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桓魋の元に、止水郷拓峰に変事あり、との青鳥が届いた。



未明に止水郷長昇紘の自宅が襲撃されたらしい。
そして同夜には義倉が、三日後の早朝には拓峰東の昇紘別宅が相次いで襲撃された。
も少し前に、拓峰で冬器を集めている連中が居るという噂を耳にしていた。



そして翌日、全員広堂へと召集がかかり、中へと入るとそこには犇めく傭兵達と祥瓊、そして奥には柴望と桓魋がいた。
皆が揃ったのを確認すると桓魋は口を開いた。

「早朝、拓峰から青鳥が届いた。未明、拓峰で義倉が襲われた。例の『殊恩』の連中だ。拓峰の連中は切れる。本気で乱を起こすつもりだ」
そう言って現状を説明した後、一拍置き「だが、連中は分かっていない」と渋い顔をする。
「昇紘と呀峰の癒着は深い。昇紘は呀峰の汚い面を相当深く知っている。乱が長引いて国が出てきては困るはずだ。昇紘が捕らえられ、喚問されることがあれば一蓮托生だからな。呀峰は既に大軍を準備している。乱を平定するためには手段を選ばない肚だ。だとしたら、たかだか三千の護衛を分散させて叩かねばならない連中には、まず勝ち目はない。そこで、我らは『殊恩』の連中を支援する」
そこで一旦口を閉じ、やんわりと笑みを浮かべると「ついでに悪いが利用させてもらおう」と言って笑みを深める。
「おそらく殊恩党討伐のために、州師の大半が一両日中に拓峰に向かう。明郭はがら空きになるぞ。この機を逃す法はあるか?」



はなるほどと思いながら、それをじっと聞いていた。

桓魋の言から察するに、彼は州師の動きに相当詳しそうだ、・・・ということは、それを解する立場にいたということだろう。
しかも桓魋自身がかなり腕が立つし、軍師向きでもある。
それ程優秀な彼がどうしてこんな所にいるのかはまだ謎だが、きっと何か深い理由があるに違いない。
となると、その桓魋の上に立ち、指示と金を出す男、柴望はその立ち居振る舞いや身成から上位の地仙といったところだろうか。
そして更にその上にも、王を信ぜよと仰る御人がいる。



桓魋は兵の中から三名を指名すると「汚名を漱ぐ機会をやる。お前達はこれから直ちに配下を連れて、密かに拓峰に向かえ。必ず州師より先に拓峰に着けよ」と指示を出す。
汚名・・・か、とは密かに眉を寄せた。
悪評を払拭したい、つまり彼らは不名誉なことに濡れ衣を着せられてしまっているということだ。

その間にも桓魋は淀みなく、てきぱきと指示を出していく。
この指示の下し方は指揮官そのものだ。
普段の桓魋の振る舞い、兵達の様子を見れば一目瞭然。
ここに来るずっと以前から、桓魋と兵達の間には、確固たる上下関係が成り立っていたのだということは容易に想像出来る。
優れた状況把握、そしてそこから割り出される可能性を見極め、知識と経験からどう動けばよいのかを計算し、速やかに適切な判断を下す。
上官が優れていれば下の者は迷うことなく、正しく動くことが出来る。



今回の命運を分ける鍵は、如何に早く拓峰へ着き、『殊恩』の連中の後ろ盾を果たせるか。
其処に勝算が懸かっていると言っていいだろう。
『殊恩』がどんな連中なのか見てみたいという好奇心もある。

は一歩前に出ると「私も拓峰へ行きます」と名乗りを上げた。
すると桓魋は一瞬目を見開いた。
自分から何かを申し出る事など、普段のには無かったことだ。
いつも傍観を決め込み、命じれば黙って頷く、そんな印象が強かっただけに少々意表を突かれた。
そして少し考えた後、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう、騎獣には乗れるな?」と確認する。
はそれに「勿論」と短く返す。
桓魋のすぐ側に立って聞いていた祥瓊も、知人が拓峰にいるから、と同行を願い出た。





詳細な打ち合わせの最中、拓峰へと向ける兵の数を聞いて祥瓊は目を見開き、言葉を失っていた。
拓峰へ向かわせる兵の数は五千、そして明郭に残るのは一万。
も多少驚きはしたが、やはりと思う気持ちの方が勝った。

先程桓魋が「たかだか三千の兵」と言った。
殊恩の連中はそれを分散させても勝敗は五分、そこへ州師が駆けつければ連中は一溜まりもないだろう。
それを桓魋は恰も何でもないことのように言い、その事に対して此処の者達は殆ど驚きの声を上げなかった。

この連中が元は何処かの州師だったという予想が的中しているとすれば、この数字にも合点がいく。
州師はざっと見積もって通常二万五千、勿論全ての者が州師を辞めたわけでもないだろうし、今回の件に賛同しない者もいるだろう。
その分を引いても、民間から自分のように新たに加わる者も多くいるだろうから、それを考えるとこの数字は決して驚異的な数ではない。



元州師・・・それもこれだけの人数が・・・。

はふと、あることを思い出した。
慶に戻ってから此処へ来るまでの間に、様々な街で民の噂を聞いた。

民から慕われていた麦州侯が罷免され、それと同時に彼の元に仕えていた者達が次々にその任を解かれた。
そして自ら辞した者もいると・・・。
その肝心の麦州侯は現在行方知れずという。
これはひょっとすると・・・・・だがしかし・・・。

「王を信ぜよ」という言葉が引っ掛かる。
麦州侯は前王を見捨てたとさえ言われているのだ。
更に偽王が立った折、他州が全て偽王の元に下ったにも関わらず、麦州だけは最後まで抵抗したらしい。
そのことで、麦州侯が玉座を狙っていたのだという噂がまことしやかに囁かれている。
そんな人物が王を信ぜよなどと言うだろうか。
尤も、噂はあくまでも噂であり、その内実など到底知り得ない。





打ち合わせが終わると、その場を去ろうとしていたを桓魋が呼び止めた。
は振り向き「何か?」と尋ねると、桓魋は口端を少しだけ上げて「驚かないんだな」と面白そうに言う。
はやんわりと微笑んだ。
「こういう仕事をしていると色々あり過ぎて一々驚いていられないし、慣れてますから。それに、驚いていないのは他の皆も同じでしょう?」

そう言いながらも彼女は大凡の見当をつけているのだな、と感じた。
仲間が驚かないのは当然だが、は違う、彼女は外部の人間だ。
現にと同じように途中から雇った者達は少なからず驚いていた。
話を聞いている間のの表情は驚きに慣れたとか、内心では驚いていて顔に出ないだけとか、そういった類のものではなかった。
知っていてそれを再確認した、といった風だったのだ。
「・・・なるほどな」
頭の切れる強かな少女に、暫く会っていないあの方にどこか似ている、と密かに思う桓魋だった。



「戦に、負けたことはあるか?」
唐突に切り出された脈絡のない問いに、は失笑気味に首を傾げながらそれに答える。
「もちろん」
淡々と答える。
「なら、捕まったことも?」
「ええ。翌日には処刑、ということも」
やはり淡々と、大したことでもないかのように答える。
さすがに桓魋もそれには呆れ、目を丸くする。
「・・・それで、よく今まで生きて来れたな」
は薄く笑った。
「余程悪運が強いのでしょうね」
まるで他人事のようにさらりと言う。
「・・・ならば、大丈夫だな」



何が?とは聞かなかった。
それ程荒れる戦いだと、覚悟しろと言いたいのだろう。

死を覚悟したことは数え切れない程ある、でもそれを恐いと思ったことはない。
命運が尽きた時には受け止めるだけだ。
未練も後悔も不安もない、それを持っているから人は死を恐れる。
恐れはその大きさの分だけ隙を生み、自ら死を招き寄せる。
死が向こうからやって来るのではない、人はそれとは気づかずに自分から死に歩み寄り、そしてその生に幕を閉じる。

「死を恐れたことはありません。恐れればそれだけ死に近づく。・・・ただ・・・生きたいとは思います。国が息を吹き返すのを見たいと・・・」
空を見つめながらそう言ったは、言葉とは裏腹にどこか儚げに見えた。

「死ぬなよ」
呟くように吐き出された言葉に動揺を見せたのは、ではなく桓魋本人だった。

「・・・それが命令なら、逆らえませんね」
はその動揺を見透かしたように、悪戯っぽい笑みを浮かべながら言う。
桓魋はそれに微かな安堵感を覚え、静かに目を伏せて自嘲の笑みを零した。
「支度が済んだら今の内に休んでおけ」
ポンと軽く肩を叩くとやんわりと言いながら踵を返した。



・・・「死ぬなよ」か。
今まで何度同じことを言われただろうか。
いつだって死はすぐ隣にいる。
恐くもないし、覚悟も出来ている。
とても身近なのに、とても遠くて重い存在。
死ぬな・・・その言葉の意味はわかっているつもりだ。
だから武器を取り戦う者は皆、その言葉を口にすることを憚る。
真実相手を失いたくないと心が叫んだ時を除いて・・・。



「死ぬな」
それは今まで殆ど口にしたことがない言葉。
心で思っていても口に出すべきではないと、避けてきた言葉だ。
仲間にも部下にも言うことは無かった。
一見相手を思いやっているようにも取れる言葉だが、真実は違う。
それは死んで欲しくないという気持ちの押しつけでしかなく、結果として相手を縛ることになる。
そしてそこに「死にたくない」という恐れを生じさせる。

の言うとおり、恐れは死を呼び寄せる。
・・・だから、避けてきた。
なのに俺は・・・分かっていながら何故、声にしてしまったのか・・・。

を雇ってしまったことを後悔しているのだろうか。
悪運が強いと言った彼女の運命を、もしかしたら自分が変えてしまうのではないかと。
たかが一人の兵に、今までこんな不安を抱いたことはなかった。
いや、寧ろ変えられているのは自分の方だろう。

この戦で常に平静を保っていられるか・・・、はっきり言ってしまえば、そんな自信はない。
いつも気づけばの姿を追っている自分がいる。
彼女が傷つくのが恐い、彼女が人を斬るのを見たくない。
そんな我が儘勝手な気持ちがやりきれない。

「・・・いかんな、これじゃ」
蟠りを溜息と共に吐き出し、両手で頬をぴしゃりと叩く。
「よし、行くか!」
桓魋は下腹にぐっと力を込め、気合いを入れると、厩舎へ向かって力強く一歩を踏み出した。