〜加害者のいない被害者〜 (2006.1.3)
2006年が始まりました。
昨年後半は、アスベストをめぐる激しい動きがありました。
年末も、クボタが因果関係を認めないまま謝罪、周辺住民の被害者に対しても、労災に準じた補償をする考えを表明したといいます。
政府は、今月下旬から始まる通常国会の冒頭に、石綿新法(一括法:「石綿に石綿による健康等よる健康等に係る被害の防止のためのに係る被害の防止のための 関係関係法律の整備に関する法律法律の整備に関する法律案」)を提出することを決めています。
一般住民の中にも多くの被害者が発生していることが明らかになったことで、政府や企業がいっきに動き始め、アスベストをめぐる状況は一変しました。
見向きもされなかったこれまでの状況と比べれば、大きな進展があったことは確かです。
しかし、中途半端な解決は、問題の本質的な解決を阻むことになり、新たな問題を作り出すことにもなります。
これまでの流れの中で、政府は自分たちの責任を認めてはいません。
縦割りの弊害はあったものの、各省庁は適切に対応してきたといっているのです。
中村敦夫(元)参議院議員の質問主意書についても、厚生労働省が発表したこれまでの検証の中では、触れられてもいませんでした。
他からの言われたのではなく、禁止する方向は自分たちの側で作り出したのだという検証になっているのです。
一方、アスベスト被害者救済基金は、産業界全体がアスベストによる恩恵を受けたという理由で、労災保険のしくみを利用して、加入しているすべての事業者から徴収する制度を作ろうとしています。
たとえば、交通事故の加害者が、自らの責任を認めようともせず、被害者が気の毒なので、みんなでお金を出し合って助けてあげましょうと、ひとごとのように言ったら、被害者はどう思うでしょうか?
今の行政がしていることはこのことです。
被害者発生が明らかになって始まった問題だから、被害者に何らかの補償を与え、被害者の声を封じることができれば、問題は解決するとでも考えているのでしょうか?
アスベスト被害者は、長期にわたる政策的な遅れの中で、何重もの苦しみを強いられてきました。そのような人たちが、責任を負うべき企業や行政が、自らの責任を認めることなしに、救済されたと感じることはないはずです。
アスベスト問題は、アスベストの危険性や、被害者の発生を知っていたアスベスト産業が、アスベストを輸入し、製造し、販売し続けてきたこと、そして、そのアスベスト業界を、行政が、制度として支援してきたという構造の中で生み出されてきました。
もし、今回の被害者救済が、アスベスト産業の責任を明確にせず、明確にしないことを行政が助ける形での救済制度になるのなら、アスベスト問題を生み出してきたのと全く同じ構造で、救済制度が作られることになってしまうのです。
そのような形での解決が認められるとは思えません。
自分たちが知らなければならないことはどこにあるのでしょう?
今年がアスベスト問題にとって新たな一歩を刻むことができるように、考えてみたいと思います。
つづく (アスベストについて考える会 大内加寿子)