さあ台輔、戻りましょう      NEXT(3)へ

さり気なく見渡した官府内には、この時間に本来在るべき人物の姿が無かった。
それも一人ではなく数名が揃って見当たらない。
それは別段おかしな事では無いはずだった。
職務上の都合で揃って席を外す事もあるだろう。
そう思いながら念のためにと、更に奥に繋がる空間へと歩を進めた。
手前の堂室よりも上位の官達がいるその場所にちらりと視線を巡らせる。
やはり其処に居るべき人物を数名確認する事は出来なかった。

・・・おかしい。

姿の見えない人物は何れも、紗春が言っていた会合に出席していた者ばかりだ。
内宰は?と思うが、流石に内宰の執務室に用もなく立ち入る事は出来ず、確認する術はない。

単なる偶然だろうか・・・それとも・・・やはり紗春の言うとおり、何かあるのだろうか。

脳裏を嫌な感覚が過ぎる。
会合はいつも深夜だと言っていた。
今はまだ昼前だ、しかも朝議を終えたばかりのこの時刻、官僚達が府第に戻って暫くは、殆どの官吏が其処に揃っていて然るべき時間帯。
嫌な予感だけで済めばいいのだけれど・・・念のため主上に天官府の監視を申し出てみようか。
そう思い、仕事に戻るべく内殿へと踵を返した。










悶々としつつ、重い足取りで回廊を進む。

雲海の上は今日も穏やかな日差しに包まれている。
それは当たり前のことなのだが、その心地よいはずの日差しも今日に限っては煩わしくさえ感じる。
体が重い気がするのは、このところの疲れがたまっている所為だろうか。
「ゆっくり、眠りたい」
疲れた息を漏らしながら、府第から外殿に入ったところではふと歩を止めた。
(・・・なんだろう?)

声が聞こえたような気がした。
いや、聞こえたというよりも頭の奥の方に感じたというような・・・。
ほんの些細な、その漠然とした感覚に蟠りを覚える。
(・・・気のせい・・・かな。でもなんか、嫌な感じ・・・。やはり相当疲れが溜まっているのかな・・・)
そう思いながら再び一歩踏み出そうとした時だった。

『・・・うを、王を・・・』

軽い頭痛と共に再度聞こえた声。
(・・・王?・・・なに?)
確かに”王を”と聞こえた。
そして次の瞬間、ざわりと背筋を嫌な悪寒が走る。
それは良からぬ事が起きる前兆。
(・・・主上の身に、何か・・・)
本能が知らせたのは西の方角。
(三公府・・・違う、掌客殿か)

何故そう思い、行動しているのか、・・・それは自身にも分からない。
ただ今までの経験から、自分のこの感覚がかなり高い確率で当たるのだということを知っている。
仙だからか、それともただ単に勘が鋭いだけなのだろうか。





足早に掌客殿へと向かう。

近づくにつれ不快感が膨らみ、不安と焦りに指先が冷たくなるのを感じていた。
視界に西園を捉えると、再度全身をぞくりと悪寒が襲う。
「まさか・・・!?」

現在西園には蓬莱から戻ったばかりの泰台輔と重傷を負った将軍李斎が療養している。
そして陽子は時間を見つけては二人を見舞っているのだ。

紗春の言っていた事が、先程の天官府の事が頭を過ぎる。
まさか天官の面々が・・・、そう思いながらもその先を考えるのが酷く恐ろしい。










「・・・っ!?」
鼻を突く異臭に思わず顔を顰める。
殆ど風のないこの場では微かにしか感じ取る事は出来ない。
緑に囲まれ、静かに時を刻むその場所には到底似つかわしくもないそれは、普通ならば気づかないような、気づいたとしても本当に”何らかの異臭”程度で片づけられてしまいそうな程のものだった。
だが戦場を駆け巡ってきたには何であるのかすぐにわかった。
そう、それは紛れもなく血の臭い。

全身の血が一気に下がるのを感じながら、は王宮内という憚りも構わず駆けだした。





「・・・主上っ!」
視界に飛び込んできたのは一面の血の海だった。
流石に沈着冷静なもこれ以上ないという程瞠目し、取り乱す。
陽子は血に染まりながら動く事もなく、ただ呆然と佇んでいた。

(・・・生きている)
混乱に機能を停止していた思考が漸く動き出し、まず最初に処理した情報がそれだった。
目の前に佇む主上は確かに生きている、無事だったのだ。
その情報を二、三度脳内で繰り返し反芻すると、漸く脳が活発に動き出し、目前のあらゆる状況処理にとりかかる。

そしてそこで初めて背後にいる台輔の存在に気付いた。
使令が知らせたのか、王気の乱れを感じ取ったのか、護衛もつけずに駆けつけたらしい。
入り口から少し離れた場所で口元を押さえ、蒼白になって立っている。
堂室に入るまでもなく、それ以上近寄れないのだろう、壁に手をつき辛うじて身体を支えている状態で、今にも倒れてしまいそうだ。

「台輔、お退がりください」
そう声を掛けると、未だ自失している主の元へと歩み寄る。

「主上、お怪我は」
自失していた陽子は不意に声を掛けられ、ビクッと肩を竦ませると焦点の合わない視線でぎこちなくを振り返った。
「・・・あ、ああ、・・・大丈夫、だと思う」
その声を聞きながらも、は手早く陽子の身体を触診していく。
どうやら衣に付着した血は本人のものではなく、何処にも怪我を負っている様子もない。
そこで初めてほっと安堵の息を吐き、「御無事で、安堵致しました」と肩の力を抜いた。



改めて室内に目を向け、その場の惨憺たる光景に息を飲む。
苦い物が込み上げてきて思わず顔を顰めた。
それだけで済んだのはが只の女官ではなく、血生臭い事に慣れてしまっているからに他ならない。

「・・・内、宰・・・・・。これは・・・使令が?」
内宰は胴を切断され腹腸を晒し、上身と下身が皮一枚で繋がっている状態で絶命していた。
そして他にも天官や禁門で見知ったこん人が胴や首を断たれて転がっていた。
どれも紗春が言っていた、そして先程天官府内で見つける事の出来なかった者達だ。

「うん・・・いや・・・どうやら延台輔の使令が、いてくれたらしくて・・・」
その確信の籠もっていない、加えて気まずさをも含んだ口調に、は思わず目を見開いた。
「っ!?使令を付けていなかったのですか!?それに護衛も」
「ぅ。。。うん、すまない」
御身を護る為になければならないもの、それを自分に謝られても筋違いというものだ。
だが今はそんな事を一々咎めている場合でもない。
は心中で嘆息し、とりあえず未だ血の海の直中に立っている陽子を堂室の隅の方へと移動させた。



すぐに異変に気づいた守番や兵、女官達が駆けつけ、その場が騒然となった。
「泰台輔と李斎殿を最奥の客房に。瘍医と黄医を呼んで。それから台輔を仁重殿にお連れして」
は淀みなくその場にいる者へと指示を出していく。
こういう状況で女官達は当てにならない。
事実、口を押さえて後退る者や立ち竦んでいる者ばかりだ。
無理もないことなのだが、今は彼女たちに同情している余裕はなかった。

程なくして夏官長と桓魋が駆けつけると、その場を夏官に任せ、は陽子、桓魋と共に一度正寝へ戻った。










血の付いた衣を着替えさせながらそっと溜息を漏らし、は口を開いた。

「主上、貴方は国の頂点に立つ御方、王です。王の務めは政ばかりでは無いのですよ。台輔が王のためにと難しい賓満を折伏したのは何故だか御存知でしょう。将軍が此方に慣れない主上のために気の置けない虎嘯を側にと大僕に取り上げたのに、これでは意味がありません。皆の思いを踏みにじりなさいますな。常に使令や護衛を側に置き、御身を危険に晒さない事も王としての責務です。お願いですから御身を軽んじなさいますな。御身を軽んじるということは、周囲の者をも軽んじるということになるのですよ」
「そんなっ!別に軽んじているわけじゃ・・・」
即座に打ち消す陽子に一瞬だけちらりと冷ややかな視線を向け、黙らせる。

慣例や則云々という話は此処に来るまでに桓魋から聞かされた。
だからは敢えて違う方向から、警護の立場からではなく、女官として、否、友人として言葉を紡ぐ。

「主上にもしものことがあれば、仕える者は一生心に傷を抱いたまま過ごさねばならないのですよ。それがどれだけ残酷なものかお分かりですか?どうか仕える者の気持ちも汲んで下さいませ。臣を大切に思うのでしたら、そのためにまず御身を大切になさることです」
叱るでもなく、かといって決して優しくもなく、微笑んでいるように見えてもその表情からは心まで読みとらせない。
それはいつものらしい口調だった。
「・・・うん、悪かった」
「主上・・・。反省なさるのは結構ですが・・・。まあ、それが主上の良い面ではあります。ですが、あまり軽率に謝ることは控えられた方が宜しいですよ。そのようでは臣も不安に思いましょう。主上の言動は良くも悪くもそのまま下に反映されます。もう少し慎重に、そして謝らずに済むよう、日頃から心がけて頂きたいものですね」
「・・・うん」



忙しかったとはいえ、せめてもう少し早くに紗春の話を聞けていたなら、このような事態にはならなかったかもしれない。
もう少し周りに目を配っていれば、未然に防ぐ事が出来たかもしれない。
かなりの疲労が蓄積し、思考が鈍くなっていたのは確かだ。
ならば疲れていなければ、おかしいと思った時点で起こりうる事態を推し量る事は出来ただろうか。
しかしそんなことを今更悔やんでみたところで、既に事は起きてしまったのだ。

胸の内に燻る憤りは首謀者へではなく、自身へと向けられるばかりで・・・。
(自分は何のために此処にいる、主上を護ると誓ったのではなかったのか・・・それなのに、主上を危険に晒してしまった)
唇をギュッと噛み、苦渋に歪む表情を見せまいと顔を俯ける。

「私も、もっと早くに気付くべきでした。一体何のために此処にいるのか。今更言っても仕方ありませんが・・・。御側に無くて、申し訳ありませんでした」
少し沈んだ様子の声に陽子は視線を下ろす。
跪いて帯の上から飾紐を結んでいるの表情はよくわからなかったが、心配を掛けてしまった事を申し訳なく思う。
「いや、が謝る必要はないよ。一人になったのは私自身の責だ」
を見遣ったままそう言えば、彼女はほんの僅かだが悲しげに微笑んだようだった。

「そうは仰いますが、主上御一人の責というわけにもいかないのですよ。それに・・・、何故側にいてくれなかったんだ、って怒鳴って貰った方がどれほど救われることか・・・。主上の御無事を確認出来るまで、生きた心地が致しませんでしたよ。他の方達もきっと同じでしょう」
「・・・ごめん。何だかがいつも側にいてくれると妙に安心するんだ。だからつい、この王宮内に危険な事があるなんて頭から抜けていた。気を抜いたというか、・・・はいつも色々と尽くしてくれるし、忙しいのに私の勝手でそうそう呼び立てるのも気が引けたというか・・・。・・・本当に、すまなかった」

安心すると言って貰えるのは嬉しいが、気を抜かれては困る。
それに王に気を遣われるというのも頂けない。
主上の気安い性格は長所でもあり、同時に短所でもある。
自分の存在が真実主上の為になっているのか、どうにも複雑な気分になってしまう。
は小さく息を漏らし、柔らかく微笑むと「私はそのために此処に居るのですよ」と陽子の顔を見上げた。