抜け落ちた「監視と参加」−その5−


「監視と参加」について、もう一つ、とても大切な問題が残されている。

情報公開法制定準備室では、「我々は要綱案の趣旨を踏まえて、それを法律化するのが仕事なので、趣旨を十分生かした形で考えている」と答えてくれた。 したがって、政府案から「監視」と「参加」が抜け落ちている(しまう)という事態は、あまり考えたくはない。

とはいえ、朝日新聞では、「監視・参加」が「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資すること」とされた理由について、「(基本的な内容は要綱案を踏襲しながら)、直接民主的な響きを避けたとみられる」と解説している(2月21日朝刊)。

しかしこの理由付けでは、要綱案よりも、要綱案の審議過程で出された、「ポリシーに国民が参加していくことは非常に大切であるが、行政情報公開法というものが、今の憲法、基本的な国家の制度、法秩序を踏みにじって、直接民主主義の極端なものを認めることになってはならないのではないか」という意見のほうに、より近くなってしまうと考える。

「直接民主的な響き」・・・「監視と参加」のどこが「直接民主的」なのか、どこをどう理解すると「直接民主主義的な響き」が出てくるのかという点が、まずわからない。

百歩譲って、もしそういう響きがあるとしても、「響き」があるという理由だけで「避ける」ことができるものなのか、そして、そもそも「直接民主的な響き」のどこがいけないのだろうか、と考えてしまう。

そして何よりも、「国民の参加」を「直接民主主義を認める」という考えに結びつけること自体が、ものすごく大きな問題ではないかという気がする。

「国民の政治参加」は、「直接民主主義」とか「間接民主主義」にかかわらず、「民主主義」という制度に必要不可欠のものだという視点こそが必要だ。

それを、「直接民主主義」という、こじつけにも近いような理由をあげて封じようとする方向は、情報を公開し、みんなで共有して行こうとする考え方に真っ向から反するものであると考える。

制度だけが与えられた、「形だけの民主主義」になってしまわないために、今の日本に最も必要なこと、それこそ「参加」というものではないだろうか。 それを「直接民主主義」だの「響き」だの、どういう関連で持ち出されたのかよくわからないような理由から、「避ける」などということがあっていいはずはない、そういう強い決意こそ、今私たちに求められていることだと思う。

最後に、とどのつまり、「監視」と「参加」が、何とかしてほかの言葉に置き換えたいほど嫌われている理由、それは何だろうか?
「監視」と「参加」、これこそ行政が一番望まないものだから・・・そうではないだろうか。

「監視してほしくない」「参加して欲しくない」、だから除いたのであれば、それが情報公開の精神をないがしろにするものであることは間違いない。

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