さあ台輔、戻りましょう   NEXT(兄の死)へ

結局一睡も出来ぬまま朝を迎え、宿舘を出ると、王宮へは向かわずに小さな林の中へと足を踏み入れる。
もちろんそこには道など無いのだが、には歩き慣れた場所だった。


幼い頃からこの林が好きだった、人工的な物は何もなく、聞こえてくるのは鳥の囀りと時折吹く風に踊らされ擦れ合う葉の音。
一歩一歩何かを確かめるように地を踏みしめ、その度に枯れ落ちた枝葉がカサリと小さな音を立てる。
細く差し込んでいる木漏れ日の下に立ち、空の青を求めて光の元を辿るように見上げ、眩しさに目を細めた。

そこだけ時が止まっているかのようだった、こうしていると自分の中にあるどろどろと渦巻く闇が溶けて、心ごと洗われていく気がする。
あれからもう百年も経っている、街はすっかり様変わりしてしまったが、何故かこの林だけは昔と変わらずひっそりとその姿を残していた。
いつまでも懐かしさに浸っていたかったが、これ以上居ると時がどんどん巻き戻され、自分を見失ってしまいそうに思われたので先を急ぐことにした。

林を抜けると急に視界が開ける。

目の前に広がるのは乾いた大地、そして寂しげに横たわる忘れられた”石”たち。
その中の一つの石の前で立ち止まり、膝をついて石の上の枯れ葉をそっと払い落とす。
刻まれた文字は風化し薄れ、やっと読みとれる程だった。

 周 透庵
    庸春
    露斉

そこには両親の名と共に確かに兄の名も刻まれている。

は複雑な思いで、無言のまま細い指で字をなぞり、そっと呟いた。
「父様、母様。そちらに兄さんはおられないのですか。一緒ではなかったのですか」
その口調はあくまでも穏やかだったが、死んだはずの兄との非情な再会を責めたい気持ちがあったことは否めない。
返ってくるはずのない答えを待っている自分に「馬鹿ね」とひとりごち、自嘲の笑みを浮かべると大きく息を吐き、その身を翻した。












王宮に戻ったは以前と変わりなかった。
事後報告をした際に、調査だけではなく、和州で直接事件解決に加担してしまったことには陽子に呆れられたが、あれ以来殺人鬼が現れることもなく傭兵が消えることもない、国は再び平穏な日々を送っている。

そうして数ヶ月が過ぎていった。








は久しぶりに休暇をとり、堯天の街の賑わいを堪能していた。
陽が傾きかけ、そろそろ戻ろうかと王宮に向けて歩き出した時、後ろから見知らぬ青年に声を掛けられ振り返った。

「あの・・・さん、ですよね」
「・・・私に何か?」
「祐恵さんが探してましたよ、何か大事な話があるのにさんが見つからないってぼやいてました」
「祐恵が?何だろう・・・。わかった、行ってみる。ありがとうね」
「いえ、では俺急ぎますので」

祐恵とは酒場の馴染みの店の主人である。
言われてみれば暫くあの店にも行っていないな、と思い起こす。
祐恵は信頼できるし、今の青年も殺気がないどころか礼儀正しく、疑う余地は無かった。
名を呼ばれ、ふと疑問を抱いたが、酒場に出入りする者ならばを知っている者は少なくない。

薄暗くなった路地を酒場へと急ぐ。
するとまた後ろから声が掛かる。
「よお、じゃねえか、久しぶりだな」
そう言われて振り向くと同時に鳩尾に重い衝撃が走った。
油断した・・・一瞬の出来事、殺気は感じなかった。
遠退く意識の中で見た相手の顔に見覚えは無かった。










目を覚ますと臥牀に寝かせられていた。

人の気配を感じ、身を起こして房室の中央を見ると男がこちらを向いて座っていた。
兄と名乗った男、露斉だった。

露斉はが気づいたのを見ると、にやりと口端を上げる。
「存外楽に手に入ったな。お前相手に力尽くでは、こちらに被害が出るばかりか逃げられてしまうと思ったのでな」
「それにしては少々手荒い出迎えでしたね」
「ふふ、お前は何も変わってないな。少し調べさせて貰ったが、傭兵をしているそうじゃないか」
「・・・はい」

露斉は気づいていなかった、が金波宮にいることを。
無理もない、は傭兵仲間や酒場ではちょっとした有名人だ、少し調べれば容易く聞き出せる、それに和州でも傭兵として会っている、まさか王宮にいるなどとは思いもしないであろう。
は真実を隠し、傭兵であると認めることにした。

「傭兵とは雇った主に忠誠を誓うものだな。今からお前の主はこの私だ」
「傭兵は仕える主を自ら選ぶもの、貴方に仕える気などありません」
「私はお前の兄だぞ」
「それは関係ありません」
「兄に逆らうというのか」
「私の兄は疾うに死にました」

感情のこもっていないの返答に、露斉は苛立たしげに顔を歪めたが、やがてふっと鼻で笑い立ち上がると、の前まで歩み寄りを見据える。

「確かに私は本当の兄ではない、お前は、『周』の子ではないのだからな」

露斉の口から出た言葉には瞠目し、己の耳を疑った。

「お前は達王が周に預けた子だ、お前の本当の父親は達王だ」

ぞわりと全身に戦慄が走った。
同時に思考に幕が掛けられたように何も考えられなくなる。
「・・・っ!?・・・・・まさ、か・・・そんな・・・・・」

「今更偽りを言ってどうする」
「でも・・・王に子は出来ぬはず」
「その通りだ。だが事実、お前は達王の子としてこの世に生を受けた。何故かは私にもわからぬ。そして王はお前に呪を施し、周に託した。このことを知っているのはごく僅かな者のみ、だが私は周が母と話しているのを聞いてしまったのだよ。お前は二十にして仙の身となり、水禺刀の主に仕え、永久の忠誠を誓う者・・・」
露斉はそう言いながら更に近づくとの襟に手を掛ける。
がびくっと身じろぐ。
「っ!」

胸元が露わになると露斉はそこにある痣に指先を這わせ、不気味な笑みを浮かべた。
まるで至高の玉石を愛でるかのように眼を細め、感慨深げに囁く。
「この痣は呪の証、水禺刀と同じ、一対の蒼」

それはが生まれた時からついていたと母親から聞かされていた痣だった。
「・・・そんなの、嘘です。達王の後にも王は何人も立ちました。・・・信じられません」
兄から告げられた真実を拒むかのように、掠れた声を紡ぐ。

そんなの様子を楽しむかのように、器用に口端を吊り上げ、態とらしく舌舐めずりをしてみせる。
「そうか、あるいはお前が王の側に居なかったから、どの治世も長く続かなかったのやもしれぬ。ならば、私の治世はさぞかし長くなることだろうな」

再び頭部を鈍器で殴られたような衝撃がを襲う。
「なっ!?何を血迷ったことを・・・玉座を簒奪するつもりですか」

「今更寝ぼけたことを、それ以外に何があるというのだ」
「・・・愚かな。・・・玉座を簒奪したところで、貴方は王にはなれません」
「それはどうかな、やってみなくてはわからぬよ。私にはお前がいる、そしていずれ水禺刀も私のものになる」
「水禺刀は正統な主にしか使えないはずです」
「そんなことは承知している。だが、お前と水禺刀が共にあるのなら話は別だと聞いた。試してみる価値はあろう」
「試す?そのように愚かしい賭けなど正気の沙汰ではありませんね。もし王になれなかったらどうするつもりなのですか」
「その時は潔く負けを認めよう。王になれぬのならもはや未練などない、永いこと生きて疲れたしな」

露斉はくくく・・と声をたてて笑うと、の顎をくいと上げ、顔を近づけ囁く。
「我が妻となれ。私が玉座に就けばお前は后妃だ、薄汚い溝鼠の如き傭兵などやめてしまえ。・・・悪い話ではなかろう」
唇が触れそうになる、咄嗟には露斉の手を払いのけ顔を背けた。

一瞬にして露斉の顔色が変わった。
思い通りにならない苛立ちに加え、の反抗的な態度が怒りを煽る。
口を歪ませ見下すその表情は、まさに鬼の形相という形容が相応しいものであった。

パンッと乾いた音が響く。
の頬を打った露斉の手は、まるで血が通っていないかのように冷たかった。
「私に抗うことは許さぬ。お前には王を弑し水禺刀を奪うことを命ずる!」
は愕然とし、言葉も出なかった。



露斉が退出すると入れ替わりに四名の男が入室し、扉の内側を固めた。
外にも数人がついていることは容易く想像できる、の剣は無い、抜け出すのは至難の業である。
もし自分が露斉に従う振りをして王宮に潜り込むとしたなら、陽子に事態を報せることが出来るだろうか。
いや、只の傭兵と信じている者を王宮に潜り込ませるなど容易なことではない、ならば何らかの手段を用いて誘い出すつもりなのか。
露斉の企みが見えない。
(やはり事が起きる前に報せなければ、主上が危ない・・・)






扉の前に立つ男の立ち位置と腰に差している剣の位置を確実に頭に叩き込む。
薄暗い堂室に灯りは一つ、扉側の壁際にあった。
失敗は許されない、確実に一撃で倒さなければ命取りになる。
は目を閉じ深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出しながら精神を集中させ気を研ぎ澄ませた。



手を腰の後ろで組み故意に己の隙を見せる、ゆったりと燭台まで歩を進め、止まると同時に男達は剣の柄に手をかけ緊張を走らせる。
それにやんわりと微笑んで見せ、再びぼんやりと炎を見つめ出すと男達もまた身体から力を抜いた。

だが次の瞬間、堂室が暗黒と化した。

男達の緊張が解けた瞬間を見計らって燭台の灯りを吹き消し、同時に身体を横に滑らせ側にいた男の腰から剣を抜き取るとそのまま腹を突く。
勘と気配だけが頼りだった。
残りの三人は立ち位置から真っ直ぐこちらに向かってくるはず、一人目の男の腹を突くと間髪入れずに目の前に迫る気配に剣を薙ぎ払う、確かな手応えがあった。
次の気配を横から感じ取り身を沈め下から突き上げる、素早く剣を引き、倒れてくる男を横に避けながら残る一人の気配を探る。
だがそこで物音に気づいた外の男達が扉を開けて入ってきた、やはり四人、内の一人が大声を上げて人を呼ぶ。
考えている余裕は無かった、突き出される剣を躱してその腕を斬り落とし、呻く男を楯にして横からの一撃を避け、目の前に迫る剣を受け流し、そのまま円を描くように薙ぎ払う。
残りは無視し、前方にできた隙間から飛び出し廊下に出ると、右方から押し寄せる足音を聞き、左へと走った。

最初の角を曲がると院子が見えた、回廊に出たのだ、迷わず回廊から院子へと手摺を飛び越える。
着地すると同時に走り出すと、すぐに視界に何かが飛び込み、次の瞬間肩に鋭い痛みが走った、・・・矢が刺さったのだ。
四方からは敵が次々と院子に降りてきている。
走りながら矢を力任せに抜き、尚も飛んでくる矢を避け、叩き落としながら前方に見える門を目指す。
左右前方からも鉾を手にした敵が迫り、行く手を塞ぐ。

足を止めるわけにはいかない、とにかく門の外に出ることだけを考えた。
「閉門だっ!」と近くで怒鳴る声が聞こえた。
次々と繰り出される鉾を避け、弾きながらただひたすら走る、その間にも何度か激痛に襲われたが、おそらく敵の方は一人として傷つけられなかっただろう。
殆ど閉じかけた門を強引に走り抜けた。
後は後ろから来る追っ手のみ。

門を出てもそのまま走り続け、すぐに遠くに民家が見え始めた。
しばらく建物の間を縫うように身を隠しながら逃げ、敵の気配が完全に消えたところで漸く歩を緩める。

・・・何とか振り切る事は出来た。
だが決してまだ逃亡成功とは言い切れない。
何より王宮まで戻って陽子に事態を伝えなければならないのだ。
それが叶うかどうかは正直際どいところだろう。
だからといって他に頼れる者はいない、今は自分しかいないのだ。
ここで倒れるわけにはいかなかった。

路地裏に積まれた木箱を見つけ、その影に腰を下ろし呼吸を整える。
改めて自分の身体を確かめると、無数の斬傷と脇腹には刺傷、右肩には矢の傷、衣服は既に全体が血で染まっていた。
(王宮までもつかな。。。これじゃ、さすがに死ぬかもしれないな)
力無く自嘲の笑みを浮かべ、渾身の力を駆使して立ち上がった。

痛みが動きを、感覚を鈍らせる、身体がひどく重たく感じた。
何度か眩暈と共に意識が飛びそうになったが、その度に傷口を鷲掴みにして無理矢理意識を引き戻した。
瞼を閉じてしまえばそのまま眠ってしまいそうで必死に目を見開き、悪寒と吐き気の感覚も次第に弱々しいものになり体中が麻痺してきている。
幸い夜更けた街には人気がほとんど無い、静寂の中で追っ手の気配と足音を感じ、それを避けながら人目につかぬよう歩き続けた。

(王宮まで・・・主上に会うまで、保ってくれればいい・・・)