さあ台輔、戻りましょう      NEXT(2)へ

女官の詰め所、といっても単なる休憩所に過ぎないのだが、此処には仕える官府を問わず女官が集まる。
女性は基本的に皆噂好きであり、時間があれば茶を啜りながら四方山話に事欠かない。
自身はあまり世間話等というものに興味は無いのだが、やはり時間さえあれば出来るだけ此処に赴き、皆の話を聞いていた。
興味をそそられる話など滅多にないが、それでも中には意外な噂話や感心させられる話もある。
いわば此処は宮中の情報集結地のようなものだ。










その日もは空いた時間を情報収集にあてようとやってきていた。

備え付けられた茶器から茶を注ぎ、茶碗を持って集団から少しだけ離れた位置に座る。
一口お茶を口に含み、それをゆっくりと味わいながら嚥下する。
温かいお茶が疲弊した身体にじんわりと滲み入るのを感じながら、身体の凝りを解すように深く息を吐いた。

実はこのところ慌ただしい日々が続いており、殆ど休息も取れず、此処へ来たのも暫く振りだった。
それというのも、戴国より劉将軍が何の前触れもなく、瀕死の身で禁門へ転がり込んできたためだ。
漸く動き出したばかりの慶は人手も少なく、まだまだ安寧にはほど遠い。
その最中に他国の将軍が滞在しているのだから休む間もない。





戴では現在、王と台輔が不在だ。
内乱の最中に両者とも行方知れずとなり、それきり消息が掴めないままでいるという。
主立った朝臣は悉く討たれ、阿選に反意を見せた者もまた容赦なく斬り捨てられているという。

阿選・・・あの丈将軍が・・・。

は阿選を知っている。
驕王朝時代が終わりを告げようとしていた頃、戴国内のあちらこちらで紛争が起こった。
それはいつの時代にも、どの国でも同じように繰り返されている事だ。
王が政を放棄し、道を外れて則を乱せば、必ずと言って良い程国は荒れるものだ。

当時傭兵として戴へ入ったは、禁軍右軍の末端につき、加担した。
幾ら下っ端の傭兵で直接指示を受ける事がないとしても、自分の上に立つ者が誰であるかくらいは把握している。
それは大抵の場合、名を知る程度に留まるが、はたまたまその姿を見かける機会に恵まれたというだけのことだ。
それが右将軍阿選だった。

傭兵は自ら仕事を選び、雇い主を選ぶ。
中には高報酬だけが目当てで仕事の内容など我関せず、という者もいるが、それは極一握りだけだと言っても良いだろう。
は報酬には拘らず、常に義勇の側を選んでいた。
当然、当時の戴でも情報を仕入れ、阿選の為人を聞き及んだ上での選択だった。

たまたまのいる野営地を訪れ、麾兵に労いの言葉を掛けている男がいた。
その高貴な甲冑姿から相当な地位である事は容易く予想できたが、近くにいた軍兵から自分たちの上官である禁軍右将軍なのだと聞かされた時には心底驚いたものだ。
将軍という地位にありながら、普通なら眼中にも掛からないようなこのような僻地にまで自ら出向いて麾兵を労う彼は、威厳を備えていながらも傲慢さは感じられず、遠目に見ているだけでも眩い存在だった。
麾兵思いの信頼出来る将軍・・・それが当時の阿選に抱いた率直な印象だった。

それなのに今何故、阿選が民を虐げ、朝廷を牛耳るような真似をしているのか。
が見たあの阿選は偽りの姿だったとでもいうのだろうか・・・。



戴朝廷は荒れ、急速に国全体にも荒廃が広まり、身に覚えのないまま反逆者として追われる身となってしまった劉将軍は、藁にも縋る思いで慶へと逃れてきた。
だがはっきり言って慶の王宮は人手不足だ。
内宮となるとそれは更に顕著で、絶対に信用のおける数少ない者だけが踏み入ることを許されている。

陽子の側仕えであるもその一人だが、常の忙しさに加え、今は劉将軍の世話役も任されていた。
更には、戴を救うべく他国にも呼びかけて行方不明の泰麒捜索に乗り出し、それに伴う所用も増し、各国からの使者、それも王や台輔が続々と訪れるので、その対応に追われ、本当に寝る間もない程なのだ。
そして先日、漸く蓬莱にいた泰麒が連れ戻され、何とか一息付ける状態になったところだった。



目が回る程の忙しさに、暫くこの休憩所にも来ていなかった。
その間の情報収集が出来ずに、王宮内に何か変わったことが無いかどうかを確かめる術もない。
ほんの僅かしかない休憩にわざわざ此処へ来たのは、少しでも情報を耳に入れておきたいと思ったからだ。





「今日ね、偶然冢宰にお会いして微笑まれちゃった。もう私、死んでも良いってくらい幸せ〜!」
(・・・そんなことで一々死んでたら命が幾つあっても足りないわね。精々冢宰の隠し持っている爪に抉られることのないよう祈るわ・・・)

「あら、私なんか台輔のあの吐息を聞けたわ!それがもうとっても色っぽくて・・・♪」
(台輔の溜息が色っぽい吐息ですって!?毎日のように聞かされているこっちが溜息吐きたいぐらいよ・・・)

「ええ〜、私はあのガッチリした大僕が素敵だと思うわ。笑うととっても可愛らしいのよ」
(大僕って・・・虎嘯!?・・・可愛いですって!?・・・ま、まあ、好みなんて人それぞれだし・・・)
思わず茶に咽せそうになりながら、虎嘯の可愛い笑顔を想像してみる。
(・・・・・・・・・・・・)

はいいわよね〜。主上は格好いいし、美形揃いの殿方に囲まれて毎日過ごせるなんて、本当に羨ましいわ」
(上辺だけを見て妄想に浸っているうちが幸せよね)
不意に矛先が自分に向けられたは、曖昧に苦笑して見せただけでその場をやり過ごした。

早口で捲し立てる甲高い声、それにつられ数人が大声で笑う。
かと思えば今度は急に声を潜めて何やら深刻な表情で話し、周囲の者はそれに聞き入りながら感嘆の声を上げる。
休憩にやってきたというのに皆良く喋り、良く笑う。
あれでは余計に体力を消耗してしまいそうだが、彼女たちにとってはそれが活力剤なのだろう。

は皆から好かれているが、敢えて輪の中に入ろうとはしない。
時折同意を求められると、笑んで当たり障りのない相づちを返す。
どうかと問われれば、やはり笑んで当たり障りのない返事を返してやる。
の事を物静かだと思っている彼女たちはそれで満足しているようだった。

寝不足の頭に、女官達の賑やかな囀りも何処か遠く感じ、(これなら仮眠した方が良かったかな)などとぼんやり思いながら欠伸を噛み殺した。



ぼんやりと窓の外に視線を向けていると、不意に目の前に小さな音を立てて茶碗が置かれた。
そちらへと首を巡らせ視線を上げると、今入ってきたのだろう女官がニコリと微笑みながら隣の椅子に腰掛けようとしていた。

「こんにちわ、紗春。今から休憩?」
「ええ、久しぶりね
そう挨拶した紗春は常と変わらなかった。
だがふと視線を落とし、何か言いたげに口を開き掛け、言い倦ねてまた閉じる。
一見気付かずにやり過ごしてしまいそうな、そんな些細な違和感をは見逃さなかった。
「どうしたの?何か悩みでも?」

自分の異変に気付いて切り出して欲しかったのか、紗春は俯いていた顔をぎこちなく上げながら、手にしている茶碗を指で弄ぶ。
「・・・ううん、ちょっとだけ気になった事があって・・・。でもこんな事、言って良いのかな・・・」
「なに?私で良ければ聞くわよ。聞き流して欲しいというならそうするわ」
相手を少しも気負わせる事はせずに、優しく且つ軽く促してみた。
紗春はそれに安心したのか、少し苦笑して見せて「うん、ありがとう。・・・あのね」と声を潜める。
は周りに聞かれずに済むよう、顔を紗春の方へと近づけ、話しやすい体勢を整えてやる。

「・・・だから、言えるのよ。でも、私の思い過ごしかも知れないし、さらっと聞き流してくれると気が楽になるわ」
そう前置いて紗春は話を始めた。
「なんだか嫌な感じがするのよ。元々あまり好きになれない方達なんだけど。・・・ほら、前にも話したでしょう、女官を人として見てないような扱いをされるって」
其処まで聞いてやっと話が見えてきた。

紗春は天官府の内小臣の元に仕えている。
官府内の全ての者がそうではないのだが、女官を便利な”物”としか認識していない官が居ると言う事を以前にも紗春は零していた。
確かに女官など上位の官吏から見れば単なる小間使い程度の存在なのだろう。
しかし人として、女性としての扱いを忘れ、極端に言ってしまえば最早奴隷のような為され様だと聞いた。
実際に天官府に仕えていた数名の女官がそれに堪えきれずに辞めていた。
そして、虎嘯や祥瓊や鈴、といった新たに召し上げられた者達に対する態度や視線が殊更冷たいのもまた事実だ。

「ここ数日、毎夜のように会合があるみたいなの。それも深夜によ。私も昨日と一昨日の二回、その会合の席に御茶を御出ししたのよ。私が入っていくと中が静まりかえってるの。それだけなら重要な会合の時はいつもそうだから気にならないんだけど、・・・でもね。なんかこう、いつもと違って空気が重いのよ。それに顔触れもいつもと違ってバラバラなの。そんなに重要な会合に加わるような格じゃない下官の方もいたりとか・・・。それにね、『この会合が持たれている事を一切口外するな、他の天官内の者にもだ。他言すれば厳重に処す』って。それってまるで脅しじゃない。そんなこと言われなくたって分かってるし、実際今までの会合でそんな事言われた事無いし、・・・それに天官内の他の人達も知らない会合なんて変でしょう?私もう怖くなっちゃって・・・このままあそこに仕えるのは嫌だわ。・・・私も、辞めちゃおうかしら。。。」

紗春は気立ても良く、真面目で辛抱強い。
他人の悪口や愚痴も滅多に零さないし、勿論仕事のことを口外することもない。
その紗春も天官府の異常な雰囲気だけは我慢ならないのか、にだけはこれまでにも二度ほど不満を漏らしている。

「・・・そう。話を聞いただけでもあまり良い感じはしないわね。でも大丈夫よ、きっと何か特別重要な会議なのでしょう。貴方はまだ誰にも喋っていない、良いわね?私も貴方から何も聞いてはいないわ。ただ・・・一応、一つだけ聞いても良いかしら。その場に居た人が誰か教えてくれる?」
に聞かれ、紗春は言っても良いものかどうか少しの逡巡の後、コクリと小さく頷いて、殊更声を潜めて彼らの名を口にした。
「ええ。初めて見る顔で名前も役職もわからない人が三人いたけど、後の方達は・・・」



紗春が辞めたいと言い出す程、天官府の内情は頗る良くないものらしい。
まだ安定したとは言い難い朝廷、各府では前王の時代に私腹を肥やすことに慣れてしまった官吏が少なからず残っている。
横柄な態度の役人達に、女官の間でも各所の良くない噂を耳にすることが間々ある。
その中でも天官府のそれが突出していることは明らかなようだ。

(一度、様子を確かめに行った方がいいかな・・・)