さあ台輔、戻りましょう      NEXT(8)へ
「これで桓魋の望むとおり、三日間粘ってみせるぜ」
虎嘯が破顔し、これでやっと一息つける、と思った矢先の出来事だった。



「旗・・・っ!西に・・・龍旗が!」
箭楼に立っていた誰かが叫んだ。

「龍旗だって!?」
「軍旗の色は!?」
「・・・む、紫だっ!」

達は顔を見合わせ、急いで上へと駆け上がる。

龍旗と紫の軍旗・・・それはつまり禁軍を意味する。

いつの間に動かしたのかと、は横へと視線を移し、「陽子?」と問いかけてみる。
だが当の陽子は唖然とした様子で、此方へ向かってくる大軍を見つめていた。
どうやら陽子が動かしたわけでは無さそうだ。
しかし王師は王の命でのみ動くもの、王である陽子でないのなら一体誰が・・・。



「堯天に、呀峰の味方がいたということね。それも禁軍を動かせる位置に」
祥瓊が眉を顰めてそう言うと、陽子は何か考え込むように視線を落としながら口を開いた。
「・・・夏官長大司馬。いや・・・彼はたしか、靖共の派閥だ」
「靖共?」と祥瓊が問い返す。
「元冢宰だ。宮中の権の最大派閥の長」
「それだわ!」

も「なるほど」と頷く。
「呀峰が昇紘を飼っていたように、その冢宰が呀峰を飼っているということか。もしや麦侯更迭の件も、その冢宰が・・・?」
は胸の内に燻っていた蟠りを確かめるべく、陽子に問いかけると、祥瓊もそれに大きく頷いた。
「きっとそうだわ。麦侯もその冢宰にはめられたのよ」
その言に陽子は「そういえば・・・」と、何かを思い起こすような表情をする。
「・・・確かに、麦州侯の処罰を主張してきたのは靖共の派閥だった」
鈴も「じゃあ」と口を開く。
「遠甫っていう人を誘拐したのも、松塾ってとこを焼き討ちにしたのも、その冢宰の命令かもね」



・・・やはりそうか。
大派閥の長たる冢宰からそこまで疎まれる麦州侯というのは、相当切れる人物だということなのだろう。

温厚篤実で、臣は勿論のこと、民からも大層慕われていたという麦州侯。
そんな人物が上に立てば、下の者は皆その人物を信じ敬い、付き従う。
それは陶酔や洗脳に近いと言っても過言ではないかも知れない。
そして一度陶酔すれば、更にその周囲の者達も連鎖的にそれに嵌っていく。
そうやって、神の如き存在を崇め奉る者が増えていくのだ。

彼は偽王が立った折にも、唯一偽王軍に下らなかったと聞く。
それは果たして、噂通りに玉座を狙った故のものだったのだろうか。
もし噂と真実が違っているとしたら・・・。
彼がもし本当に、民や臣下から敬われるに値する優れた人物だったとしたら・・・。

例え己の首を切ることになろうとも、道を歪めるもの、即ち己の信念に反するものには決して屈しない。
彼の取った行動は、それを如実に表したものだったのではないだろうか。
勇気があるとか変わり者だとか頑固者だとか、そんな単純な言葉で彼を表現することは到底出来ないように思える。





さて、国を乱す者に疎まれ、排除された切れ者の麦州侯は一体どうする?
麦州侯を取り上げられ、拠り所を失ってしまった信奉者はどうする?
当然黙っているわけがない。

冢宰とその一派、そして呀峰や昇紘といった冢宰の息の掛かった連中を潰しにかかるはずだ。
そこには当然私怨を伴うだろうが、それだけで動くような人物ではないはずだ。
王を思い、国を思い、民を思うからこそ彼は動く。

麦州侯は手配中の身だから態を潜め、決して表には出てこない。
そして連座する麦州侯支持者も当然人目を憚らなければならない。
柴望や桓魋達が人目を憚って、見えないところで行動してきたように・・・。
彼らの水火をも厭わぬ忠誠心は生半可なものではない。
その対象がそれ程敬うに値する人物だからだ。
桓魋に柴望が、そして柴望に指示を出しているのが、その麦州侯だとしたら全ての辻褄が合う。

これでやっと、全ての謎が紐解けた。



桓魋は、麦州の将軍か、或いはそれに準ずる地位にあったとすれば・・・ならば彼らは・・・。
「彼らは、麦州の州師・・・」
がポツリと呟くと、陽子は「えっ?」と声を上げた。

は改めて陽子に向かい、「桓魋達が元麦州州師だとしたら、どうします?」と問うてみた。
陽子は目を見開き「・・・まさか、桓魋達が?・・・それは、今回のことが元麦州侯が桓魋達に命じたということか?」と逆に問い返す。
は然りと頷く。
「恐らく、そういうことなのでしょう」

「それは・・・。もしそうなら、彼らに礼を言わなくてはいけないな」
陽子がそう言ったのを聞いて、は「そうですね」とやんわりと微笑んだ。
陽子ならそう言うと思った、思ったからこそ打ち明けたのだ。
彼らが麦州の者だと知って処罰を下すような王では、慶の先行きが案じられる。



「さて、あの禁軍をどうなさいます、主上?」
は敢えて陽子を”主上”と呼んだ。
態と陽子の王としての力量を試すように言い含む。

陽子は真っ直ぐ前を見据え、力強く言い放った。
「・・・私に無断で勝手なことはさせない」










達を逆賊と思い、王師の元へ逃げ出そうと騒ぎ出していた街人だったが、今はそれを祥瓊と鈴が上手く押さえ込んでくれている。



暫くじっと空を見つめていた陽子が呟いた。
「・・・来た」

その視線の先には、一点の白い光のようなものが見える。
それは此方に向かっているようで、徐々にその影を大きくしていた。
周囲の者達も空を指差し、ざわざわとどよめき出す。

陽光に煌めく金の鬣を靡かせ、此方に向かってくるのは紛れもなく神獣、麒麟だった。
陽子は「景麒!」と声を上げて、降り立とうとしている麒麟の元へと走り出した。

「こんなところにお呼びになるか。しかもひどい死臭がなさる」
「悪い・・・。ん?どうした?」
陽子は景麒の僅かな異変に気付き、訝しむ。
だが景麒はすぐに「いえ」と短く否定した。

その時、景麒はある違和感を感じ取っていた。
死臭と多くの冬器から発せられる呪の所為で感覚が鈍り、酷く気分が悪い。
だが・・・、ほんの一瞬だが、ある少女の身体から呪の気を感じたような気がしたのだ。
本当に一瞬のことだったので気の所為かと、すぐに無理矢理それを思考から振り払い、主の言葉を待つ。

「苦情は後でいくらでも聞く。王師の陣まで連れていってくれ」
「私に騎獣の真似ごとをせよと?」
「言わせてもらうが、禁軍を出したのは、お前の責任だぞ。少しだけ辛抱してくれ」
「・・・いたしましょう」










やがて再び隔壁へと戻ってきた陽子は「王師は明郭へ向かわせた。もう大丈夫だ」と皆に告げた。
既に陽子が王だと知っていた、祥瓊、鈴はほっと胸を撫で下ろし、桓魋達の方へ振り返る。

振り向いて最初に目に映ったのは虎嘯だった。
それも当然、虎嘯だけがそこに呆然として突っ立っていたのだから。
他の者は皆一様に叩頭していて顔も見えず、誰が誰だか分からない。
それでも、前列の虎嘯の側で叩頭している桓魋や夕暉はすぐに見つけることが出来た。
夕暉は虎嘯の衣の裾を引っ張り、「兄さん、ちゃんと叩頭して」と気まずそうに声を掛けている。

陽子は半ば呆れたように息を吐くと、やんわりと言った。
「そんなことをする必要はない。みんな、立ってくれないか」
だがやはり、それでも顔を上げる者は誰一人としていなかった。

「私が不甲斐ないばかりに、民にいらぬ心配を掛けた。済まない。虎嘯たちは昇紘の膝元で諦めず投げず道を正してくれた。本当なら私がしなきゃいけないことだった。ありがとう」
そう言って、視線をすぐ側の桓魋へと向ける。

「桓魋達にも心から感謝する。ありがとう。・・・それと、一つ聞きたいことがある。お前達は浩瀚の命で和州に集まっていたのか?」
唐突に投げかけられた核心を突いた問いに、桓魋の身体がビクリと身動ぐ。
思わず頭を上げて王を振り仰いだ。

「・・・っ!?・・・左様に、御座います。ですが、何故それを・・・?」
驚きと動揺を露わに、桓魋はやや掠れた声で答えた。
陽子は「やはりそうか」と小さく息を吐く。
「いや・・・が、そうじゃないかって教えてくれたんだ」と苦笑混じりに言う。
それを聞いて桓魋は更に喫驚した。
やられた、と心中で白旗を揚げた。
やはりは全てお見通しだったというわけだ。

「浩瀚にも礼を言いたい。伝えて貰えるだろうか。こんな愚かな王でも仕えてくれる気があるのなら、ぜひ堯天を訪ねて欲しいと」
桓魋は「確かに、承りました」と、再度深く叩頭した。


















明郭へ向かった禁軍が拓峰へと戻ってくるまでの五日間、達は拓峰の整理を手伝っていた。
誘拐されていた固継の閭胥遠甫も無事に救出され、陽子との再会を果たすことが出来た。

拓峰の整理も粗方済み、後は街の者達に任せれば大丈夫だろう。
陽子も間もなく王宮へ戻るはずだ。
ならば、自分の仕事も今回はここまでか・・・。
そう思ったは、また新たな仕事を探す為に拓峰を離れることにした。





翌日早朝、開門の時間を待ち、は寝所にしていた郷府を後にした。

街はもう動き出していたが、まだ行き交う人は疎らだ。
そこかしこに戦いの後が生々しく残っている。
多くの犠牲を出してしまったが、慶はこれから良い方向へと向かうだろう。
陽子が王なら案ずることもない、そう思うと少しだけ心が晴れた。

行く当てはないが、考えるのは街を出てからにしようと、まっすぐ門を目指して歩いていた。
やがて遠く前方から此方へ向かってくる騎獣の影を見つけ、邪魔にならぬよう道の端へと避ける。



か?」・・・と、不意に名を呼ばれた。
落としていた視線を上げると、すぐ近くまで来ていた騎獣の上に見知った顔が見て取れた。
桓魋だった。

誰にも会わずに去りたかった、と心中で苦笑しつつも、やんわりと笑んで「御世話になりました」と軽く頭を下げた。
すると桓魋はきょとんとして「何だ、俺はまだ解雇した覚えはないんだがな」とニヤリと笑う。
「・・・えっ?」

「やれやれ、危うく逃げられるところだったな。ほら、乗れよ」
そう言って徐に手を差し出してくる。
(・・・解雇してない?・・・逃げられる?)
頭の回転の速いが珍しく首を捻った。

「話しがある。それに、どうせ挨拶もせずに出てきたんだろう?黙っていなくなるのは良くないな」
そう言って半ば強引にの手を取ると、軽々と吉量の背に引っ張り上げた。

密かに抜け出してきた郷府へと後戻りだ、いや、連れ戻されているというべきか。
・・・何というか、連行されているような気分で複雑だ。

後ろから抱えるような恰好で手綱を操る桓魋の温もりを背中に感じ、柄にもなく動揺している自分がいる。
どうせなら熊の姿だったら良かったのに・・・。

その気まずさをどうにかしようと、ぎこちなく話しかけてみた。
「・・・あの、話しというのは?」
「言っただろう?まだ解雇していないと」
一頭の吉量に二人で跨っているのだから当然なのだが、すぐ耳元で聞こえた声に思わず身を固くする。
その笑いを含んだ言い方に、嫌な予感が走った。

「なあに、傭兵なんて不安定な仕事は辞めて、安定した職に就くってだけのことだ。お前のその機才で傭兵をさせておくには惜しい」

嫌な予感がまたも的中してしまった。
要するに、桓魋の配下に下れと言っているのだろう。
ということは、恐らく州軍兵士か何か。

桓魋のことは嫌いではないし、安定した生活は確かに魅力的だ。
しかし、例え桓魋が認めたとしても、州侯の許可が得られるとは限らない、寧ろ認められるわけがない。
それに周囲の兵士達も快く思わないだろう。
自分のような素性の知れない流れ者が、そう容易く就いて良い職業ではないのだ。

は徐に溜息を吐く。
「私などには畏れ多くて、お受け出来ません。降ろして下さい」
きっぱりと丁重にお断りした。
「頷けないな」
即座にあっさりすっぱりと却下されてしまった。

「決めるのは俺だ。雇い主の命には絶対服従だと、そう言っていたのは嘘だったか?」
それを言われては返す言葉もない。
そこまで断言するのならば、もう既に決定事項となってしまっているのだろうか。
は再度、力無く溜息を零した。





そうこうしている内に郷府へと到着してしまい、目敏く見つけた祥瓊達が此方へ駆け寄ってくる。
!急にいなくなっちゃうから探したのよ!」
その声を聞いて、陽子が少し後から走ってくるのが見えた。
逃げ場を失い、仕方なく吉量から降り立つと、苦笑しながら「すまない」と素直に謝った。

桓魋は陽子に向かって丁寧に拱手すると「主上。浩瀚様が、明後日拝謁仕りたい、と」と用件を告げた。
陽子はそれに「そうか、わかった」と頷くと、「それで、は?」と桓魋に問う。
「ええ、何せは私の言うことには逆らえませんからね」
そう言いながら桓魋は不敵な笑みを浮かべてみせる。
「そうか、じゃあ決まりだな」
喜色を浮かべ納得する陽子に、が慌てて待ったを掛けた。

「ちょっと待って下さい。私には何のことだか・・・。私の意志は関係ないと?」
すると陽子は目を丸くして、「何だ桓魋、きちんと話していなかったのか?」と桓魋を見上げた。
桓魋はさり気なく視線を逸らし、あははと力無く笑いながら頭を掻いて誤魔化している。

陽子は改めてに向き直り、やんわりと笑みながら告げた。
には桓魋の元で働いて貰おうと思っている」
「それは、つまり・・・」

つまり・・・何だろうか?
州師か、それとも他に・・・。
その先は言いかけた自身にもわからない。

「誰もが恐れる禁軍だぞ。大抜擢もいいところだ」
戯けて言う陽子の言葉に、は面食らい、意識が飛びそうになるのを辛うじて堪えた。
「・・・今・・・何と・・・?」

桓魋がの肩に手を置きながら、にっこりと笑んでみせる。
「だから禁軍だよ。を夏官に召し上げたいと言っているんだ」

「・・・き・・・禁、軍!?」
やっと絞り出した声は掠れていて、たった二文字のその言葉を脳が受け付けないでいる。

陽子はふっと真顔に戻ると、に縋るような視線を向けてきた。
も知っての通り、慶の朝廷は荒んでいる。私は今一人でも多くの手助けが欲しいんだ。王宮の中で信じることの出来る人が、本当に一人でも多く必要なんだ。は信頼出来る私の大切な仲間だ。だから、お願いだから私の力になって欲しい」

王は絶対だ。
その王たる陽子にそこまで言われて尚、否と言えるだけの術を持ち合わせてはいなかった。

初めて陽子にあった時から惹き付けられる何かを感じていたのは確かだ。
心の奥底に、離れたくないという気持ちがあることに気づいていたから、だからこそ黙って立ち去りたかった。

・・・断れない、王意に背くことなど出来ない。
覚悟を決めながらも、内心では戸惑いが渦巻いて止まない。
俯いたまま暫し黙していただが、やがて静かにその場に叩頭した。

「・・・主上の、御心のままに」