省庁に配られた案の中にどう書かれていたのかということも、聞いても教えてはもらえなかった。
だから今、仮定の問題として、書かれているのかどうかわからないことについて問題にすることは意味がない、と考えるのはきっと賢い考え方だろう。
「監視と参加」という言葉が入っているかどうかということが、単に表現上の問題であるとしたら、そこまで話題にする価値はないかもしれない。
しかし、それはそうじゃない、これは概念の問題だ。そして、原案作成の過程で行政機関にどこまで法案作成上の裁量が与えられているのかという問題の一つの例として、もう少し考えてみたいと思う。
この違いについて、情報公開法制定準備室では、「要綱案は立法案の趣旨を述べているもので、言葉の表現の問題よりも、内容が重視されなければならないと考える。」と説明した。
では、この内容は同じなのか。
細かく見ると、「国民による行政の監視」は、「国民の的確な理解と批判の下にある」という部分に置き換えられたのかなという気はする、では「参加」はどこに消えたのか?
残りの「公正で民主的な行政の推進に資する」には、「参加」という考え方はどこからも出てこないように感じられる。
では、「参加」という言葉は、たとえ「公正で民主的な行政の推進に資する」に置き換えられても、仮に意味が少しくらい変えられたとしても、別にそれほど目くじらを立てるほどのものでない、大して重要でない言葉なのかどうか。
「参加」は、(忘れたくても忘れられない)「環境基本計画」の4つの柱の中の中心的な概念である。
(「環境基本計画」では、「参加」を、その前の「循環」「共生」という2つの目標を実現するための手段として考えている。それに「国際的取組」というもう一つの目的を付け加えている。)
「参加」という概念が環境政策の中でどれほど重要な位置にあるのかということは、これ一つを取ってみても明らかだ。それに、言葉自体にも象徴的な意味がある。
また、翻ってよくよく考えてみた場合、>「参加」ということは、「情報公開」の最も基本的な核になる部分ではないのだろうか?
「参加」ということを抜きしにして「情報公開」は語れないし、また「参加」ということのためには「情報の公開」がどうしても必要だ。
「情報公開」と「参加」は、不可分の関係になっている。
それが、要綱案の作成過程でもめた上で、どうしても大切だという意見が出されてあえて入れたのに、除かれてしまったとしたら、そして内容が大切と言いながら内容まで変えられているとしたら、やはりそれは問題にしなければならないだろう。
もちろんこういうことが日常茶飯事に行われてきていることはわかる。今さら驚くにはあたらない、それはそうだろう。
でも、ことは情報公開の問題だし「参加」の問題だ。
今まで通りのやり方で、適当に都合よく書き換えて、「監視」とか「参加」と
か、行政にとってあまり好ましくない表現は避けておこうなどという考えがもしあるとしたら、それは許されないはずだ。