抜け落ちた「監視と参加」−その13−
情報公開法−なぜ政府案なのか("Hobson's Choice")
参院選前、情報公開法(政府案)は私たちにとって"Hobson's Choice"だった。
これならあげる、嫌ならあげない・・・情報公開法は、私たちにとって「選択の余地のない選択」にすぎなかった。だから政府案に反対するということは、情報公開法を(少なくともしばらくは)諦めることを意味していた。
しかし、情勢は変わっている。
国会が閉会して政府案が継続審議になった6月半ばの時点で、世間は参院選での自民党の大敗を予測してはいなかった。
次期国会では、この法案ですら成立は難しいのではないかとか、もっと大幅な後退もあるのではと危惧する声があった。望ましくない点については制定後改正すればいい、ともかくも早期成立を求めるべきだという意見も出されていた。そのような見方をすれば、内容に多少の問題は残されていても、より早い成立が何よりも最優先と考えられていたのである。
しかし、立ち止まって考えてみた時、私たちがこのような"Hobson's Choice"に屈しなければならない訳はなぜなのだろうか。
それはとりもなおさず、このような法律しか私たちが期待できなかったことによる。
政府が与えてくれるものを我慢して受け入れるしか、私たちが情報公開法を持つ方法はないように見えていた。これならあげると言われて、私たちはそれを受け入れる自由しかなかったわけである。(修正といっても、限られた審議時間の中では大きな限界がある。)
しかし、この情報公開法は本当に私たちが望んでいる法律なのかと言えば、それはとんでもなくそうではなかった。最も決定的なのは、この法律には原則的に国民と情報を共有しようとする視点が欠けている。情報は国民みんなのものであるという感覚は、ここにはみられない。
原則公開とは言いながら、非公開についての広範囲な裁量が行政の側に認められている。意思形成過程での公開も認められていない。その判断に異を唱えようにも、提訴できる場所が限定されるから、司法の判断に委ねることも現実には難しくなっている。
料金についてもそれと同じようなことだ。基本的に徴収する。2回に分けて徴収して手続きを難しくしておけば、現実には、それほどむやみに請求してくることは防ぐことができる。(私が料金制度について言う時には、料金を払って請求する制度とそうではない制度とは、一口に情報公開と言っても、制度の性質自体が全く異なってくるということを念頭に置いている。)
そしてそれに加えて、法案の作成過程の手続きの問題がある。
情報公開法制定準備室が、行政改革委員会からの意見を受けて法案を作成していながら、目的から「監視」「参加」を削ってしまったことは、行政改革委員会設置法第3条の規定に反する違法なものである。
なぜなら、行政改革委員会が2年にも及ぶ歳月をかけ、各省庁や市民団体などをはじめ数々のヒアリングなどを行った上で、敢えて目的に加えようと決めた「監視」「参加」を目的から削るという権限が、いくら制定準備室といっても、十数人の公務員(官僚)に与えられているとはとうてい思えないからである。
「たかが目的ではないか」と言う人もいるだろう。
しかし、敢えて「目的である」と主張したい。目的を法律に書き加える必要がないという議論は受け入れる余地がある。それはそれでもっともだと思う。しかし、現実に目的は入れられているし、議論もしている。その結果認めた目的が、なぜ勝手に変更してもいいような簡単なものなのか。目的は法律の命のようなものである。
今回、「監視」と「参加」を書き換えた理由は、法律の文言として的確でないからだとされている。しかし、ここで使われている「監視」と「参加」は、私たちの普段の使い方からかけ離れたものではない。法律には入れられていないとはいえ、環境基本計画や条例などには当たり前のように使われている。それが法律になった時、どうしても使えないということはないはずだ。
法律用語は厳密に使うことが何よりも大切であると言うが、「目的」に加えられた「監視」や「参加」が、今後の解釈上でどれほどの混乱をもたらすというのか。現実には混乱はほとんど考えられない。(たとえどの様に厳密に定められた文言であっても、法解釈の過程で現実には様々な見解が生じうる。)
一方、除かれることによる弊害は決して小さなものではない。
目的部分から「監視」と「参加」を削ってしまうと、非常に重要なことだが、私たちが積極的な関わりをして行くという意味合いが目的から抜け落ちてしまう。「監視」と「参加」には、私たちが、これから監視や参加をして行くという前提があるが、政府案のように「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進」と言ってしまうと、私たちの働きかけの視点が抜けてしまい、あくまでも情報を開示する側の行政の姿勢しか眼中に置かれていないことになる。
関わり合いを持とうとして積極的に働きかけをする国民の姿は、政府案からは見えてこない。国民の側の行為は念頭に置かず、ただ、開示しようとする行政の側だけが問題にされている。主人公は、あくまで行政の側なのである。
今日、地方行政などをはじめ、「参加型の行政」を目指そうとする方向がだんだんと明確に打ち出されるようになると、「参加」は、私たちのこれからの行政への関わり方を考える上で、やはり、一つのスローガンになってきていると考えていいと思う。私たちが「参加」と言うとき、「参加」という言葉自体に特別な意味合いを込めているのである。
これから中身の伴った民主主義社会を実現して行く上で、新しい「参加」という概念が、私たちの側にぜひとも必要なのである。「知る権利」を入れる入れないの議論は別にして、正しい情報に基づいた意思形成と意思決定が民主主義の最も基本になければならないことを考えるならば、情報公開法を、来るべきより民主主義的な社会の基礎に置かなければならないことは明らかである。
そこに「参加」という概念を、どうしても入れておきたいという気持ちが私たちの側にある。(一つのよりどころとして、一つのスローガンとして、そして未来へのメッセージの意味を込めて。)だから「参加」という文言を、漠然とした「法律用語の意味が混乱するおそれ」だけで削って欲しくはない。ましてや、そんな権限が、数人の公務員に与えられているとは決して思えないのである。
情報公開法という、21世紀社会を担おうという最も重要な法律の「目的」を、しかも、形式的な側面はあるとはいえ、曲がりなりにも民主的で煩雑な手続きを経た上で得られた結論を、たった十数人の判断で覆すことを許すのか。それだけの権限を、私たちはいつ、その人達に与えたのだろうか。そんなでたらめは許されないはずだと、なぜ私たちは言えないのだろうか。
わずかに与えられた民主的な手続きを踏みにじるようにして変えられた目的、そして、省庁間の内部の折衝も十分に行って、これならいつでも大丈夫ですよと、行政の側が困らないように準備して作られた法案を、出来合いの服でも買うように、我慢しておし頂かなければならないとは、どうしても思えないのである。
政府案を蹴って、野党案で議論することを求め、それを成立させようとやってみるだけの力は、私たちには本当にないのだろうか。今の時点でもなお、政府案にNOと言うことは、法案の成立を諦めることにつながるのだろうか。
参院選が終わって、事前には予測することができなかったような、自民党の決定的なまでの敗北を目のあたりにして、私たちの政治意識も少しづつ変わろうとしているように見える。総選挙に向かう可能性も視野に入れて、野党案の成立の可能性について考えてみたい。
(1998/8)
戻る つづく
行政改革委員会設置法(平成6・11・9・法律96号)
第2条第3項「委員会は、前2項の規定により監視し、又は調査審議した結果に基づき、内閣総理大臣に意見を述べる。」
第3条「内閣総理大臣は、前条第3項の意見を受けたときは、これを尊重しなければならない。」
(時限立法で現在は無効)
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