さあ台輔、戻りましょう    NEXT(暗殺)へ

ここは戴極国瑞州都鴻基。
ここに水禺刀との共鳴を感じ取った一人の老人がいた。

長い間沈黙を保っていた水晶球が突如光り出した。

「・・・見つけました。とても強い光を感じます」
もう何年もの間水晶球を見守ってきた年老いた呪術師玄綜は目を細めてそう告げた。
玄綜の背後に立っている、頭から目深にすっぽりと闇色の外套を纏った男は、辛うじて見えるその口元に笑みを浮かべた。
「どこだ」
聞かれ玄綜は再び水晶球に意識を集中させる。
「これより南南西、おそらく慶東国かと」
「期待できるか」
「どのような者かはわかりかねますが、闇を感じませぬゆえ時間がかかりますぞ。目覚めたばかりの清らかな水、まだ不安定で力の制御も出来ぬはず。・・・磨き甲斐がありますな」
「よし、行け」
「仰せのままに」

水晶球の強い光は程なくして今にも消え入りそうな弱々しい光へと変わった。
その頼りなげな光を見て玄綜は僅かに苦笑した。
「おやおや、困ったものだな。そのようでは命が幾つあっても足りぬぞ。今死なれては困る」
玄綜が水晶球に手をかざし、口の中で何事か紡ぐと光が僅かに大きくなった。
「目覚めよ。そして生きるのだ」








自らの手で兄を殺めてしまったあの事件から半月程経ち、の体調もすっかり良くなり、いつもと変わらぬ日々を過ごしている。
その日、ここ慶東国に真冬の夜に相応しくない一陣の生暖かい風が吹いた。



 《おいで》

 呼ばれた、・・・誰かが呼んでいる。
 『行ってはいけない』
 (何故?)
 『だめだ、闇に呑まれてしまう。行くな』
 暗い・・・とても寒い・・・。
 灯り?・・・炎が、見える。
 (あの炎が私を呼んでるの。あそこに私を待っている人がいる)
 『行ってはならぬ。危険だ』
 寒い。
 炎が暖めてくれる。
 ・・・違う、炎じゃない。
 炎のような瞳。
 怖い、・・・嫌。
 行きたくない。
 来ないで!
 私に触らないで!
 
「やめてーっ!」






浩瀚の呼ぶ声ではっと目が覚めた。
「大丈夫か、またひどく魘されていたぞ」
汗で額や頬に張り付いた髪を優しく拭ってくれる。
「闇が・・・炎が・・・」
渇いた喉から震える声を絞り出す。
浩瀚は子供をあやすように、抱き寄せた背中を優しくさすって宥める。
「もう大丈夫だ、大丈夫だから」


カタン。。。
陽子は牀榻の横に立て掛けてあった水禺刀が倒れた音に目が覚めた。
(また?)
また暴走かと思った。
だが水禺刀から漏れ出ているのはいつもの蒼白い光ではなく白い閃光だった。







その日以来、は夜毎に悪夢に魘されるようになった。

最初のうちこそ平静を装っていたが、日を重ねる毎に疲労と衰弱から傍目にも顔色が優れないことが見て取れるようになっていた。
陽子や浩瀚は勿論のこと、他の者も皆心配し休むよう勧められたが、休んだところで眠れば悪夢に魘されるという有様で体調が回復することはなかった。
だが不思議なことにが倒れて寝込んでしまうという事は無かった。
そろそろ限界という頃になると悪夢ではなく決まってある夢を見ていた。
それは暖かな炎がを包み癒してくれるという夢だった。
その夢を見た後は体調が一時的に回復し、また悪夢により限界まで追い込まれるという事を繰り返していた。

そして再び限界を迎えようとしていたある夜。
もはや臥牀で寝ることが無くなり、卓子で浅い眠りを貪る習慣が出来てしまっていたはその夜も自室の卓子に伏してうとうとしていた。

その声はいつもより鮮明に聞こえた。
 《おいで》
 ・・・誰? 
 《おいで、癒してあげよう。楽になりたいだろう》
 
ふと目が覚めた、だが覚醒しても尚、声は聞こえる。
ぼんやりとした意識のまま声のする方へ歩き出す。
いつも癒してくれる暖かな炎、この声のする方へ行けば楽になれると思った。

『行ってはいけない!』
突然どこからか別の声が聞こえたがはそれを無視した。
行かないともうこれ以上堪えられない、もう限界だった。
はそのまま王宮から姿を消し、戻ってこなかった。










呪術師玄綜に連れられ、着いたのは戴極国瑞州都鴻基にある邸宅だった。

数刻後、と玄綜の待つ堂室に一人の男が現れた。
男の纏った気は恐ろしく威圧的なもので、恐らくこの男の前ではどんな人間も屈してしまうであろうと思わせるものがある。
頭から被っていた闇色の外套を外すと、真っ直ぐを射抜く鋭い眼光に一瞬にして背筋が凍った。
今まで感じたことのない途轍もない恐怖を感じ、身体が凍ったように固まって動けない。
膝がガクガクと震えているのを感じるが、それでも何とか気力を振り絞って立っていられる自分が不思議なくらいだ。

はこの男を知っていた。
だが目の前の男の纏っている気はの記憶にあるものとはあまりにもかけ離れていた。
一体何がこの男を変えさせてしまったのだろうか。

「・・・丈、将軍」
は驚愕のあまりに無意識に相手の名を口にしてしまっていた。
しまった、と思ったがもう遅い。
全てを見透かされてしまいそうで、心臓を射抜かれそうで、本能的に危険を感じ咄嗟に視線を逸らせた。

「ほぉ、私を御存知とは光栄ですね。以前どこかで?」
「・・・前王の内乱の折に、将軍の傘下に」
「貴方は戴の方なのか」
「いいえ。・・・傭兵、ですから」
「なるほど。しかしあの乱はもう二十年近く前のことだ。では貴方は仙ということになるが、現在は何をしておられる」

口を閉ざしたいのに、己の意志とは裏腹に言葉を紡いでしまう。
何か抗えない力に心を引き出されている。
心身共に弱り切った今のには抵抗する術はなかった。

は思わず口にしてしまった己の失態を悔やんだが、悔やんでみたところで今更どうしようもない。
が知っている二十年前の丈阿選は人望篤く、信頼できる将軍だった。
現在の阿選のことは先の李斎と泰麒の件から聞き及んでいた。

そして今、目の前にいる阿選は何を考えているかわからない、得体の知れない男だと本能が警鐘を鳴らす。
ここで今自分の素性を明かしてしまったら慶にまで被害が及ぶ可能性も否定できない。
李斎と泰麒が慶に居たことを知ったら、慶に阿選のことが知られていると知ったら・・・きっとこの男は・・・。
は丹田に力を込め全神経を集中させ、心に鍵を掛けた。

「・・・現在も傭兵を。私は元は巧国の人間ですが、御存知のように巧国は今王を失い荒廃しております。私も家族を失いましたので、いずれ仙籍からも除外されると思います」
は以前知り合った巧の紫香という女兵士のことを思い出していた。
彼女は既にこの世の者では無かったが、仙の身であり家族を失ったと聞いていた。
は自分の素性を隠すため時折彼女の名を借りていたのだ。
どこまで通用するか不安だが、現在混乱状態にある巧で裏を取るのは極めて困難な筈だ。

「名は何という」
「・・・紫香」
「では紫香、貴方は自身の不思議な力に気づいておいでかな」
ははっとしたが顔には出さず平静を装った。
「不思議な力?私には、そのような力など、ありません」

「ふむ。なかなか大した精神力をお持ちのようだ。殆どの者は私が睨んだだけで腰を抜かしてしまうので面白くないのですよ。私は至高の存在として崇めるに足る御方を探しているのです。貴方こそ、それに相応しいでしょう」
「何を仰っているのかよくわかりません」
「今はまだわからなくて宜しいのです。力を自在に操れるようになるまで暫くは私が指示を出しますので、その通りになさってくだされば結構です」
「私の力とは、何なのですか」
「目に見えない力ですよ。その力を完璧に使いこなせれば貴方に不可能なことなど無くなるでしょう」

「・・・何故、私なのです」
仙や妖を斬ることが出来る冬器には呪が施されている、ならば冬官の中にも呪術に長けた人間が多くいる筈だ。
「冬官の呪術師など大した力を持ってはおりません。だが貴方は違う、貴方の力は私の望みを叶えてくれるでしょう」
「将軍は、何をお望みなのですか」
「破壊、ですよ。何もかもを、無に・・・」
「私に、それを手伝えと?」



「紫香、私を見なさい」
囁くように言いながら、阿選の視線を避けていたの顎に手を掛ける。
阿選がの瞳を覗いてくる、は何故か阿選から目を逸らせなかった。
背筋を悪寒が走った。
吸い込まれていくような感覚と何かが自分の中に入ってくるような感覚。
身体の力が抜けていくのを感じた。

「貴方は破壊を望んでいる。全てを壊したい、そうでしょう?」
の瞳が僅かに揺れた。
(私が、望んでいる?壊したいと思っている?)
阿選に言われるとその通りだと思えるような気がした。

だが不意にの中で警鐘が鳴った。
(違う。これは・・・まさか、幻術?)
心の弱い人々が阿選に抗えずに言いなりになっているのはこの術のせいではないだろうか。
そう考えると合点がいく。
阿選の幻術に玄綜の呪術、なんとも恐ろしいことだ。

は心を閉ざし、阿選の気を跳ね除けた。
「私は・・・私はそんなこと望んでいません」
は阿選の瞳から目を逸らさず、真っ直ぐ睨みつけたまま言い放った。
「なんと。これ程までにあっさりと私を跳ね除けるとは・・・」
阿選は瞠目したが、しかしその表情は嬉々としていた。



二人の側で水晶球に手を翳し何やら唱えていた玄綜がふと目を開けた。
水晶球との中から同時に白い光が溢れ出す。
の中から出た光はそのままをすっぽりと包み込む、身体が焼けそうな程熱く息苦しい。
「なにを・・・やめて・・・」
は自分を包み込む光から解放されようと必死に抵抗した。
水晶球の光は外に出ようとして内側からみしみしと皹を生じさせ、とうとうその力に耐えきれずに水晶球は粉々に砕け散った。
同時にを包んでいた光も弾けるように消えた。
その光景には驚愕し、玄綜は「想像以上だ」とうっとりと目を細め、阿選は瞠目し息を呑んだ。

阿選はゆっくりとに振り向く。
「これが貴方の力。しかも剣を扱えるとあればこれ以上頼もしいことはない。私など貴方の前では虫螻同然、私は貴方の忠実なる僕となり貴方を頂へと導きましょう」
阿選は恭しくの前に跪いた。

「・・・今のが・・・私の、力だと?」

呆然としているに玄綜が答えた。
「左様で御座います。貴方様は類い希なる力をお持ちです。これから儂がその使い方をお教え致しましょう。今の水晶球は貴方様自身です、力を制御できずにいれば貴方様は自らの力に滅ぼされてしまいましょう。まずは力を抑えることを学んで頂かなくてはりません。事実、貴方様は一度御自身の力を抑えられず命を落とされかけましたな」
そう言われては思い出した。

水禺刀と共鳴し衰弱しきって生死の狭間にいた時、自分に癒しを与えてくれた暖かな炎。
確かにあの時聞こえたのと同じ声、ではこの呪術師が自分を救ってくれたということか。
それだけの力を持っているならば、それならば・・・。

「貴方だって強い力を持っているのではないですか。ならば貴方が」
言いかけたを玄綜の笑い声が遮った。
「儂も自分の力を自負しておりましたが、残念ながら貴方様の足元にも及びませぬわ。儂が貴方様を見つけたのではありませぬ、貴方様の力がここまで届くほど強いのです。貴方様の力に敵う者はおそらく十二国中探しても居りますまい」

自分はそれ程強大な力を持っているのか、自分は何のためにこの世に生を受けたのか。
達王は慶を、景王を守るために自分に呪を施したのでは無かったのか。
力があることは知っていた、だがそれは水禺刀と共にある時にだけ発せられると思っていた。
(破壊?一体私に何をしろと?)

戴一国を滅ぼすつもりなら阿選と玄綜の力があれば充分ではないだろうか。
李斎の話では、阿選に反発していた者達が次の日には呆気なく寝返っている状況だと言っていた。
阿選のあの圧倒的な存在感と術には誰も抗えないであろう、抗えばそれは死を意味することになる。
そしてこの邸に居る者達もどことなく自失しているように見える。

国内は妖魔が跋扈し、人の居なくなった街も少なくないという。
生き残った者は難民として雁に逃げ渡り、国はほぼ壊滅状態といっても過言ではない。
これ以上何を破壊する必要があるのだろうか。



は部屋の隅で控えている兵を盗み見る。
阿選と玄綜がから目を離した僅かな隙をついて、兵の腰から剣を奪い取った。
驚いた兵が後ろからを押さえようとしてきたのを剣の柄で鳩尾を突いて昏倒させた。
そして阿選に斬りかかろうと足を踏み出す。

だが、そこまでだった。
は見えない力にはじき飛ばされ、同時に身体が酷く重たくなるのを感じた。
倒れたまま起きあがれない、体中が軋んで圧迫感と痛みにどっと汗が噴き出る。
「無駄ですよ。私を倒そうと思うのなら早く力を得ることですね」
阿選は冷たく笑みを浮かべながら言い放った。


これでは逃げることも不可能だ。
玄綜はから出る力を水晶球を通して見つけることが出来る。
どこへ逃げてもすぐに連れ戻されてしまうであろうことは目に見えていた。
そのためか邸内ではは束縛されることなく比較的自由に歩き回れた。
時間があればあちこち見て回り、邸の構造とどこに何があるかを少しずつ頭に叩き込んでいった。
唯一の救いは阿選の気を跳ね返すことが出来たため、操り人形になることだけは免れたということだった。

そしては玄綜に付いて、力の使い方を学び始めた。
傭兵で培った剣技と集中力と勘のおかげで印の結び方と呪文を覚えると後はぐんぐんと腕を上げていった。
今まで以上に楽に完全に気配を消せるようになり、相手の気を逸らすことも出来るようになった。
単純な構造の物は封印できるようになり、相手の動きを少しだけ封じることも覚えた。
そして微弱だが結界も張れるようになった。
まだ複数の術を同時には発動できないが、後は経験と慣れの問題だろうと玄綜は言った。







そうして一月が過ぎた頃、は阿選に呼ばれた。

「貴方も大分力をつけられた。そろそろ実践に生かして頂きましょう」
阿選の言葉には我知らず身構えた。
「現在、我が主上と柳北国王には玉座から退いて頂いております。ですが決して殺しはしません。存命であって頂かなくては、新王に立たれては困るのですよ。御存知のように戴は既に焦土と化しています。次は柳北国の番です」

阿選の言葉には以前が言っていたことを思い出した。
王が亡くなったなら次王が立つまで堪えればいい、だが亡くなってもおらず玉座にも居ないというのはある意味最悪のことだ、と・・・。
今阿選がしようとしていることは正にその最悪の状況なのだ。
(これが、阿選の言う破壊なのか・・・戴だけではなく柳にまで手を出したということは、まさか・・・)
まさか十二国全土を破壊しようとでもいうのか。

「将軍は何故破壊を望むのですか」
の問いに阿選はすぐには答えなかった。
阿選はどこか遠くを見るような目で何かを考えていた。
「わかりません。ですが、やらなければいけないのです」
呟くように言った阿選の瞳はどこか悲しげだった。
には阿選が答えを持っていないように思えた、どうも腑に落ちない。

阿選一人なら何とか倒せるだろうか、だが傍らには力を持った呪術師玄綜が常に側にいる。
それに今や戴は阿選の独壇場と化している。
冢宰も死に、地官長を始め阿選に反意を示す者は悉く処刑されたと聞く。
今や戴に残っている人間はその殆どが阿選を支持している。
最早阿選は王となったに等しい、だが実際は王ではないので天命が尽きることもなく、仙の身であるから寿命が尽きることもない。
今の一人では何も出来ない。
出来るだけ早く玄綜を越え、そして力を貸してくれる存在を集めることが必要だ。
他国からの兵の侵入は覿面の罪があるので不可能だ、・・・ならばどうすればいいか。



「貴方にはまず柳北国へ行って頂きます。先程申しましたように現在柳の王は不在ですが、冢宰がなかなかの傑物、彼の存在は私にとって障害となります。貴方には冢宰を屠って頂きます」
「私にはそんな恐ろしいことは出来ません。将軍が御自分で行けば宜しいでしょう」
「貴方だからこそ出来得るのです。それに私は戴の将軍、他国に攻め入る事は適わないのです。まだ主上に死んで頂くわけにはいきませんのでね」

「・・・わかりました」




そして数日後、柳では冢宰が何者かによって殺害されたと官吏達は混乱に陥り、王と冢宰の居なくなった柳王朝は騒然となった。

戴に戻ったに阿選は「お見事で御座いました」と至極満足そうだった。
単身で他国の王宮に忍び込み冢宰殺害を難なく成し遂げてきたことに気を良くして、はまた少し阿選の信用を得て、自由を与えられ外出も許されるようになった。