さあ台輔、戻りましょう      NEXT(4)へ
バサッという耳障りな音に、は思わず顔を上げた。



「では、説明申し上げます」
そう告げた冢宰の口調はあくまでも常と変わりなく”さらり”と・・・。
そしてその表情もまた常と変わりなく楚々としていて・・・。

だが先程の音は?と思い、書卓へ視線を遣ると、そこには明らかに放り出されたと思しき書類が見て取れた。
書類を放り投げるなど普段の冢宰からは想像も付かないことで、如何に冢宰が複雑多々な思いと葛藤しているかが窺われる。

恐らく書類を投げ出すという動作の一瞬で、許容範囲という名の器から溢れ出すはずだった分の憤りを外に捨て、気を静めたのだろう。
そういう風に自身の感情を巧みに操る様は流石冢宰とも言うべき。
だが・・・、そのほんの一瞬に、”取り乱した冢宰”(そうは言っても極僅かな変化だろうが)という、後にも先にも一度見る事が出来るかどうかもわからない至極貴重なものが拝めたかも知れないのだ。
あぁ、見てみたかった・・・と、状況も弁えず不謹慎な事を思い、その瞬間を見逃したことを心底惜しんでしまう。

冢宰はその瞳で主をまっすぐ捉え、薄く開いた口から小さく息を吐き出した。
始まる・・・との直感がそれを悟った。
こうなるともう冢宰の独壇場だ。

他の者は既に退出している。
冢宰はに退出を命じることもなく、まるでその存在を無いものと決め込んでいるかのように気にも止めない。
それとも口には出さないが、自分が側に付いていなかったことを咎める意味で、共に話を聞けということなのだろうか。
このまま居ていいものだろうか、と一瞬躊躇するが、何も言われないのを良いことに片付けに乗じて耳を傾けることにした。





「半獣ごとき、土匪ごとき、と?・・・そのようなことを考える者は必ず権威を振り翳す。・・・・・」

・・・土匪、ごとき?

血で汚れた衣を片づけようとしていたの手が止まった。
それは和州の乱にいた者達のことを言っているのか?
ならば自分も土匪・・・か。
確かに事情も知らずに傭兵として加担した自分はそう言われても仕方がないのかもしれない。
だが桓魋や虎嘯達は違う。
決して悪意を以てしたわけではない、民を、国を思うからこそ命を賭して立ち上がったのに・・・。
それを土匪と言い切ってしまうならば極論、冢宰や主上だってそうなってしまうではないか。

「・・・・・。そもそも私共が内宰らを路寝から閉め出したのは、このような事態があることを懼れてのことです。お側に上げ、重用できるほど彼らに信用がおけなかった、ということです」

冢宰は淡々と事の詳細や主上の納得のいく説明を連ね、その間ずっと厳かな眼差しで主上を見据えている。

報せを受け、緊急の有司議が執り行われ、此処へ駆けつけた、・・・その割には全てを把握しきっている物言いだと心底感服した。
これだけの短時間の間にそこまで完璧といえるほどに事の詳細が明らかになるものだろうか。
さすがは敏腕冢宰と言われるだけの事はある。
だが・・・敏腕冢宰だから?・・・本当にその一言で片付けてしまって良いのだろうか・・・。

首謀者である内宰は絶命、そして他の者も息絶え、或いは重症を負っている。
まともに口がきけるのは逃げ出したところを捕らえられた五名だ。
彼らから聴取したとしてもここまで委細詳細を掴むことが出来るだろうか。
李斎と泰台輔から事情を聞いたとしても、それは現場で起きたことしかわからないのだ。

不意に、冢宰は本当に何も御存知ではなかったのだろうか、という疑問が湧き上がる。
もしや冢宰も予見していたのではないだろうか。

未然に防ぐ事は出来なかったが、一女官に過ぎない自分でさえ疑念を抱いたのだ。
『内宰らを路寝から閉め出したのは、このような事態があることを懼れてのことです。お側に上げ、重用できるほど彼らに信用がおけなかった』
それは先程冢宰自身が放った言葉。
そもそも冢宰は内宰らを危険人物と見なし、不測の事態が起こりうるということを予め感じていたのだ。
ならば今回の事も・・・。

でも、それなら何故?
どうして普段から危機感のない王に、もっと厳重に使令や護衛を離さぬよう言わなかったのか。
言っても聞かないのはわかっているが、こうなることを予測できていたなら、命に関わる事態になるかもしれないと思ったなら、そのことを告げれば勝手気ままな王でも賓満くらいはつけるだろう。
或いは王が聞き入れなければ護衛の者達に片時も側を離れぬよう命じることだって出来る。
何故そこまでしなかった?

確信のないことは口には出さない、それが冢宰。
それは分かる、分かるが・・・王の身に危険が迫るとなれば話は別、如何なる手段を講じてでもそれを阻止するのが筋というものだろう。
なのに・・・どうして・・・。

考えれば考えるほど纏まりがつかなくなってくる。
出口のない迷路に嵌ってしまったようで、思考を切り替えようと窓の外に目を向けた。
視界に飛び込んでくる青と緑が幾らか気持ちを落ち着かせてくれた。
そこでふと思う。
出来たのにしなかったとしたら・・・もし本当にそうならば、その意図するものは・・・まさか!?
それが冢宰の狙いだったのか・・・だとしたら何と恐ろしく危険すぎる賭を・・・。

常に周囲の動向を敏感に察知する切れ者冢宰が気付いていなかったはずがない、それが不穏なものならば尚更だ。
それに内宰の為人からして、放っておけば彼らがどのような手段に出るかなど、冢宰なら見越せるはず。
自ら情報を集めなければならない自分と違い、冢宰なら幾らでも人を使って調べさせることだって出来るのだ。

まさか・・・敢えて彼らが動き出すのを待っていた?
それも、主上を危険に晒すかも知れないと分かっていながら・・・、否それとも、普段からあまりにも無防備な主上に身を以て気づかせるために態と・・・?

不審を感じ取り、相手の見当が付いているならば、冢宰にとってそれ程厄介なものではないはずだ。
相手の弱みに付け込み、罠を張り、それと気づかせずに誘い込む、そのためには時として味方をも騙す。
そういう謀に関しては冢宰の右に出る者はいない。
だが内宰もまたなかなか強かな男だ、そう易々と冢宰の罠に掛かるとも思えない。
冢宰の張る罠をあの手この手ですり抜けてきたに違いない。
そうして繰り返していれば流石の冢宰も焦りを感じるだろう、そしてそれは内宰にしても然り。
分かっていながら確たる証左を見出せず、敵は敵で何時捕らえられるのかと生きた心地もしないから事を急こうと焦る。

戴の将軍と台輔がいる掌客殿にまで押し入るとは想像もしなかったと言う事なのか。
いや、可能性としては考えていたに違いない。
ただ今回は幾つかの不運が偶然にも重なってしまったのだ。
一つは主上が帯刀していなかったこと、一つは賓満を身につけず使令を側に付けていなかったこと、そして今一つは主上自らが人払いをして護衛の者が誰一人として側にいなかったこと。
本来ならば人払いをしても客堂の外に待機していて然るべきだったが、それすら無かったのだ。

これほど不幸な偶然が重なるとは、冢宰も予測出来なかっただろう。
内宰は図らずも運を味方に付けることができたのだ。

の内で様々な憶測が飛び交う。
そう、あくまで憶測の範疇を逸しない。
真実はその身を潜めたまま明るみに出ては来ない。
死亡した内宰、そして冢宰自身から直接事細かに聞き出さない限り、それは永遠に封印される。
そうかといって真実を知ろうとも思わない。
経過がどうあろうと、目に見えたものが、現れ出た結果が全てを左右する。

結果としては、延台輔が客堂に残した使令が動くことにより、内宰の企ては失敗に終わることとなった。
命運がどちらに傾くかは正しく紙一重だったのだ。
改めてそう思うと、背筋をゾクッと悪寒が走る。
今回のことには流石の冢宰も肝を冷やしたに違いない。

(・・・とにかく、主上が無事で、本当に良かった)