金波宮内殿の一室で陽子と景麒、浩瀚は打ち合わせをしていた。
不意に扉の外が騒がしくなり、何やら言い合う声が聞こえる。
「ここをどこだと思っている」「緊急なんです」「今はだめだ」・・・
何事かと浩瀚が席を立ち、様子を見に行く。
内殿警護の者数人が困惑しながら引き留めているのは血相を変えて何かを訴えている男。
「何事だ」
浩瀚を見て、掴まれていた腕を振りほどき跪くと、息を切らせながら口を開いたのは禁門の門卒だった。
「はっ、先程皋門にて不審者を捕らえたと報せが入りました。その者負傷しており・・・」
口ごもった門卒に浩瀚は「どうした、続けよ」と先を促す。
「はっ、その者が・・・その、恐れながら・・・主上弑逆との言葉を口にしていると・・・」
「何っ!」
浩瀚の表情が険しくなり、奥で聞いていた陽子と景麒も立ち上がった。
「その者は今どこに」
「国府で手当を受けているはずです」
「わかった、ご苦労」
「はっ」
浩瀚は振り返り、「如何なさいますか」と陽子に指示を仰ぐ。
何事も自分の目で確かめないと気が済まない主だ、聞くまでもない事だった。
陽子は躊躇無く頷き、水禺刀を手に取る。
「もちろん行く」
「主上、危険です」
止めようとする景麒を宥めるように微笑む。
「大丈夫だから。景麒は穢れを受けるからここにいろ。浩瀚、一緒に来てくれ」
「はい」
陽子と浩瀚は護衛を従え、すぐに国府へ向かった。
国府の一室、扉の前には緊張した面持ちの兵士が立ち並んでいた。
堂室に入るなり、最初に声を上げたのは浩瀚だった。
「!」
呟きのようなそれを聞き逃さず、驚いた陽子は「まさか!?」と駆け寄る。
そこに横たわっていたのは血に塗れただった。
「こんな・・・酷い・・・。、何があった」
は陽子の姿を認め、掠れる声で事態を伝える。
「主上・・・ここより南西六里・・・廃邸があります・・・周 露斉という男・・・弑逆の意あり・・・」
そう陽子に伝えるとは意識を手放した。
陽子はを見つめたまま「浩瀚、手配を」とだけ命じ、浩瀚は「直ちに」と答えると堂室を出て行った。
手を休めることなく治療を続けている瘍医に「助かるか?」と不安げに問う。
「かなり失血しており危険な状態です。この状態で意識を保っていたなど、とても信じられません」
「・・・そうか・・・大丈夫だ、きっと助かる」
陽子は自分に言い聞かせるように呟き、の手に碧双珠を握らせると瘍医に「頼む」と託し、堂室を後にした。
浩瀚との指示の下、禁軍の動きは早かった。
を連れ戻そうとしていた追っ手が邸に戻ったのとほぼ同時に禁軍の騎獣隊が邸を包囲した。
もはや露斉に逃げ場はなかった。
それでも自ら剣をとり最後まで抵抗を見せたが、いよいよ追い詰められると兵の前で首を掻き斬り事切れたのだった。
内殿では陽子と浩瀚がからの報告を受けていた。
が退出すると陽子が大きく息を吐いた。
「首謀者が死んでしまっては事の詳細が掴めないな。の意識が戻るのを待つしかない」
「そうですね」
浩瀚は小さく同意した。
「ところで浩瀚、一つ聞きたいことがあるのだが・・・」
「何でしょうか」
「何故だとわかったんだ。私でさえ言われるまでわからなかった、王宮の人間は女官としてのしか知らないはずだが?」
陽子に問いただされ、浩瀚は僅かに動揺したようだった。
床に視線を落としたまま何か考えているようだったが、やがてゆっくりと顔を上げ陽子に視線を合わせる。
「存じ上げておりました」
「何をだ?」
「が主上の間諜であることを」
「・・・・・!?知ってたのか!?」
「はい」
「・・・でも・・・だからって、あんなにすぐにわかるものか」
「・・・・・実は・・・とは、その・・・俗に言う男女の仲と申しましょうか・・・」
いずれは話さねばならないと思っていた、この期に及んで嘘をつくのも言い逃れるのも本意ではない。
それでもこのような状況の最中に言うのはどうかと戸惑われる。
いささか視線を泳がせながらも浩瀚はとの仲を打ち明けた。
「なっ!?」
ガタンと椅子が勢いよく倒れ立ち上がった陽子は口をぱくぱくとさせている。
「申し訳ございません」
「・・・・・」
陽子は暫く棒立ちのまま声が出なかったが、何とか立ち直ると漸く言葉を発した。
「・・・いつから?」
「間諜と知った3年程前から。尤も私の方はこちらで初めてを見た時から密かに想いを寄せておりましたが」
「・・・・・浩瀚が?・・・何だか意外だな」
目の前にいる有能な冢宰をまじまじと見つめる。
浩瀚は美形で人気もある、だがこの男の頭の中には恋愛という概念が存在しないと勝手に思っていた。
確かには有能で美人だし言葉では言い表せない不思議な魅力を持っている、事実男性は勿論女性にも人気がある。
和州の乱で自分が一目惚れしたくらいだ、もし自分が男性だったならやはり恋愛感情を持ったかもしれないとも思う。
それにしても、どうしてこの男はこれほどまでに冷静でいられるのだろうと不思議に思う。
先程国府で浩瀚がだと言った時、臥牀までの距離はそれ程遠くなかったものの、治療に当たっている瘍医と助手に遮られの顔は見えていなかったし、着ている物は血で染まり襤褸切れ同然だった。
それだけ二人の絆が深いということなのだろうが、それならば怒り憎しみ悲しむのが当然だ。
感情を押し殺してあくまでも冢宰として完璧に演じているが、その内に隠し秘めている真実は如何ばかりか・・・
二人ともどこか似ているし何だかとてもお似合いだな、と思う反面、 あるいは浩瀚とが逆の立場だったらもやはり同じように振る舞うのだろうなと容易く想像できてしまって些か悲しくなる。
同時に、頑なに使命を優先させ私心を制し、これ程までに冷静でいられる浩瀚に腹立たしさをも覚える。
どうにも複雑な心地だ。
(どうしようもないな、この二人は・・・まったく、世話を焼かせる)
「・・・主上?」
浩瀚は視線が自分に止まったまま呆けている、かと思うと唐突に溜息をつく主を訝しんで声を掛ける。
陽子はその声に忘我していたことに気づき、余計な詮索を思考の外へ追いやった。
「あ、いや・・・その・・・何だか騙されていたようで良い気はしないが・・・。他の者は皆知っていたのか?」
「いえ。ですが、恐らくは気づいているかと」
は何も言わないが、気づいているだろうと浩瀚は確信していた。
「そうか・・・。ああ、もういい、その事については後でゆっくり話を聞かせて貰う。それより浩瀚、今すぐの所に行ってやれ」
「は・・・? ですが主上、有司議が」
愛しい人が生死の狭間にあるかもしれないというのに、まだそんなことを言うのか。
何だか無性に腹が立ってきた、自分でさえの事が心配で側にいたいと思うのに、この男は・・・。
陽子は内からこみ上げてくる苛立ちを抑えきれずに思わず声を荒げる。
「有司議は中止だ。の供述をとってからにする。行け、主命だ!」
浩瀚は常ならぬ主の様子に一瞬呆気にとられるが、すぐに主が何を言おうとしているのか察したようだった。
「主上・・・。有り難うございます」
浩瀚は深々と礼をするとの元へ向かった。
無意識に足早になりながら、心の中で何度も己が主に感謝した。
眠ったままだったが意識を取り戻したのは五日後のことだった。
その間、陽子の計らいもあって浩瀚は政務の間をぬってはの元へ足を運んでいた。
意識を取り戻したとはいえ、まだ供述がとれるような状態でないとの瘍医の言に従い、二日間は陽子と浩瀚が見舞うだけで、も時折目覚めはするがほとんど眠っている状態だった。
浩瀚から露斉が自害したことを知らされるとは俯き、「そうですか」と言っただけであった。
三日目になると背に枕をあてがい、なんとか食事も摂れるようになっていた。
瘍医の許しを得て供述をとるべく陽子と浩瀚、そして遠甫が気になることがあるからと願い出てそれに同行した。
堂室に入るとは背に枕をあてた状態で起きていた。
陽子達が入ってきたのを見ると微笑んで見せる、だがいつもの優雅な微笑みではなく、どこか力無く儚げだった。
臥牀の側の椅子に陽子が座り、立っていた浩瀚と遠甫も陽子に座るように言われ、横に椅子を並べて座る。
「よかった、もう大分良さそうだな」
「主上にはご迷惑をお掛け致しました」
「何を言っている、のおかげで大事にならずに済んだ。ありがとう」
陽子にありがとうと言われ、はゆるゆると首を横に振り俯く。
「いえ・・・私のせいです・・・」
陽子にはの言った意味がわからなかった。
「何があったか、話してくれるか?」
だが、はそれには答えず所在無げに視線を泳がす、
全て話さなくてはいけないとわかっている、だがまだ自身も混乱から立ち直れていない。
何をどう話せばよいものか考え倦ねていた。
正直自分でもまだ頭の中を上手く整理できていない、出来ることなら何もかもを否定して逃げ出したい気分だった。
そんなにきっかけを与えるかのように暫しの沈黙を破り、遠甫が静かな声で問いかける。
「、聞いてもよいかな。そなたの父親の名は確か、透庵というておったな」
は瞠目し遠甫を見上げた。
直感的に、父のことを何か知っているのだと思った。
陽子と浩瀚は遠甫が何を言っているのかわからず首を傾げている。
「老師、それが今回のことと何か関係があるのですか?」
陽子の問いに遠甫は然りと頷く。
「の姓は周だったな、そして今回の首謀者は周 露斉。露斉はの兄だな」
それを聞いた陽子と浩瀚は瞠目した。
そういえば、の籍を調べるために親族の名を聞いたことがあった、と思い起こす。
だがは僅かに動揺しただけで「やはり太師はご存じでしたか」と言った。
「やはりな、そうだったか」と遠甫は顎髭を撫でながら陽子と浩瀚を見ると、またすぐにに視線を戻し話を続けた。
「達王が道を誤る少し前、当時禁軍右将軍だった周 透庵という人物がおった。透庵は達王の信篤くして温厚篤実を絵に描いたような人物でな、その息子が露斉だ」
「そして娘が?」
陽子が言うと遠甫は目を細め「正確には養子だな」と答えた。
「達王に子が出来た、しかし達王はその事を隠し、子を透庵に委ねることにした。その子に未来の慶を託してな」
「でも、王には子が出来ぬと・・・」
「その通り、どうして子が出来たかは儂にもわからぬ。達王はその子に呪を施したそうだ」
「呪を・・・ですか?そんなこと出来るんですか?」
「うむ、儂も半信半疑だったが、どうやら真のようだな。その者が二十の歳になるとその身は自ずと仙となり、その者が水禺刀の側にある時、その主に永久の忠誠を誓う、そしてそれに何人も抗えぬ・・・というような内容だったかな」
「・・・老師、その達王の子というのが・・・」
「うむ。、そなたの胸の辺りに痣があると思うのだが」
は「はい、確かにあります」と言うと戸惑い気味に浩瀚をちらと見て、痣が見えるように少しだけ夜着をはだけさせた。
そこには水禺刀と同じ一対の蒼い痣があり、それを見た陽子は思わず息を飲んだ。
は夜着を元に戻しながら静かに話し始めた。
「私が十九の時に失道の噂が流れ、やがて各地で内乱が起こりました。私は大学の寮にいたので無事でしたが、邸が焼け落ち家族が死んだと報せが来ました。両親から大事な話があるから次の休みには帰宅するようにと言われていた矢先の出来事でした。それから私は旅に出て傭兵をして稼ぐことで生きてきました。そのうち何年経っても自分が歳をとらないことに疑問を感じたのですが、両親から私が成人したら仙籍に入れると言われていたので、おそらく両親が死ぬ前に仙籍に入れてくれたのだろうと信じていました。だから自分はずっと十九だと思っていたのですが、本当は二十だったのですね」
は小さく自嘲めいた息を吐くと先を続けた。
「和州で殺人鬼の首謀者を追っていた時に兄に会いました。あの時兄であると名乗られ、私を捜していたと、私の秘密を知っていると言われ、私は動揺し逃がしてしまったのです。私の落ち度でした、あの時に兄が捕まっていれば・・・。その後兄は私が傭兵であると思い、行方を調べていたようです。そして私は兄の元へ連れて行かれ、秘密を聞かされました。兄は私と水禺刀を手に入れれば玉座につけると信じていたのです。私は主上を弑し、水禺刀を手に入れるよう命じられました。ですがそれに従うなど出来るはずがありません。一刻も早く主上に報せなければと思い、邸を抜け出したのです」
の話が終わっても誰一人口を開く者はいなかった。
重い沈黙が漂い、やがて陽子が「すまない」と呟いた。
「私は、知らなかったとはいえのお兄さんを死なせてしまった、すまなかった」
思いもかけぬ陽子の謝罪の言葉には首を横に振る。
「王弑逆を企てた罪は償わなければなりません。それに兄は・・・あの男は私の知っている兄ではありません。私の兄は両親と共に死んだと思っています。あの男は、生きるのに疲れた、と言っていました。ですから、これで良かったんです」
唇を噛んで苦渋の表情を浮かべている陽子に、は穏やかに微笑んで見せた。
陽子と遠甫が退出しても浩瀚はその場に残った。
二人を見送ると臥牀に腰掛け直し、何も言わずにそっとを抱き寄せた。
兄の死、そして己の正体、宿命。
一度にのし掛かってきたそれらはあまりにも重すぎて押し潰されそうになる。
いっそ死んでしまいたい、身も心も己の全てを無に出来たならどんなに楽だろう。
優しい温もりと馴染んだ香で安堵感に包まれ、離すまいとしっかりと締め付けてくる心地よい束縛に、己が今確かにここに存在しているのだと思い知らされる。
足掻く余裕すら無いほど張りつめ、己を支配していたものが音を立てて崩れていく。
は堪えきれず浩瀚の腕の中で何も考えずに、ただ肩を震わせながら嗚咽を漏らし続けた。
後日、有司議が設けられたがそこにの名が挙がることは無かった。
金波宮内殿、そこには今日も飽くなき戦いを繰り返す陽子との姿がある。
「お願い」
「なりません」
「なんて大嫌いだっ」
「嫌いで結構です」
「見逃してくれないとあの事をみんなに言いふらしてやる」
「何の事でしょう」
「が意識の無い間、浩瀚が口移しで薬湯飲ませてた、ってこと」
「私がどうかいたしましたか(冷ややかにニッコリ)」
「げっ!・・・こ・浩瀚!」
「はい、何でしょう(更にニッコリ)」
「い、いや、何でもない・・・」
「あら、主上がお望みでしたら私がいつでも薬湯を飲ませて差し上げますよ。宜しいですよね、冢宰」
「ええ、何でしたら私が」
言いかけた浩瀚に最後まで言わせず二人の目の前を両手をぶんぶんと振ってみせる。
「あ、あはは・・・遠慮しておくよ。し、仕事仕事・・・」
冷たい汗をたっぷりとかきながら書類を捲り始めた陽子だが・・・
「主上、書類が逆さまでございますよ」
「・・・・・」
抜け出すのを止めることは出来たが、これでは今日の政務は捗りそうもないと密かに溜息をつく浩瀚とであった。