそうになるバイエルラインを、ミッターマイヤーは笑って宥めた。
「何言ってるんだ、半径数十メートル以内、みんな警備ばかりじゃないか」
「当然です」
バイエルラインは胸を張る。そんないつまでもどこか青年臭い彼の態度に、ミッターマイヤーは久しぶりにちょっと悪戯っぽく微笑みながら蜂蜜色の髪に指を絡めた。
「これじゃ、ムシ一匹寄りつきゃしない」
「閣下!!」
「冗談だよ、安心しろ。本当に俺の思い過ごしだったみたいだから」
大真面目に反応を返す若者に苦笑しながらミッターマイヤーは立ち上がった。
ディスクの返却を彼に任せると、自分で作った仕事を終え、久しぶりに深夜を回った時刻に家路に就く。
灯りのない真っ暗な家に帰り、間接照明だけを頼りにシャワーを浴び、着替え、相変わらず眠れないまま強い酒の杯を重ねる。
心地良い酩酊など何時から味わっていないだろう。
「俺を呼ぶのは誰だ?いや、知っている。だが、そんな筈はない…そんな筈、ある訳がない。お前は誰だ?何故、姿を見せない?」
夜毎繰り返される疑問符に、もちろん応える声はない。ミッターマイヤーは自嘲に口許を歪めた。
「とうとう、頭にきたかもしれんな。こんな男にこの国の未来など任せておけないと思わないか?」
ミッターマイヤーは、窓から大きく覗く半月形の月に向かって呟き笑った。


白い玉石と緑の芝で地面に美しい模様が描かれた、宮殿の最奥の中庭を見下ろすことが出来るテラスから、小さな子供の声が響く。
良く晴れたその日の朝、ミッターマイヤーはいつものように恭しく額ずきながら挨拶をした。
「おはようございます、ヒルダ様、皇帝アレク。今日もご機嫌がよろしいようですね」
今だ瑞々しく美しい皇太后ヒルダと、もうすぐ4歳の誕生日を迎える幼い皇帝アレク。
幼子はミッターマイヤーの姿を見ると何時も歓声を上げながら駆けてくる。
その愛くるしい姿とそれを見つめる母の暖かい眼差し、賑やかで明るい子守の侍女達に、今はない彼の家族の姿が重なり胸の奥が痛む。
こうして挨拶に来る度、ミッターマイヤーはここにも自分の居る場所はないのだというどうしようもない寂寞感に苛まれる。
その時、帝都の朝の澄んだ大気が震えた。
大地がピリピリと鳴動を伝えてくる。
「なんだ?」
中庭を伺っていた警備が動く。大気と大地の叫びはますます大きくなり、ミッターマイヤーの耳にもそれが爆音だと言うことがはっきり判った。
「何事だ!早く調べろ」
俄に邸内が慌ただしくなる。
そこへバイエルラインを始めとする部下達も駆け込んできた。
「ミッターマイヤー閣下、市内で大規模な同時多発爆破が起こりました。治安対策本部の方へお急ぎ下さい」
だが、ミッターマイヤーはバイエルラインの言葉を聞いてなどいなかった。
小さな皇帝母子と侍女達に向かって駆け寄る少女がいたからだ。
「エミリア…」
身元の確かな選び抜かれた侍女の中でも一番年少の可愛らしい少女は、アレクのお気に入りだった。
だが、ふらふらとこちらに近付く少女の奇妙な表情が、ミッターマイヤーの視線を釘付けにする。
「あれは…あの顔は…」
何の躊躇いもなくミッターマイヤーの足は動いていた。
走る少女を抱き留め、テラスから中庭に飛び降りる。
「閣下!!」
意外なミッターマイヤーの行動に、一瞬警備達も遅れを取る。
なおも走り出そうとする彼の手の中から、するりと少女がすり抜けた。
「ミッターマイヤー…閣下」
その表情には今さっきまであった空虚さはない。瞳には正気の光が戻っている。
「エミリア!」
「ごめ…なさい…」
少女は後ずさりし身を翻して走り出すが、四方から警官達が追い掛けてくる。
「駄目だ、エミリア!駄目だ、みんな、逃げるんだ!」
──駄目だ!ミッターマイヤー!
自分の声に重なるように響く、あの声。
深い、美しい、懐かしい声。
「ごめん…もう、遅い」
次の瞬間、閃光と激しい爆発が辺りを覆った。


煙と埃が舞い上がり、猛烈な焦げ臭さとパチパチと炎の爆ぜる音、そして美しかった面影が跡形もなくなった中庭に、子供の泣き声だけが谺する。
素早く立ち上げた幾重ものガードシステムと母ヒルダの胸の中、小さな皇帝もそしてヒルダもかすり傷ひとつ負っていなかった。
爆音の激しさに一瞬麻痺した聴覚が戻ってくると同時に、バイエルラインは叩き付けられた壁際からよろよろと立ち上がった。
皇帝とヒルダの無事を確認すると、次に彼は全身の神経を研ぎ澄ませて、今ここで何があったのかを探り出そうとする。
吸い寄せられるように、えぐり取られたテラスの跡から中庭に飛び降り、人垣が出来ている場所へ歩いて行く。
純白の玉石が真っ赤に染まって辺りに飛び散っている。
その中心に、溢れて止まらぬ血の海に、横たわるのは一体誰だ?
戻ったはずの聴覚が再び遠ざかる。
ガンガンと己の鼓動だけが頭の中に響き渡る。
引き裂かれた淡い色の服を、愛して止まない蜂蜜色の髪を、深紅に染めてバイエルラインの神が横たわっていた。
ぴくりとも動かぬ小柄なその身体の傍らに、彼は力の抜けた膝を折り座り込んだ。
瞼を閉じ、煤で汚れたミッターマイヤーの横顔を、ただ惚けたようにバイエルラインは見つめ続ける。
誰もが慌ただしく動き、意味もなく声を張り上げ、そして、誰もがどうしようもない喪失感に襲われていた。
唐突に、バイエルラインは理解する。
冷水を浴びせられたように現実に立ち返った。
「閣下…ミッターマイヤー閣下っ!」
「触れてはなりません、バイエルライン閣下」
バイエルラインが触れた手の下で、服の中のミッターマイヤーの身体はぐずりと崩れ、新たな鮮血がじわりと染み出す。
救護用のカプセルはまるで棺のようだった。
後に残ったその血の量に誰もが押し黙った。

──守れなかった。
──御守りすることが出来なかった。

ミッターマイヤーの後を付いて走りながら、バイエルラインは声にならないその言葉を繰り返し繰り返し、呟き続けていた。

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