さあ台輔、戻りましょう      NEXT(秘め事)

ここは柳北国芝草芬華宮。

王宮に忍び込むのは骨が折れる。
気配を消し、往来する官吏の気を他へ逸らし、人気のない場所に身を隠して休むということを繰り返し、少しずつ燕朝へと昇っていく。

柳では確か国官の太子がいたはずだ。
元傭兵であり現在陽子の間諜であるは王宮の構造にも詳しく、堂室に忍び込むことは造作ない。
だがここは他国であり、しかも太子が居るのは後宮だ。
慶では後宮が使われていないため大まかな見当しかつかないが、後宮は人の往来がほとんど無く、護衛さえ気を付ければどうにか気づかれずに侵入出来るかも知れない。
それに力を使えば自分の気配を消し護衛の気を逸らせることも可能だ。
唯一問題なのは堂室に入った後、太子が突然現れた自分に驚き大声でも出されたら計画全てが水泡と化してしまう。

もう一つ問題がある。
それは麒麟の存在だ。
確か劉麒だったと記憶しているが使令まではわからない。
麒麟も使令も気配に聡い、そして血の臭いにも敏感だ。
太子と冢宰に使令が付いていないと良いのだが・・・。
少なくとも自分に殺意はないから麒麟の側に居るのであれば大丈夫だろうとは思う。
だが冢宰府での血臭を悟られるのは避けられないから素早く王宮から脱出しなければならない。
かなり危険な駆け引きだ。



広い園林に身を隠しながら後宮へと近づく。
灯りの漏れている堂室の窓から中の様子を窺うとすぐに太子の姿が確認できた。
歳は十五、六といったところだろうか、少年とも青年ともとれるが、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。
慎重に気配を探る、どうやら使令は付いていないようだ。





太子は書類に目を通していた。
その時、微かに窓がカタンと鳴った。
風かと思いながら音のした方に視線を向けると、そこには窓から入ってきたのか女性の姿があった。

太子が声を上げる寸前には素早く太子の後ろに回り込み口を塞いでいた。
「太子様、どうかお声を出されませぬよう。事態が急を要するためこのような形で押し入りましたことをお許しください。劉王君をお救いするため力をお貸し頂きたいのです。非礼は重々承知の上、事が収まった暁にはどのような処罰も甘んじて受けましょう。・・・ですが、今はどうか私の話をお聞きくださいませ」
の落ち着いた諭すような声に太子も僅かに身体の力を抜き、こくりと頷いた。
は太子の束縛をそっと解くと数歩下がり跪いた。

「劉王君は御無事です。現在は戴極国にて囚われの身となっおりますが必ず私がお救い致します。ですから決して戴へ兵をお出しになりませぬよう。太子様は覿面の罪を御存知ですね?」
太子はその言葉の重みを解し、慎重に頷いた。

「今から私が言う通りになさってください。・・・実は、私は冢宰殿を弑するよう命じられております」
「なっ・・・!」
太子は思わず声を上げそうになって慌てて自らの手で口を押さえた。
(今なんと言った?冢宰を・・・?)
女性が口にした言葉は恐ろしいものだった。
だが何故だろうか、を疑う気にはなれなかった。
不思議な感覚だった。
突然現れた不審な侵入者にも関わらず、目の前の女性からは危険な気配は一切感じ取れない。
それどころかむしろ信じるべきだと思ってしまう、この女性に任せれば安心だとさえ思ってしまう。

は太子の様子を見て一拍おいてから続ける。
「ご安心ください。冢宰殿はこの国に必要な御方、劉王君が戻られるまで国を支えて頂かなければなりません。これから私は冢宰殿の元へ参ります。太子様には冢宰殿をどこか安全な場所に匿って頂きたいのです。くれぐれも御内密に。周りには冢宰殿が亡くなられたと思わせなければなりません」
太子は少し青ざめながら不安そうにの説明を聞いていた。
唇を噛み、拳を固く握りしめ緊張しているのがわかる。

はゆっくりと立ち上がり、太子の冷たい拳をそっと握ると「大丈夫ですか」と出来るだけ優しく声を掛けた。
太子の拳から力が抜けるのを感じた、の温かな手にほんの少しだけ安堵したようだった。
一体何がどうなっているのか、聞きたいことは山ほどあるが、今はそんな猶予など無いだろう。
「・・・大丈夫です。父王が戻るまで国を守って見せます」
真っ直ぐ見つめてくるその澄んだ瞳には必ず成功すると確信した。
「冢宰殿に使令は?」
「付いていないはずです」
「わかりました。お辛いでしょうが今暫くの辛抱です。・・・では、半刻後に」

どうにか信じてもらえたようだ。
思っていたより利発な太子で良かったと安堵する。
彼なら大丈夫、必ず上手くやってくれるはずだ。
だが気を抜いてはいられない、約束の時間まで何事も起きなければよいが・・・






そして冢宰府。
今のところ動きは無い、太子は今頃信のおける者だけ数人連れてこちらへ向かっていることだろう。
音もなく忍び込み、冢宰の背後から近づく。
「っ!?」
相手の動きを封じながら腕を後ろに捻り上げ口を塞ぐ。

「お静かに。危害を加えるつもりはございません。すぐに太子様がいらっしゃいます。冢宰殿には申し訳ありませんが暫く御身を潜めて頂きます。詳細は太子様からお聞きください」
遠くに人の気配を感じる、おそらく太子だろう。
は剣で自分の腕を斬ると傷口から血を絞り出し床に落とし広げる。
それを瞠目し、信じられぬと唖然として見ている冢宰に「どうか御無事で」とだけ告げ、身を翻してひらりと窓から身を投げた。


続々と冢宰府へ向けて走ってゆく官吏達を横目に素早く王宮から脱出し、癒しの呪文を唱えながら傷口に手を翳すと痛みが薄れ出血は止まった。
傷口は完全に塞がってはいないが、そのうち跡形もなく消えてしまうだろう。
「何だか碧双珠に申し訳ないな・・・」
緊張と不安で鼓動は早いのに、どこか冷静でいられる自分に自嘲の笑みを零す。

太子と冢宰はうまくやってくれるだろうか、自分は本当に囚われた王を救い出せるのだろうか。
王が不在となって後、国を支えてきた冢宰までもが殺されたとあってはこれから益々国は混乱し荒れるだろう。
どうにか持ちこたえて貰わなくてならない。

今の自分では阿選を討ち取ることが出来ない、王を救い出したいと思うし必ず救い出せると信じたい。
だが実際に今自分がしていることは確実に国を混乱させ、崩壊へと追い込んでいることには違いないのだ。
矛盾に苛立つ、やり場のない怒りと悔しさ、そして不安が胸を締め付ける。

如何に少ない犠牲で勝利するか、どれだけ味方を殺して勝利を得るか・・・。
戦いとはそういうものだと頭ではわかっていてもやはりどこか納得できない、割り切れないものがある。
だが今は不安に竦んでいる暇は無い、出来ることを一つずつ確実にこなしていかなくては。
自分にしか出来ないことがある、自分だから出来ることがある、そう信じたい。
「こんなの・・・詭弁だよね。でも、それでもやるしかない」

大きく息を吐き、気を静めると王宮の外で待機していた見張りの者に「疲れたから少し休みたい」と言い残し、芝草中心にある酒場へと姿を消した。
見張りの者は店まで付いてこようとしたが「一人にさせて欲しい」と頼むと店の外で待つことにしたようだ。
どのみちは玄綜が居る限り逃げられないのだ、見張りの者はあくまでも計画通りに事が進んでいるかを確認するために付けられているに過ぎない。

店に入ると運良く客の中に見知った顔を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。
(私も相当悪運が強いみたいね)
は店の中で一際目立っている大柄の男に近づいていった。

「よお、じゃないか。久しぶりだな、お前も妖魔退治か?」
は苦笑しただけで何も言わずに男の隣に座った。
「藤醐、頼みたい事があるの」
の深刻な表情と押し殺した声に藤醐は一瞬顔を顰めたが、すぐにニカッと笑う。
「わけありって顔だな。いいぜ、言ってみな」









戴に戻ると阿選と玄綜はの心の闇の部分を増長させようとした。
の世話をしてくれていた親しくなった女御をの目の前で処刑したりもした。
憎しみや怒りが心の闇を大きくし、それが力を増幅させるという。
は更なる力を欲した、だが決して闇に呑まれるわけにはいかないのだ。

阿選も玄綜もが単なる傭兵だと信じている、人殺しを生業としてきた人間は闇に呑まれ易いと思い込んでいる。
目の前で繰り返される悲惨な光景に表面上は顔色一つ変えず、だが内心では必死で堪えていた。
剣を常備することを許され、気に食わぬ者は斬り捨てても良いとまで告げられた。

闇に支配されていく振りをするのも、自分の素性を偽り通すのも、心を読み人を操る術に長けている二人の前では途轍もなく大変なことだ。
それでも堪えなければいけない、諦めてはいけない。
負けるわけにはいかないのだ。





「次は何をすればよいのですか」
聞くのは少し怖い気もしたが、阿選の考えを知っておきたい。
「そうですね。貴方には更に強くなって頂かねばなりません。先日の柳の件はまだ序の口です。現在麾下に各国を探らせておりますので今暫くは修行に励まれると良いでしょう」

各国・・・やはり全ての国を崩壊させるつもりなのか。
何と恐ろしいことを・・・。

次はどこの国だろうか。
目を付けるとすれば巧州国か芳極国だが、どちらもまだ王が立っていないので阿選が手を出すとは思えない。
雁州国と奏南国は治世が長く安定しているので崩すのは困難だろうと思うが、治世百二十年になる柳北国王が囚われた程だから一概に安全とは言い切れない。
(私だったら・・・次に狙うのは、やはり慶だろうな)
王登極から数年しか経っていない、優秀な官吏を多く揃えたとしても国はまだまだ不安定だ。
出来れば慶に行くことは避けたいところなのだが・・・。
(それとも東側はこのまま放って置いても荒廃が広がると見て、西側に穴を開けるために才州国か漣極国を叩くか)



は少しずつだが阿選の信用を得てきている。
元々阿選はを縛り付ける事を良しとしなかったのだが、玄綜はそれが面白くないようだった。
だがも疑われるような行動を取らなかったため玄綜も黙認していた。
そして最近を見る阿選の瞳が僅かだが変わってきていることに気づいていた。
そこにあるのは思慕の色、そして畏怖の色。

は少しでも自由を得るため、我が儘な女王気取りを演じている。
非礼を働く者には術で痛めつけ、自分の力を見せつけるようにもなっていた。
当然だが相手を殺す気など更々無い、それにそれをするのは阿選と玄綜が居る時だけだ。
決戦の日までに少しでも兵の数を減らしておきたかったということもある。
一人傷つける毎に自己嫌悪に陥ったが、決してそれを顔に出すことはなかった。
阿選は柳北国冢宰の事もあり、が躊躇無く人を殺せると思いこんでいるようだった。
それでもそう簡単には教えてくれるとは思えないが・・・。

「泰王と劉王はどちらに?」
阿選はぴくりと片眉を上げを見た。
「そのようなことを聞いてどうなさるおつもりです」
「いえ、お会いしてみたいと思っただけです。私は泰王も劉王もお会いしたことがありませんから。それに毎日玄綜と顔をつき合わせていて退屈です、少し息抜きがしたい」
が溜息混じりに言ってみせると、阿選はくつくつと笑った。
「確かに。年寄りの相手ばかりしていては気も滅入るというもの。宜しいでしょう、私も暫く彼らには会っておりませぬ故、不肖この阿選めが御案内仕りましょう」
口元に笑みを湛えたまま阿選は態とらしく慇懃に跪いた。
意外な程あっさりと頷いた阿選に少々面食らったが、これで居場所がわかる、と内心で安堵の息をついた。



は阿選、玄綜と共に王が幽閉されている場所へやってきた。
瑞州と文州の境界にある山の中、洞窟だった。

中へ入るとひんやりとした冷気が漂い肌寒い、だが奥へ行くにつれて見張りの兵の数が増え、火が焚いてあるため思っていたより暖かく感じた。
最奥の抉れた部分に鉄格子がはめられており、そこに二人の王は居た。

元を見たことがないので比較のしようもないが、二人とも酷く窶れている。
これが本当に王なのかと疑ってしまう程、覇気の欠片も感じられない。
億劫そうにこちらに向けた落ち窪んだ瞳は焦点が合っていないようだった。

が格子に手を掛けようとすると何かに当たった。
「・・・結界」
「左様で御座います」と玄綜が答える。
なる程、これでは泰麒も劉麒も王気が感じ取れないのも無理はない。
「どうりで・・・これじゃ逃げられないわね。でも弱くない?この程度なら他の呪術師でも容易に破れそうだけど」
玄綜は口元に笑みを浮かべ目を細めた。
「貴方様からしてみれば弱いのでしょうが、これでも堅い方ですぞ。初めのうちは儂が結界を張っておりましたが御覧の通り、もう本人達には逃げ出す気力もありませんので、今は徒弟に任せております」
「そう、それなら安心ね。とりあえず次の王を連れてくるまではこれで充分ね」
は満足そうに微笑んで見せた。
(場所もわかったし、この結界なら簡単に解除できる)








は考えていた。
どうにかして精神感応が出来ないだろうか。
呪術の心得を持った者なら・・・いや対象が漠然としすぎていて無理だろう、それに玄綜に知られても困る。
水禺刀ならば可能だろうか。
距離が遠すぎるが出来るかも知れない。

そういえば李斎殿や泰麒は今どうしているだろうか。
泰麒ならば或いは可能かも知れない。
麒麟も呪術を操ることには違いない、しかも黒麒麟であり饕餮を使令に下した程だ。
しかし今では肝心の角が欠けている状態だ。
どれも確実性に欠けるが、とにかくやってみる価値はある。
問題は玄綜なのだが・・・。
玄綜は常に水晶球を手に阿選の側に居るが、寝ている間なら気づかれずに力を使えるかもしれない。

玄綜は水晶球を介しているので慶にいたの意識に入り込むことが出来た。
いや正確にはの力が戴にまで届いてしまったので、玄綜は慶まで力を送る必要はなかったのだが。
玄綜にはそれで限界らしい。

だがは水晶球を使わなくともそれくらい出来るようになると言う。
そしてにはまだ水晶球を使うことをさせてはくれない。
水晶球の力に頼ってしまうかららしい、それに水晶球を自分の思うままに操るにはまた時間と修行を要する。
(水晶球があれば今の私でも出来るのに・・・)
言ってみたところで無い物は仕方がない。

精神を集中させて印を結び呪文を唱え、水禺刀に呼びかけてみた。
だが手応えが感じられず応えは返ってこなかった。
やはり遠すぎるのだろうか。
陽子の元にある水禺刀はぼんやりと白い閃光を放ったが、それだけだった。

泰麒は何処にいるのかわからない、それでも意思疎通が可能だろうか。
再び印を結び呪文を唱えながら頭の中で泰麒の姿を思い浮かべる。
ふと何かに触れたような気がしたが、やはり泰麒からの応えは無かった。

酷く疲れた。
まだまだ力が足りない。

精神感応は高度な術だ、対象が目の前に無いというだけでも難しいのに、離れた場所にいる相手の意識に入り込むのは至難の業だ。
以前はこんな力など望んでいなかった、捨てたいとさえ思った。
それが今では阿選の幻術など怖いとも思わなくなった。
玄綜とも対等に張り合えるくらいになったと思う。
だが、それでももっと力が欲しいと思う。

疲労感に体が怠い。
臥牀に身体を横たえると呆気なく眠りに引き込まれていった。