さあ台輔、戻りましょう      「青藍」へ
正殿を出るとほぼ同時に、前方にある二つの人影が視界に止まった。
こちらの気配を感じ取った彼女達は振り返り、縋るような眼差しで見上げてくる。

「あの・・・冢宰。私達、本当にここに来て良かったのでしょうか」
一人がそう切り出し、もう一人もそれに頷きながら口を開く。
「私達がいなかったら、こんなことにはならなかったのではないかと・・・」

彼女達、祥瓊と鈴が何を言わんとしているのかは容易く推測できる。
恐らくは自分達が主上に招き入れられたことを後ろめたく思っているのだろう。
此度の事件の引き金の一因ともなった”土匪”という言葉を考えれば、当然といえば当然の思いなのかも知れない。

「それは主上がそう望み、御決めになったことだ。私とて主上のお考えが間違っていたなどとは思ってはおらぬ」
やんわりとした口調で言うと、彼女達の強ばっていた表情が幾分和らいだようだった。
宥めるのが面倒だったわけではないが、それだけ言ってその場を去ることにした。
聡明な彼女達ならすぐに鬱屈を振り払うことが出来るだろう。

そういえばも”土匪”という言葉には表情を硬くしていたな、と思う。
彼女も祥瓊や鈴と同じ思いを抱いたに違いない。
だが彼女は、だからといって「自分さえ居なければ」などと浅薄な考えをするような性質ではない。
主上を一番近くで御守りする者として全てを心得ていて貰いたいというのもあるが、彼女自身が道を会得していると思えるからこそ、敢えて退出を促さなかったのだ。





足早に回廊まで出て、周囲に人が居ないことを確認すると、歩を緩めつつ密かに息を吐き出す。
だがその直後、再び背後に人の気配を感じ取った。
目的が自分であることは容易に想像できる。
つと足を止めると、案の定背後の人物も歩を止めた。

「冢宰」

背後から掛けられた静かな声に、浩瀚は僅かに首を動かしただけで肩越しに声の主を見遣る。
つい今し方考え馳せていた当の人物だけに、内心では僅かながらに動揺が走る・・・が、勿論そんなことを相手に悟られるような失態はしない。

「無礼を承知の上で、一つだけ御伺いしたき事が御座います」
そう前置き、一拍の間の後続けられた言葉は・・・・。

「・・・此度の事、思惑通りで御座いましたか?」

唐突に投げかけられた問いに眉がぴくりと動く。
先ほどとはまた別の動揺に意図せず力が入り、手にしていた書類が微かに軋む。
何を言っているのだ、と思ったのは一瞬だけ、すぐに平静を取り戻し、その言葉の意味を嚥下した。

なるほど・・・”思惑”・・・ときたか。
まるでこの私が首謀者だとでも言いたげだな。

策や謀などといった露骨な言い回しをしないところが如何にも彼女らしい。
しかし反面、それが分かってしまうだけに、間接的に傷を抉られたような複雑な気分になる。
尤も、彼女としてはそれが狙いなのかもしれないが・・・。

やはりこの娘は手強い、と改めて思い知らされる。
一体何処から何処までを想定しての言葉だろうか。
それは人により見解が異なるだろうが、彼女の聡明さは身を以て心得ている。

やはり、退出させるべきだったか・・・。
この私を試そうなどとは・・・。

声と容姿から相手が誰なのかは一目瞭然、だが拱手し頭を深く下げた女官の表情までは読みとれない。
いつもの彼女と変わらず落ち着いた声。
しかし何処かいつもよりも冷たさを感じるのは、決して気の所為だけではないだろう。
それは紛れもなく自分に向けられたものだ。

知っていながら未然に防げなかった事への落胆か、それとも怒りか。
彼女が何故その事に気付いたのかはわからない、否、或いは・・・。
不穏な動きに気付いていたのは自分だけではなく、彼女もなのか。
だとしたら、彼女もこのような事態になってしまった事を悔いているだろう。

「・・・・・。全てを見通す事が出来る者など居らぬよ」

静かに発せられたそれは、肯定とも否定ともとれるもの。

それは己への慰めか、それとも彼女を慰める為の言葉か。
己に対する詭弁か、それとも彼女への弁解か・・・。
どうとも取れるし、全てなのかも知れない。

その場に重い沈黙が漂い、ゆらりと薙いだ風までもが重く感じられる。
それはまるで今の二人の心の内を表しているようで・・・。








は小さく息を呑んだ。

それが分かっているなら二度とこんな危険な綱渡りはしないで欲しいものだ、と内心で嘆息する。
だが確かに、この世に完璧な人間など存在しない以上、どこかで駆け引きをしなくては先へ進まないことだってある。
ああ、そういえば・・・。
『人生、常に博打の繰り返しだよ』
昔、年老いた傭兵が意味深に笑いながらそんな事を言ってたっけ・・・。
自分だって今までそうやって生きてきたのだ。

自分の物言いは、本来ならば不敬だと腹を立てられて然るべきもの。
事件当時に主上の側を離れていたこともあるし、当然懲罰の覚悟をしていた。
しかし冢宰は一切それらを怒りもせず、咎めもしない。
肯定も否定もしなかったが、冢宰の発した一言は疑念を確信に変えるには充分すぎるものだった。
あぁ、なるほど・・・これが冢宰なのだな、と改めて感服せずにはいられない。



「・・・そうですね。御無礼を・・・、御引き留め致しまして申し訳御座いませんでした」

そう言った彼女の声は心無しか沈んでいた。
それを感じ取りながらも、何故か無性に彼女の瞳が見たいと思った。

「面を上げよ」
感情を押し殺して静かに告げる。
言われるまま、ゆるゆると頭を上げた彼女の、その整った顔を見つめた。
一度ゆっくりと閉ざされた瞼が再び、やはりゆっくりと持ち上げられ、彼女の瞳が自分を捉えた。

さわ、と軽く背筋に痺れが走る。
それは極小さな、畏怖にも似た感覚。
自分の方が遙かに立場は上だ、それなのに・・・、追い詰められるような焦燥感に駆られてしまうのは何故だろうか。
そして、そのことに喜びさえも感じてしまう自分は、どこかおかしいのだろうか。

平静を装ってはいるが、その長い睫毛の奥にある、澄んだ美しい瑠璃色の瞳は微かに揺れていた。
ああ、やはり自分が側に付いていなかった事を悔やみ、傷ついているのだ、と感じる。
それと同時にこの私に対する責めの色も窺える。
全く以て女官にしておくには惜しい人材だ。
だが、主上の側に彼女が居れば安心だとも思う。

今までこれ程手応えのある者に巡り会ったことはなかった。
彼女の存在は常に興味深く、目が離せない、・・・そして時には恐ろしいとさえ思ってしまう。

和州の乱の折には剛胆な言動で桓魋達を翻弄したらしい少女。
桓魋達が麦州の者である事を、この私の命で動いているであろう事を見抜いていたと聞いている。
一旦敵に回せば脅威ともなろうが、味方に付ければ心強い存在だ。

「・・・其方がいなくて、良かった」
浩瀚は呟くようにぽつりと漏らし、背を向けると再び歩を進めた。

彼女が武人としても優れている事は桓魋から聞いて知っている。
状況把握に優れ機転に富む、是非禁軍に欲しいと、しきりに褒めていた。
それを断り、女王には護衛以外に、常に側に付き従うことの出来る女性の護衛も必要だと押し切って、女官職を願い出たのは他ならぬ彼女自身だ。

しかし帯剣を許されない場所で、しかも女官という立場の今の彼女に何が出来ただろうか。
もし側に居たなら間違いなく彼女は主を庇い、或いは命を落としていたかもしれない。
不謹慎極まりないが、彼女が側にいなくて良かったと心底安堵してしまう。

何時からだろう、彼女の瑠璃色の瞳に己が映ることを望むようになったのは・・・。
絹のように艶やかな紫紺の髪に触れたいと思うようになったのは・・・。

己の胸中に渦巻くこの感情に気づいてしまったのは、何時のことだったか。
二年前、初めて彼女と会った時。
それまで感じたこともない言い知れぬ衝撃を受け、戸惑いを感じたことを、今でもはっきりと覚えている。

(・・・なんとも無様だな)

熱く滾る思いを御せず、蝕まれる理性に葛藤し、行き場のない焦心を持て余す己を嘲笑する。

透き通るような白い肌に傷を付けたい。
常に清楚なあの表情が歪む様を見たい。
そんな屈折した感情が胸の奥に黒く渦を巻いている。
如何にして彼女を手中に入れるか、そんなことまでをも謀ろうと考えてしまう自分に心底辟易する。










私が側にいなくて、良かった・・・?
その言葉の真意が掴めなかった。

足止めしたこと、不躾な物言いをしたことを詫び、そのまますぐ立ち去ろうと思った。
しかし冢宰に命じられれば従う他はない。
何を言われるのかと戸惑いつつも、仕方なく命じられるまま顔をおずおずと上げた。

目上の者に対する礼儀として視線を合わせることは憚られる。
だから目を合わせるつもりなど無かった。
なのに不覚にも一瞬冢宰の瞳を見てしまい、慌てて視線を逸らした。
礼儀のことは言うまでもなく、冢宰の自分を捉えたその眼差しに恐怖を感じた所為もある。
見てはいけないものを見てしまった、と本能が危機感を覚えた。

目が合った瞬間、金縛りにでも遭ったかのように息が詰まった。
それでも咄嗟に目を逸らすことが出来たのは、今まで培ってきた精神力の賜だろうか。
あのまま目を逸らせずにいたら、恐らく自分を見失っていたに違いない。
何故そう思うのか、何を恐れたのか、それは自身にも分からない。
ただ漠然とそう感じた。

その戸惑いと相まって、自分の憶測とは余りにもかけ離れた言葉を投げられ、思わず自失した。
一瞬何を言われたか解せず、聞き間違えかとも思い、問い返そうか考え倦ねている内に、気づけば冢宰の姿は既に消えていた。

自分が側にいれば・・・武器を所持していなくても、誰かを呼ぶなり何かしら出来たかもしれない。
少なくとも主上の盾となる事くらいは出来る。
なのに、何故そんな事を言うのだろう。
何故あんな目で見るのだろう。

あの不可解な感覚を差し引いても、数瞬だけ垣間見た冢宰の瞳は常になく翳っていた。
恐らく彼も、全てを読み切る事の出来なかった己を責めているのだろう。
そして僅かな安堵感と共に思った。
他者から非の打ち所のない逸物と崇められている冢宰もまた、一人の人間に過ぎないのだ、と・・・。















その夜遅く、冢宰府にはまだ灯りが灯っていた。

「やはり、まだいらっしゃいましたか」
そう言いながら入ってきたのは桓魋だ。

浩瀚は僅かに眉を上げた。
そして何用か聞こうと口を開きかけたところで、桓魋が「報告書です」と目の前に書類を差し出す。
それを怪訝な表情で受け取りながら、桓魋をちらりと見遣った。
こんな夜更けにわざわざ来なくとも、明日でもよいだろうに・・・。
そうは思っても、桓魋が来た本当の理由が他にあることくらいは分かっていた。

そのまま暫し、沈黙が流れる。
それでも二人の間に気まずい空気は微塵もない。
桓魋は、恰も呼ばれてきたかのように榻に腰を下ろし、くつろぎ始めた。
実はこれは麦州にいた頃にも時折あった光景なのだ。

桓魋の存在が間近にあるというだけで、徐々に心穏やかになってゆく己を感じる。
そんな己を情けないと自嘲し、そっと嘆息した。
「・・・私は大丈夫だ。下がって良いぞ」
書面から顔を上げずに、静かに言う。

何をするでもなく、穏やかな表情で浩瀚の手元を見つめていた桓魋は、その言葉に目を伏せ、ふわりと笑みを浮かべた。
「あぁ、やはり。また御自分を責めていらっしゃったんですね」
今初めて確信を得たと言わんばかりの桓魋の口振りに、浩瀚は思わず顔を上げた。
それは揶揄でも嫌味でもなく、本心のようだった。

「そのつもりで来たのではないのか?」
軽く睨め付けながら問うと、桓魋は頬を掻いて苦笑した。
「ええ、確かに・・・言われてみて、そうかもしれないとは思いましたけどね」
妙に引っ掛かる物言いをする。
誰に何を言われたというのか。
桓魋を睨んだまま、その真意を探る。

「・・・、か」
そう呟くと、桓魋は然りと微苦笑した。
「まったく、彼女の洞察力は侮れませんね」
肩を竦めながらそう言った桓魋に、浩瀚は返す言葉もなく、額に手を当て、深く溜息を零した。

確かにあの時、自分の心の内を僅かでも見せてしまったのは迂闊だった。
だが、それを読みとれるかどうかはまた別問題だ。
彼女はそれを容易くやってのけた。
そして更に、その事を他の誰でもなく、桓魋にそれとなく告げる。
それはつまり、桓魋が自分の心の支えとなっていることを見抜いていることになる。
王宮に上がってからまだそれ程の年月を経ていないにも関わらず、だ。
無論、桓魋自身がそれを教えたとは思えないし、誰かから聞いたわけでもないだろう。

とんでもない弱みを握られてしまったようで、無性に可笑しくなる。
女官にあやされている冢宰という構図は何とも滑稽で情けない。
しかし何故だろうか、不思議と腹は立たない。
ただ、心の内を見透かされているようで、少々気詰まりを感じる。
しかしその事を好ましく思う己が存在することもまた事実で・・・。
この先、今まで以上にのことを意識してしまうだろう。
大した小さな器だな、と心中で自身を嘲笑う。

嘗て自分の右腕的存在だった柴望はもう居ない。
桓魋は居るが、彼はあくまでも王のものであり、最早自分の意のままに動かせる存在ではない。
だから代替する者を無意識に探しているのだと・・・、初めの内はそう思っていた。
だが何時からか、それが間違っていたことを思い知らされる。
いや、間違ってはいなかったのかもしれない。
しかし、それとはまた別に、彼女に対して明らかに恋愛感情を抱いてしまっている事は偽らざる事実なのだ。

再度押し殺した息を吐きながら、そこでふと疑問が浮かんだ。
とて此度の事で心を痛めていることには変わりない。
彼女はどうしているだろうか。
尤も彼女なら「こんな時には一人になりたいんです」などと言いそうだが・・・。





桓魋は些か疲れている様子の浩瀚を見ながら思った。
二人は似ている、と・・・。
恐らく本人達は互いに似ているなどという自覚はないだろう。

似ているから分かるのか、・・・それとも、似ているから分からないのか。。。