さあ台輔、戻りましょう      NEXT(内宰謀反編)へ
新たに慶東国冢宰の位に就いた男・・・、浩瀚は今、一人の女性から目を逸らせずにいた。










あれから半月が経とうとしている。

和州の乱の後、景王陽子は王宮に戻ったかと思えば、正寝に籠もったまま五日間姿を見せることはなかった。
そして六日目、漸く朝議の場に現れた陽子は『伏礼を廃す』との初勅を発し、同時に大々的な官吏の移動を告げた。
十二国史始まって以来のその勅言に、その場にいた台輔を初めとする誰もが喫驚し、非難の声もあがったが、そうしたところで王の言に逆らえるはずもなく、当の陽子も凛としてそれらを一蹴した。

荒唐無稽の罪で罷免されていた元麦州侯浩瀚も、今ではその才を高く評価され、慶東国冢宰となっている。
十日以上かけて官吏の整理をしている間、関係者は寝る間もない程の多忙を極めた。
そして、主立った官吏の整理が漸く一段落し、今は新たに召し上げる者達の手続きを進めている。










陽子は手元の書類に御璽を押しながら満足げに呟いた。
「よし、これで殆どの者は手続きが済んだわけだな。祥瓊と鈴は此方に戻ってくるのを待つとして、後残っているのは・・・」
残り僅か数枚となった書類を手にしようとした丁度その時、桓魋が入室してきた。

桓魋は軽く拱手すると、少々言い難そうに口元を歪めながら顔を上げる。
「主上、実は・・・の籍が何処にも見当たらず、困っているのですが・・・」
既にの手続きを進めていたはずの桓魋が、困惑の表情でそう告げた。

陽子は、おや?と首を傾げる。
「えっ?まだ終わっていなかったのか?・・・だっては慶の生まれで仙なのだろう?余所の国に籍を移していないのならあるはずじゃないのか?」
事務処理面においても手際の良い桓魋のことだ、の手続きは疾うに済んでいるものだと思っていた。
そう思いながら手元に残っている書類を捲ると、確かにの分が其処にはあった。

「いや、それが・・・。どこをどう調べても、出てこないんですよ」
桓魋はそう言いながら小さく嘆息する。
新たに軍に加わる者の手続きを地官に委ねていた桓魋だが、唯一の籍だけが見つからずに困り果てていた。

陽子は軽く肩を竦めると、隣で書類作業を補助してくれていた冢宰へと視線を向けた。
「仕方ないな。・・・浩瀚、忙しいのに悪いけど、桓魋を手伝ってやってくれ」
言われた浩瀚は即座に「御意に」と了承した。
何事においても優れ、頼りになる冢宰のことだ、すぐに見つかるだろう・・・と、陽子は楽観視していたのだが・・・。



その後、更に五日をかけて浩瀚は政務の合間にの籍を調べたが、やはり見つけることが出来ずにいた。
そして二日後、は陽子に呼ばれることになる。















今、目の前には一人の女性が居る。

紫紺の髪と瑠璃の瞳を持つその女性は、筆舌に難い程の美麗だと思ってしまうのは自分だけだろうか。
年の頃は二十を少し過ぎた頃だろうか。
質素ではあるが品の良い襦裙に身を包み、髪を項の辺りで緩く纏めてある。
元は傭兵だと聞いていたが、王の御前に上がるに失礼のないよう、その身を整えてきたのだろう。
拱手して伏せていた顔を上げると視線がぶつかった。

澄みきった美しい瞳、それなのに何処か閉鎖的な、その奥に頑なに何かを隠しているような・・・。
表情からは勿論のこと、その瞳の奥に秘めているもの、つまり心を人に読まれることを拒絶しているように思えた。
けれど其処には、図らずも余すことなく”儚美”という神秘さが常に纏わりついているようで、言葉では言い尽くせない不思議な感覚に囚われる。

僅かな警戒心を覚えながらも、その心の奥底に秘めたものを見たいという好奇心に駆られる己がいる。

大抵の者は少々きつく睨んでやると、怖じ気付いたように視線を逸らす。
それを試すかのように、僅かばかりに細めた目に力を込めてみた。
しかし、彼女はまるで挑戦状を叩きつけるかのように、決して目を逸らすことなく真っ直ぐ見つめ返してくる。
それだけでも充分に驚きに値したが、その上更に余裕とも思える笑みさえ浮かべた。
引き締まった口元を少しだけ緩め、薄く微笑む様は、落ち着いた大人の女性の色艶をも感じさせる。
事実彼女は、普通の者ならば萎縮してしまいそうなこのような場に在りながら、浮ついている様子や動揺しているような様子を欠片も見せない。

聞いたところによると、剣の腕も然ることながら、その洞察力は相当なものらしい。
『浩瀚様の謀を見抜く事の出来る者がいるなど、・・・正直驚きましたよ。浩瀚様と彼女だけは、敵にしたくないですね』
桓魋にそこまで言わしめるこの女性は一体・・・。

主上は仙になるということが如何なるものかを、まだ御存知ではないらしい。
たとえ親が朝臣だったとしても、その子供が乗じて仙になれるわけではない。
彼女が何故、仙の身であるのか。
彼女自身にも思い当たる節は無いようだし、記憶を失っているわけでもなさそうだ。
とても不可思議で、興味深い。

彼女のその存在が謎であり、今目の前にいるその実体すらも幻ではないかとさえ思ってしまう。
まるで妖にでも誑かされているような錯覚に陥る。

王に刃を向けることは無さそうだが、どこか危険を孕んだ人物であるような気がしてならない。
少しでも隙を見せれば易々と付け込まれそうだ。
迂闊に近づかない方が良いのかも知れない。
何れにせよ、暫くは油断出来ない、目を付けておくに越したことはないだろう。















はその日、景王直々の召喚により金波宮へと馳せ参じた。
何せ王宮へ上がるなど、しかも王の御前に身を運ぶなど生まれてこの方初めてだ。
緊張に身体が強張る。

桓魋に促されるまま、王宮の奥へとやってきた。
そこにはすっかり景王としての風格を備えた陽子と、拓峰の郷府で一度だけ面識のある遠甫がいた。
台輔の姿が其処に無いのは、まだ陽子の身に付いた穢れが完全に抜けていない所為だろうか。

そしてもう一人、見知らぬ人物が立っていた。

先日発令された初勅で、伏礼は廃止となったらしい。
桓魋に倣い、拱手する。
ゆっくりと顔を上げると、その人物と視線が合った。
じっと此方を窺っている。

、彼は冢宰の浩瀚だ」
の誰何するような視線に気づいたのか、陽子がそう紹介してくれた。

彼の、心をも見透かすような視線に答えてやる。
鋭い眼光に睨まれ、背筋に言い知れぬ緊張が走ったのを感じる。
一瞬怯みそうになり、視線を逸らしたいと思ったのは確かだ。
だけど自分から目を逸らしたりしない、逃げたくないと、何故かそう思った。
じっと彼の瞳を捕らえたまま、挨拶代わりににっこりと微笑んで見せると、彼は少し驚いたようだった。

冢宰・・・、浩瀚・・・。

即座に脳内の情報を引き出す。
ああ、罷免されていた元麦州侯か、と答えを弾き出した。

この男が・・・。

彼に関する情報が次々に頭に浮かぶ。
温厚篤実、能吏、怜悧、策略家・・・。
常に先を見越す能力に長け、恐ろしく計算高いその言動は大胆且つ強かで無駄がない。
そして勝機の見えぬ戦いには決して手を出さない。
腹黒い、とまでは言わないが、それと紙一重だとは思う。

まるで品定めでもしているような無感情の視線を向けられ、胸の奥がちりちりと痛む。
今までもこうやって、自分の下に置く者を選り分けてきたのだろう。
彼が隠し持っている心の刃は、下手に触れれば怪我どころでは済まなそうだ。

恐らく彼は私のことを桓魋から聞いているはずだ。
それによってどのような印象を受けたかは知る由もないことだが、今すぐにでも排除してやろうなどとは思っていないだろう、かといって信用しているわけでもなさそうだ。
少なくとも自身で為人を確かめない限り、警戒を怠らないだろうことは確かだ。
得体の知れない女だ、とそう思っているに違いない。
暫くは目を付けられそうだ。
鬱陶しいとも思うが、別段疚しいところなど何もないのだから普通にしていればいい、気にすることなど何もない。










陽子に籍のことを問われ、は困ったように苦笑し「・・・さあ・・・わかりません」と首を傾げた。
「なんだ、今まで自分の戸籍がどこにあるのか知らなかったのか?」
「きっと何処かにあるのだろうとしか・・・。傭兵など、荒れる国があるからこそ食べていけるのです。そして荒れた国に入る事は容易い事ですから、旌券や身分を証明する物など必要ありませんし・・・」

「・・・そうか。でも困ったな。これじゃ官に取り上げる事も出来ない。仙であることに間違いはないんだろう?こちらでは親族の戸籍を辿る事とかは出来ないのか?」
言いながら陽子は浩瀚に視線を投げる。
「ええ、の親族は既に皆亡くなっておられるということですから、無理でしょうね」
「そうなのか。。。でも万が一って事があるだろう?なあ、御両親の名は?」
そう問われると、は僅かにその表情を曇らせた。
そして幾ばくかの逡巡の後、静かに言葉を紡いだ。

「・・・透庵、父の名は周 透庵。母は庸春、兄は露斉です」
それは昔を懐かしむような、或いは、閉ざしてきた辛い過去の蓋を恐る恐る開くような・・・。

そんなの様子に、聞くべきではなかっただろうか、と小さな後悔の念を抱きながらも、陽子はそっとから視線を外した。
「・・・わかった。浩瀚、駄目だとは思うけど、一応調べてみてくれ」
「御意に」

・・・周 透庵。
その名を聞いた遠甫の眉がぴくりと動いたことに気付いた者は誰もいなかった。







結局、の籍は判らず終いで、正式に召し上げる事も出来ずに途方に暮れていた。

「やはり私は此処にいるべきでは・・・。これだけ振り回しておいて勝手だとは思いますが、これ以上此処に留まる事は出来ません」
王宮を去ると言い出したを、陽子は慌てて引き留める。
「なっ!何を言ってるんだ!を引っ張ってきたのは私だ。王である私が責任を持つ!だから此処にいて私に力を貸してくれ、頼む!」
「ですが・・・」
王という立場にあるにも拘わらず、両手を合わせて頭を下げる陽子に、はどうしたものかと困った笑みを浮かべる。

「なあ浩瀚、どうにかならないか?」
主に縋るような眼差しで見上げられ、有能な冢宰は顎に手を当て、考える仕草を見せる。

「そうですね。籍が不明である以上は、正式に官として召し上げる事は出来かねます」
あくまでも冢宰の立場でそう言い置き、一旦口を閉じると、思わせぶりに陽子をちらりと見遣り、再びゆっくりと口を開いた。
「ですが、主上がどうしてもと仰るのでしたら・・・まあ、女御辺りでしたら、それ程差し支えもないかと」
差し支えがないというのは語弊がある。
言葉の裏に”誤魔化しが利く”と含んでいるのは明白だ。

それを聞いて陽子は嬉々とし、桓魋は逆にがっくりと肩を落とした。
「まいったな。が禁軍に入ってくれれば慶東国禁軍は無敵になると期待していたのに・・・」
は買い被りすぎだと呆れ、「将軍、御冗談を・・・」と息を吐く。
「いや、冗談なんかじゃない。こう言ってはなんですが、は俺なんかより将軍に向いているかもしれませんよ。俺でも気づけなかったことをは気づいていましたしね」
それにもは奢った素振りも見せずに「単なる勘ですよ」と返しただけだった。
「やはり、禁軍は無理か。。。」
桓魋が再度溜息を吐く。

「女御なら大丈夫だ、と言うのでしたら私はそれで構いません。いいえ、寧ろそちらを望みます。私は軍人には不向きです。それ程までに私の腕が惜しいというのでしたら、主上の護衛として多少は役に立つのではないでしょうか。正式な護衛は皆男性でしょう?主上は女王なのですから、男性がいては障りある状況も御座いましょう。女御ということならば、何かと御世話をしながら常に御側に居る事が出来ます」

既に女御という命を受け入れ、尤もなことを諭すを、陽子は複雑な表情で見遣った。
「うん、それはそうだけど・・・でも、やはりを女御に留めるなんて勿体ないな」
そう言った陽子に、は「主上、それは」と軽く諫めの色を乗せた口調で言葉を返す。
「それは女官の方々に失礼ですよ。女官だって立派な仕事ですし、とても大変なはずですよ。それに、王の御側に侍られるとなれば尚更光栄の極み、とても誇り高き仕事ですわ。それに何より、祥瓊や鈴とも一緒にいられますしね」
そう言っては、まるで拗ねている陽子を宥めるかのように、優しく微笑む。

「いや、それは禁軍に入っても同胞は多くいるだろうから心配してないけど・・・。うん・・・、そうだな。は本当にそれで良いのか?」
「はい、私などには勿体ない程に。・・・ですが、主上こそ本当にそれで宜しいのですか?素性の知れぬ私などを側に置いて・・・。いずれ私を連れてきた事を後悔するやもしれませんよ」
皆の手を煩わせていることに後ろめたさを感じ、考え直すなら今の内だと言わんばかりに念を押す。

「何を今更、私は後悔などしないよ。拓峰で知り合って、僅か数日だったけど、は私に色々と教えてくれたじゃないか。私はあれで凄く救われたんだ。誰が何と言おうと、私はを信じてるよ。・・・そういうことで、桓魋には申し訳ないけど、折れてくれるか?」
陽子はそう言いながら桓魋に視線を向ける。

「残念ですが、仕方ありませんね。ですが、籍が明らかになった時には遠慮無く引き抜かせて頂きますよ」
桓魋は肩を落としつつも、未だ諦めきれないようだ。
「うん、それは構わないよ。・・・ということで、浩瀚。手続きは任せるから上手くやってくれ。そういうのは得意なんだろう?」
ニヤと意味深げな笑みを向けられ、浩瀚は苦笑しながら「承知致しました」と拱手した。



ほっと安堵の息を吐きながら少し身動いだ陽子の横に立ててあった水禺刀がキラリと陽光を反射して閃いた。
その光に、の心臓がまたトクンと跳ねる。
吸い寄せられるように水禺刀にじっと見入る。
魔刀の所為か、その妖力が惑わすのか。。。

数歩先にあるその剣に、手を差し出したところで届くわけもなく・・・。
それでも無意識に手が伸びて・・・。
・・・剣に、その刃に、触れたい・・・

「じゃあこれで・・・って・・・。聞いているのか、?」
その声にはっとして我に返ると、「どうしたんだ?」と陽子が訝しみながら顔を覗き込むようにして聞いてくる。
「・・・ぁ、いえ。・・・えっと・・・」
いつの間にか皆の話し声も耳に届かなくなっていた。
は気まずそうに視線を逸らし、瞬きする。
「だから、籍が明らかになるまでは、は私の側付きの女御ということに決定したということだ」
やはり聞いていなかったのか、と陽子はもう一度そう伝えた。
「あ、・・・はい。慎んでお受け致します」

遠甫はと水禺刀をちらと見てから、そっと目を伏せた。
そして再び、鞘を無くした水禺刀に目をやる。
「再び水禺刀の鞘を作るのも懐かしい」
その遠甫の言葉に目を丸くしながら、陽子は少し考える仕草を見せ、そしてゆっくりと口を開いた。
「いえ、鞘は必要ありません。これは私の心を映す。心に、鞘はいらない」

慶国秘蔵の水禺刀。
妖力甚大な魔を封じ、剣になさしめ、鞘になさしめた。うまく支配することが叶えば、剣は過去未来、千里の彼方のことでも映し、鞘は人の胸中を読む。その太刀は本来は水、主によって形を変える。水禺刀を作ったのは達王、当初は長い柄のある偃月刀だったらしい。主が替わるたびにその姿を変え、今では剣として景王陽子の手の中にある。たとえ斧であっても棍棒であっても、必ずその姿の応じて鞘がつく。鞘がなければ主に仇なす魔刀になる。

だがそれ以外にもこの水禺刀には知られていない秘密があることに、この時はまだ誰も気づいていなかった。
その真実を知る日はいつか。。。
真実を知る日は果たしてくるのだろうか。。。















回廊の片隅で、遠甫は園林の木々をじっと見つめていた。
近寄ってくる人の気配に気付きながらも、視線をそちらに向けることはしない。

「老師、何か気に掛かる事がおありですか」
すぐ横ではたと止まった足音、そして聞き慣れた声に、僅かばかり目を細める。
遠回しに問われたその言葉が、何を云わんとしているのか。

「気に掛かることか・・・。そうじゃな、無いと言えば無い。・・・が、あると言えば幾らでもあるかの。の籍の事も然り・・・」
「そうですね」
「あれは不思議な娘じゃな。尤も、己の事を何も知らぬのでは時間も掛かるじゃろうて・・・」
「はい」
そこで初めて、視線を横に立つ人物、浩瀚へと向ける。

「そういえば・・・。お主のあのような目は久方ぶりに見たな。尤もあの娘は、ただ睨まれているだけと思うておる様子じゃったが」
そう言って遠甫は可笑しそうにくつくつと笑う。
浩瀚は一瞬目を見開き、少し呆れたように苦笑する。 
「私はただ、主上の御側に侍らせるのでしたら、彼女の為人を見極める必要があろうかと考えていただけです」
そう言い切る浩瀚に、おや、と軽く眉を上げる。
「はて、儂には好奇心の方が勝っておるように見えたがな」
浩瀚は軽く蟀谷を押さえ、はぁ、と徐に溜息を吐いて見せた。
「老師、人の心を弄ぶのも程々になさいませ。余計な事まで見透かしてしまうのは悪い癖ですよ」

遠甫は髭を撫でながら「お主にそれを言われるとはな」と浩瀚を軽く睨め付けると、二人はくつくつと声を立てて笑った。