浜岡原発の5号機増設について、通産省の安全審査の結果が出されて、意見を言うために審査書を求めてみた・・・それは私だった。あれほど県の窓口でも配布してほしいとお願いしたのに、それはできませんと断られてしまった。そしてそれを断ったのは、どう考えてみても科学技術庁の方々だった気がする。「それは不公平になるからできません」と、そう言ったのだった。
それは事実だったはずなんだ。確かにその時だけは・・・。
しかし、失われた時をどこに求めたらいいんだろう?
次の日、科学技術庁は、「県の方には5部か10部行っている。青森県などでは、六ヶ所村の問題などがあって県でも配っているので、静岡県でも言えば渡してもらえるのではないか。いずれにしても、配るかどうかは県の問題なので国は介入できない・・・」と説明したのだという。
考えてみれば、科学技術とはなんと素晴らしいものだろう。
そこでは、時間と空間が奇妙に入り乱れ、座標軸がねじれていたりして、ある時には、原発労働者の健康診断結果のデータが箱ごとなくなったりする(書類のブラックホール)、そんな、日常とはかけ離れたことがごく普通におきる世界なのかもしれない。
普通の人が普通の感覚では考えられないような世界がもしそこにあるのなら、普通の人が普通の感覚で考えた意見はどこに行ってしまうのか?意見募集自体が茶番劇なのに、それを承知の上で、意見を出すことにどれだけの価値があるというのか?
意見募集には、「募集した意見については、意見募集期間終了後、原則実名で公表します」とも書かれていた。なぜそんなことを書くのか、それがどうしたのだろうとはじめは思った。でも、浜岡に住む友人に意見募集のことを伝えて、どうするかと聞いた時、やっとその訳が分かった。
「自分は出せない。地元との板ばさみみたいになってしまうから・・・。」
私なんかよりもっとずっと原発のことも浜岡のこともよく知っている人・・・そうか、なぜそんなことに気づかなかったのだろう。実名で名前を公表すると、意見を言えなくなる人もいる。払うのは郵送費だけじゃない。もっと大きな犠牲を払わなければ言えない意見だってある。そんなことにも気づかなくなっていた。
そのあと、県の担当者に聞いた。
「本当はたくさんあって配ることもできたのに、県の判断で配らなかったのですか」と。
もちろんそうじゃない。でも、担当者はそうじゃないとは言えない。そうすると科学技術庁が嘘をついたことになってしまう。科学技術庁が嘘を言っているのか、そう責める側に回ることはできない。では事実はどうだったのだろう?
「職員の分として送っていただいたことはいただいているので、科学技術庁の方が言われることが間違っているわけではないと思いますが、それでも閲覧だけは県の便宜をお願いしたいと言って、浜岡から持ってこられたわけですから、私たちが配布できたのをやめさせたということはないです。」と、担当者は答えた。
「それでは県が悪者になってしまいますね」と・・・。
結局、力づくで真実は作られて行く、それが当たり前の世界なのか・・・。
事実上、インターネットでしか公表されなかった意見募集は、一ヶ月間という短い期間の半分を、もとになる資料の公開問題に費やしてしまうことになった。
一方、昨年3月、県の環境部は、5号機増設の環境調査に対して、中部電力に知事の意見書を出していた。
昨日、環境部の担当者に、その意見の内容を説明してもらっていて、環境部はこの通産省の審査書が出されていることを知らなかったということもわかった。
設置許可申請から10ヶ月以上もかけて、5号機の安全性について通産省の見解を示した「審査書」。しかし、誰もそんなのは重要だと思っていない。どうでもいいと思っている。ましてや意見なんて、形式的なものに決まっていると思っている。国も県も、そして私たち自身も・・・。
これを「住民参加」と呼んでみても、ブラックホールに落ちた宇宙船のようにむなしく響くだけだ。
作られる原発は東海地震の震源域のすぐ上になる。何かあれば、静岡県の片隅の問題ですむような、影響の小さな事故では決してないはずだ。
増設のための重要なプロセスを、陳腐な地方のごたごたで済ませながら、巨額な経費と歳月をかけた増設計画は順調にすすむ。科学技術に比べたら、人間同士の出来事は何とちっぽけなものだろう。
意見よりは、エープリルフールの嘘でも考えていた方が似合いそうな雨の一日。
(1998.3.20)